第36話 第四章8
――どうして、いまになって……?
――これまで放っておいてくれたのに。
苦悶に満ちた呟きが葵依の耳に届く。
目を覚ました葵依の瞳に映ったのは、見慣れた自室の天井だった。
「葵依。起きたのね? どこか痛むところはある?」
そう訊ねる姫華の顔色は、むしろ葵依のほうが心配してしまうほどに酷かった。
彼女はベッド脇の床に座っている。
ずっと傍にいてくれたようだ。
「……痛いところはないけど、鼻の中が臭い」
呼吸をすると、鼻に残った吐瀉物の臭いがする。
姫華から受け取ったボックスティッシュで鼻をかみながら、葵依は自分がTシャツと短パンに着替えさせられていると知った。
「ごめん。なんか色々と迷惑かけちゃったみたい。姫華は大丈夫?」
姫華も珠希の死を目の当たりにしたのだ。
きっと彼女もショックを受けているだろうと葵依は思う。
「わたしは一度、見ていたから」
姫華の答えを聞いて、葵依はようやく気がついた。
姫華は魔法で歩乃海の過去を見ている。
それはつまり、珠希の死をすでに見ているということでもある。
歩乃海の過去を話す姫華があまりにも冷静で、そこまで考えが至らなかった。
これまでにも、姫華は今日のように誰かの死を繰り返し目の当たりにしてきたのだろう。
少なくとも、それを前にしても冷静でいられるほどに。
葵依が思っているよりも、姫華の心はずっと強いのかもしれない。
対して自分は、いまも珠希の最期を思い出して震えている。
涙が込み上げてくる。
頭がくらくらする。
意識が飛びそうになる。
それを姫華に悟られぬよう、葵依は顔に腕を当てて隠した。
「……ねぇ、姫華。あのとき、いったいなにが起こったの? 珠希ちゃんは、最初に来た青いトラックに轢かれるはずだったんだよね?」
「ええ。でもそうはならなかった。
――端的に、状況だけを説明するわ。
珠希さんを轢いた黒い乗用車。あれは三日後に別の場所で死亡事故を起こすドライバーが運転していたものよ。
そして珠希さんを轢くはずだった青いトラックが、三日後に黒い乗用車が起こすはずだった死亡事故を起こすことになる。
わたしたちが行った、あの世界では」
「起こすはずの事故が入れ替わったってこと? そんなのってありえるの?」
「わたしの認識では『稀に』ある程度よ。いくつか条件が必要だから。
今回は加害者側が両方とも事故で亡くなっていて、共に親類がいないという状況が一致していた。
被害者側と加害者側のどちらも結果的に人生の本筋も出会いも変わらなかった。魔法省に問い合わせたけれど、向こうの見解も同じだったわ。
それと……珠希さんの救出に失敗した理由だけれど」
葵依は腕の隙間から姫華を見た。
彼女は顔を伏せている。
「あの場にもうひとり、魔法使いがいたみたいなの。その魔法使いに、自動車を止めようとしたわたしの魔法が掻き消されてしまった」
「え……」
葵依は二の句が告げない。
姫華の話が事実なら、その魔法使いはどんな目的があってそれを成したというのか。
葵依が想像できる範疇を完全に超えている。
「その魔法使いが誰で、なぜ妨害をしたのか。魔法省に調査を依頼したわ。結果はすぐに出るはずよ」
「うんと……とりあえず私たちは、その結果を待っていれば?」
混乱しながらも、葵依は自分のやるべきことを冷静に考えようとする。
しかし姫華の口からは、更に葵依を混乱させる言葉が発せられた。
「葵依。あなたには歩乃海さんの件から手を引いてもらうわ。今後はわたしがひとりで動くから」
「……は? なにそれ? なにかの冗談?」
姫華の言葉に葵依は耳を疑う。
けれど姫華は宣告をするかのように続ける。
「言ったでしょう。この件には別の魔法使いが絡んでいるって。魔法の使えないあなたにできることはないのよ。危険があるかもしれないし、場合によっては足手纏いになるわ」
「た、確かにそうかもしれないけど、姫華ひとりでその魔法使いをどうにかできるの? 私がいれば、なにか力になれるかもしれないじゃない?」
葵依はむっとして言い返す。
ベッドで身体を起こし、姫華と目線を合わせた。
「何度も言わせないで。葵依には魔法使いに対抗する術はない。聞き分けて」
姫華は真っ向から葵依の言葉を否定する。
「それって質問の答えになってない。姫華はその魔法使いにひとりで立ち向かえるのかって、私は聞いているの」
「立ち向かえるわ」
「どうして言い切れるのさ? どんな相手かもわからないのに?」
「それは……」
姫華が視線を逸らす。
その仕草で、葵依は一つの確信をする。
「私に隠していることがあるでしょ? さっきの独り言、聞いてるんだからね」
「……独り言って、なに?」
「『どうしていまになって。これまで放っておいてくれたのに』。そんなことを言っていた。姫華はもうひとりの魔法使いが『誰』か、心当たりがあるんでしょ?」
「あったらなんだって言うの? 葵依には関係ないわ」
「関係ないわけないじゃない! 私はあんたのパートナーなんだよ!」
葵依はつい声を荒げてしまう。
姫華は怯えたようにぎゅっと目を閉じる。
その姿に葵依は後ろめたさを感じた。
姫華が臆病だと、自分は知っていたはずなのに。
「……大きな声を出してごめん。でも、本当の理由を聞かせてよ。なにか別の理由があって、私に歩乃海さんの件に関わって欲しくないんでしょ?」
長い沈黙が訪れる。
姫華が迷っているのだと、葵依にはわかった。
話して欲しいと葵依は願う。
自分を信じて欲しいと願う。
まだ姫華と共に長い時間を過ごしたわけではない。
それでも自分と姫華の間には信頼に足る関係が築かれているはずだと、葵依はそう思っている。
「葵依」
姫華が名を呼んだ。
それは普段の彼女の声音と、なんら変わりはなくて。
姫華は自分を信じてくれたのだと、葵依にはわかった。
それを嬉しく思う。
「――わたしはなにも隠していないし、他の理由だって、なにもないわ」
葵依の胸がずきりと痛む。
まるで杭を打たれたように。
痛みがどんどん増していく。
姫華の声が遠くに聴こえた。
視界に白い靄がかかっているように感じる。
「……そっか」
葵依はノロノロとベッドを抜け出した。
足に力が入らない。
しゃがみ込みそうになる。
「葵依? どうしたの?」
姫華の問いに答えない。
葵依はふらつきながら、部屋のドアへと向かった。
「葵依。なにをしているの? 寝ていなくてはダメよ」
「……隣の部屋に行く。今日は姫華と一緒にいたくない」
葵依は身体を支えようとしてくれる姫華の手を振り払うと、部屋を出て扉を乱暴に閉めた。
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