第38話 第四章10
控えめなノックに、姫華は葵依が戻ったのだろうと扉を開く。
けれどそこに立っていたのは、パジャマ姿の美菜だった。
「こんばんは。姫華さん。入ってもいい?」
「……ええ、どうぞ」
姫華が身体をずらして招き入れると、美菜はちいさく笑った。
「ごめんね。葵依ちゃんじゃなくて。でもそんなにがっかりした顔をされると、私ちょっと傷ついちゃうかも」
「え? わ、わたしそんな顔してた?」
姫華は両手で頬をぐにぐにと揉む。
「葵依ちゃんがいないと寂しいでしょ? ここへ来てからずっと一緒だったもんね」
「……寂しい?」
言われてみれば、確かに先程から落ち着かない。
葵依のことを考えると不安な気持ちになる。
寮の部屋もなんだかいつもより広く感じた。
葵依が戻ってきたと思ったとき、そういう感情が一度に吹き飛んだ。
「喧嘩したんだってね。もしかして初めて?」
美菜がベッドに腰掛ける。姫華はその隣に座った。
「口喧嘩みたいなのは何度か。でもあんなに葵依を怒らせてしまったのは初めて」
「喧嘩の原因は、やっぱり教えてくれない?」
「葵依はなんと?」
「姫華さんと約束しているから話せないって」
「そう……」
葵依が約束を守ってくれたことが素直に嬉しかった。
とはいえ魔法が絡んでくる話なので、言ったところですぐに理解はしてもらえないだろうが。
「ヒントだけでもくれないかな? 私、ふたりに仲直りしてもらいたんだ」
どうするべきか姫華は迷う。
今回の件はすでに自分の中で結論を出している。
美菜に話を聞かせてもなにかが変わることはないだろう。
手間を取らせ、気を揉ませるだけで終わってしまう。
それがわかっていてもなお、姫華は思いを口にしてしまった。
「――ずっと葵依に黙っていることがあるの。それも一つや二つじゃない。ちゃんと話をして葵依を納得させるには、その黙っていることを言わなくてはいけないのだけれど……。それを話したら、葵依は絶対にわたしを許さないわ」
ごめんなさい、と姫華は顔を伏せる。
「こんな説明じゃ、なにもわからないわね」
そうだねぇ、と美菜は困り顔で笑う。
「でもちょっとだけ、私と似ているかも。私も長い間、葵依ちゃんと葉月ちゃんに言えなかったことがあったから。その話をしたら、ふたりが私を怒ったり笑ったり、軽蔑するんじゃないかって勝手に思い込んでた」
ネロのことだ。
彼女はそれで夢に喰われた。
自分とは状況が違う。
そんな姫華の思いを、美菜は見通しているかのように言った。
「もっとも私のそれと姫華さんのじゃ、悩みのレベルが違うのかもしれないけどね。でも話してみると結構すんなりと受け入れてくれるかもよ。葵依ちゃんって懐が深いし。私なんてなにも説明しなかったのに、ずっと一緒にいてくれたもの」
姫華の胸がちくりと痛む。
「……葵依は、わたしの傍からは離れてしまった。美菜さんとは一緒にいたのに。それは葵依と美菜さんが友達で、わたしはそうではないからなのね」
ふふっ、と美菜が笑う。
「それは逆だと思うな。上手く言えないけど――姫華さんと葵依ちゃんは、きっと心が近いんだと思う」
「心が、近い?」
「そう。だから葵依ちゃんは怒ったんだと思う。自分のことを信じてくれないのかって。たぶん、ショックでもあったんだと思うよ。それで部屋を飛び出しちゃった」
「そうなのかな……」
姫華は美菜の話をすんなりと受け入れられない。
なぜなら美菜は、自分と葵依が友達だと思っているはずだから。
自分はまだ、葵依と友達ではない。
そういう話をしていない。
――誓いを、していない。
姫華は頭を振った。
「……わたしには難しい。どうすればいいのかわからないわ」
「そっか。それは困ったねぇ。じゃあさ、もっと単純に考えよ? 姫華さんは、葵依ちゃんが傍にいるのといないの、どっちがいい?」
