第37話 第四章9

「――んで、あたしらのとこに来たと」

 扉の前で葉月が、葵依に呆れ顔を向ける。

 美菜はその後ろで心配そうにしている。

「喧嘩の原因はなんなん?」

「……それは、誰にも言わないって姫華と約束してるから」

「変なところで律儀だねぇ。ま、葵ちゃんぽいっちゃ、葵ちゃんぽいけどさ。とりあえず、中にお入りよ」

 葉月ちゃん、と美菜が言った。

「私、今日は隣で」

「悪いけど頼むよ。一応スマホは持っていって。なにかあったら連絡するかもだから」

「うん。葉月ちゃんもお願いね」

「おっけー。こっちはお任せ」

「葵依ちゃん、またね」

 パジャマ姿の美菜はスマートフォンを手に取ると、葵依に手を振って部屋を出た。

 葵依は葉月に促されるまま、ベッドで横並びに座る。

「さて、あたしはどうすればいいのかな? 喧嘩の理由を話してくれないのなら、葵ちゃんを慰めることも、姫ちゃんを説得することも、その逆のこともできないんだけど」

「ごめん……」

 葵依はうな垂れる。葉月はやれやれと肩をすくめた。

「いいって。そいじゃ落ち込んでるところ悪いんだけど、お説教でもしようかね」

「お説教?」

「そ。葵ちゃんさ、自分がいま姫ちゃんになにをしているか、わかってないっしょ?」

「なにって――私はなにも」

「まあ、そうだろうねぇ。そうじゃなかったら、あたしは葵ちゃんをビンタしなくちゃいけないところだよ。葵ちゃんはさ、姫ちゃんが超絶人見知り星人だって、誰よりも知ってるよね?」

 葵依は頷く。

「でしょ? 最近は頑張って寮のみんなに挨拶してるけど、ちゃんと話せるのって葵ちゃん以外にはあたしと美菜だけじゃん? それってつまり、あの子がこの寮で頼れるのは、あんた以外にはあたしらだけってことでしょ?」

「あ……」

「それなのに葵ちゃんがあたしらの部屋に来ちゃったら、姫ちゃんってば完全にひとりぼっちになっちゃうじゃない?

 美菜が気を利かせて行ってくれたからいいものの、あたしたちがふたりで葵ちゃんを部屋に迎えていたら、姫ちゃんはいったいどこへ行けばいいのさ?

 どこに逃げ込めばいいのさ?

 誰を頼ればいいのさ?

 どこにも行けないし、どこにも逃げ込めない。

 誰も話を聞いてくれない中、ひとりで色んなこと考えちゃうと思うよ。

 もう葵ちゃんと仲直りできないかもとか、あたしや美菜まで口を利いてくれなくなるかもとか、そういうことをひとりで、朝まで一晩中考えるんだよ」

 葉月が葵依の背中を平手で強く打った。

「それって凄く可哀想で、凄く残酷だ。ぜんぜん平等じゃない。あんたが姫ちゃんにしているのは、そういうこと。ふざけんじゃないよ。このバカ娘」

 叩かれた背中よりも、胸が痛む。

 締め付けられて、呼吸もままならない。

 自分はあまりにも考えなしに過ぎた。

 少しでも姫華のことを思っていれば、葉月に言われる前に、部屋を出る前に、そうだとわかったはずなのに。

 それだけじゃない。

 姫華が理由を話さなかったのだって、自分を信じてくれなかったのではなく、身を案じてのことに違いはあるまい。

 姫華はこれまでずっと、葵依を心配し続けていた。

 それだってわかっていたはずだ。

 なのに自分のことだけ考えて、いじけて部屋を出た。

 葵依は口元を押さえる。

 そうしなければ、込み上げてくる嗚咽を堪えられそうになかった。

「……葉月ちゃん。どうしよう。私、姫華に酷いことしちゃった」

「謝ればいいんだよ。大丈夫。仲直りできるって」

「うう……ひめかぁ」

 葵依は葉月のシャツを掴む。

 それを見た葉月の瞳も潤んだ。

「……泣くな泣くな! あんたが泣いたらあたしも泣いちゃうだろうが! あたしが泣き虫だって知ってるだろ? てかあんた、ゲロみたいな臭いがするんだけどなんなん?」

「さっき吐いた」

「吐いた? 具合悪いなら寝てなさいよ」

 葵依の脳裏に、車体の下から覗く珠希の血塗れた手が過ぎる。

「――ひとりで寝るの怖い。葉月ちゃん一緒に寝てくれる?」

「私はあんたのママじゃないっての。ったく、今日だけだからね」

「ありがとう。葉月ちゃん、私の彼氏になって」

「来世で男に生まれたら考えてあげる。洗面所に新しい歯ブラシあるから、それで歯を磨いておいで」

「葉月ちゃん磨いて?」

「ウゼェ! さっさと言うこと聞かないと部屋から蹴りだすよ!」

 キャーとわざとらしい悲鳴を上げながら、葵依は逃げるように洗面所へと駆け込んだ。

 明日の朝、姫華に謝ろうと葵依は決めた。

 そしてもう一度、話をするんだ。

 鏡に映る自分に、きっと大丈夫だと言い聞かせた。

 ふたりでしっかりと話し合えば、互いに理解し合える。

 感情的にならず、姫華の話をちゃんと聞こう。

 私の想いを、包み隠さず伝えよう。

 姫華ならわかってくれるはずだ。

 ――けれどもし、また拒絶されてしまったら?

 そう葵依は想像してしまった。

 その隙が見逃されることはない。

 それは葵依の心を鷲掴む。

 彼女は一瞬で絡め取られてしまった。

 油断ではない。

 それは回避しようのない呪いだった。

 鏡に映っているはずの、自分の顔がよく見えない。

「あ、あれ? 目が……急にどうしたんだろ?」

 暗闇に包まれた世界で手を伸ばす。

 指先が、そこにあったはずの鏡に届かない。

「なに――これ?」

 その問いに答える者はない。

 ただ闇だけが色濃くなる。

「つっ……。頭、痛い」

 鈍い痛みに、葵依は片膝を突いた。

 暗闇の中、視線の先に少女がいる。

 長い黒髪の少女が。

 なぜ少女の姿が見えるのか?

 葵依はそんな疑問すら抱けない。

 少女はバスルームの床に突っ伏し、こちらへ血塗れた手を差し伸ばしている。

 少女の足は、膝から先が闇に飲まれていた。

 それはずっと昔に、どこかで見た光景だった。

 少女が誰であるのか、葵依はすぐに思い出す。

「居村、さん……?」

 どうして自分は彼女を忘れていたのだろう?

 葵依は居村という名の少女へ手を伸ばす。

 けれどその指が居村へ届くことはない。

 居村は闇に飲まれ続ける。

 彼女の身体は、腰までが失われている。

 ああ、そうだ。葵依はすべてを思い出す。

 あの日、自分は彼女を救えなかったんだ。

「ごめんなさい。居村さん。私、ずっとあなたを忘れて――」

 懸命に伸ばした葵依の指先が、虚しく空を切る。

 居村は完全に、闇へと消えてしまった。

 力尽きたように、葵依はその場へ倒れ込んだ。

 ――葵依はまだ知らない。

 自分が、夢に喰われたのだと。

 これは幻ではない。

 葵依の現実へ、剥きだされた牙が届いている。

 夢は葵依を捕らえた。

 葵依は夢に捕らえられてしまった。

 夢は葵依に喰らいつき、決して放すことはない。

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