その問いには考えるまでもなかった。
「……いるほうがいい」
「うん。そうだよね。葵依ちゃんもおんなじことを思ってるよ」
本当にそうなのだろうか。
姫華はそこに疑念を持ってしまう。
ここに来てから、葵依には迷惑ばかりをかけている。
珠希のことでは酷く辛い思いもさせてしまった。
自分が来なければ、葵依がそんな思いをすることはなかったはずだ。
けれど考えてしまう。
もし葵依が自分と一緒にいたいと思ってくれているのなら。
そして自分の素性と嘘と、不誠実を受け入れて許してくれるのなら。
友達になってくれるのなら。
その空想は姫華の胸に熱を広げた。
美菜のスマートフォンが、彼女の太腿で震える。
「……葉月ちゃんから電話だ。どうしたんだろう?」
ちょっとごめんね、と言って美菜は通話をタップした。
「少し熱があるみたいなんよ。洗面所から出たら、急にうずくまって」
葉月はベッドで眠っている葵依の頭を、両手で撫で探る。
「こぶもないし、たぶん頭を打ったりとかはしていないと思うけど、念のために病院へ連れて行った方がいいのかな?」
「わたしが明日連れて行くわ。葉月さんも美菜さんも、葵依を運んでくれてありがとう」
電話で呼ばれて隣部屋へ行くと、床で葵依が葉月に膝枕をされていた。
葵依は意識がないものの、呼吸は乱れておらず、体温だけが少し高いようだった。
「今日は私、こっちの部屋へ泊まろうか?」
美菜の申し出を、姫華は首を横に振って断る。
「ありがとう。でも看病くらいなら、わたしひとりでも出来ると思うから」
「……そう。なにかあったらすぐに私と葉月ちゃんを呼んでね。遠慮はいらないよ」
「部屋の鍵は開けておくから、あたしらが寝ていて電話に出ないようだったら叩き起こして」
「ええ。その時は頼らせてもらうわ」
おやすみ、と挨拶を交わして葉月と美菜は部屋を後にする。
それを見送ってから、姫華は床へとへたり込んだ。
冷静を装ってはいたが、その胸中は狂おしく掻き乱れていた。
姫華の身体は、自分ではどうすることも出来ないほどにガタガタと震えていた。
呼吸は荒く、制御ができない。
これ程の恐怖が世界に存在するなんて。
姫華は自身の身体を掻き抱く。
しかしそれは、震えを僅かに押さえる助けにもならない。
――葵依を、失うかもしれない。
それがいま、姫華に突きつけられている現実だった。
葵依が夢に喰われている。
一体いつからかと、姫華は考える。
葵依が夢に喰われたのは、おそらく歩乃海に巣食う夢の影響を受けてのことだろう。
だがそのきっかけは、間違いなく自分との言い争いだ。
違う、と姫華が首を振る。
あれは言い争いではない。
自分が葵依を信じなかったせいだ。
彼女に嫌われたくがないために、遠ざけようとしたからだ。
姫華は膝で立ち、葵依の顔を覗き込む。
葵依を蝕む夢を、姫華は魔法で感知する。
夢は葵依の中でどんどんと肥大化していた。
これまでに見てきた誰とも比べ物にならないほどの速度で、葵依は夢に喰らわれていく。
それはもう、終わりに近い。
葵依は夢に喰らい尽くされようとしていた。
葵依にはもう時間がない。
このままでは、彼女は二度と『川澄葵依』として目覚めない。
このまま、どこかへと消えてしまう。
目の奥がツンとなる。
視界が滲む。
叫び声を上げてしまいそうになる。
姫華は両手でピシャリと自身の頬を叩き、ブンブンと頭を振った。
ごちゃごちゃと考えるのは後だ。
諦めなければ、きっとまだ葵依を救える。
「――葵依。わたしはまだ、あなたに言わなくてはいけないことがあるの」
姫華は葵依の額へ触れる。
伝わる温もりが、姫華の決意をより強固にした。
「だから絶対に助けるわ。少しだけ待っていて」
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