第35話 第四章7
姫華の言に従ってコートを持ってきて良かったと、葵依はマフラーに首を埋めて凍える手を擦りながら思う。
現世界では九月下旬だったが、この別世界は八年前の一月だ。
温度差に身体と思考が上手く追いつかない。
灰色の雲が空を覆い、いまにも雪が降り出しそうだった。
「いまから約五分後。この交差点で珠希さんは事故に遭うの」
中野区の駅から徒歩八分ほど離れた交差点で、姫華は葵依にそう言った。
葵依は紺のコート、姫華はグレーのコートを着込んでいる。
人通りは多いが見通しは良く、交通量はそれほどでもない。
こんな場所でも事故は起こるのだなと、葵依は複雑な気持ちになる。
ほんのすこしの思い遣りで、防げた事故であっただろうに。
「――それじゃ、数分間だけ歩乃海さんと珠希ちゃんを足止めすればいいんだね?」
「ええ、そうよ」
「これまでと比べても、随分簡単みたい。なんかちょっと違和感があるかも。歩乃海さんは、あんなに追い詰められていたのに」
「クライエントの現状と、その対処の困難さには通常因果関係はないの。だから余計なことを考えず、歩乃海さんたちを見逃さないようにしましょう」
「わかった。絶対に見逃さない」
葵依と姫華は一本の街路樹の前に並んで立ち、歩乃海と珠希が姿を見せるのを待つ。
五分後。
姫華が予告していた時間通りに、ふたりの幼い少女が姿を現した。
手を繋いだ少女たちは、お揃いの赤いダッフルコートに身を包んでいた。
姉の歩乃海は黒の、妹の珠希は薄桃色のチェックスカートに紫のタイツを合わせている。
現世界では緩いウェーブのかかった髪を背中まで伸ばしていた歩乃海だったが、この頃は真っ直ぐな黒髪が腰まである。
逆に妹の珠希が現世界の歩乃海のように、緩いウェーブをかけた髪を背中まで伸ばしていた。
珠希は白いリボンを模った髪留めをつけている。
一目で姉妹だとわかるくらいに、ふたりはよく似ていた。
「……うわぁ。可愛い。どういうこと? 可愛すぎない? やっぱり天使なんじゃ?」
葵依がうっとりと、なにも吟味していない感想を述べる。
そして込み上げてくる涙を、コートの袖で乱暴に拭った。
珠希は姉との外出が嬉しいのか、にこにこと笑っている。
あの幼く穢れのない命が、この直後に奪われるのだ。
身勝手に、理不尽に、無慈悲に奪われる。
なぜそんなことが許されるのか、いくら考えても葵依にはわからない。
「泣かないで葵依。わたしたちにはやることがあるのよ」
姫華が唇を噛んでいる。
彼女も想いは葵依と同じだった。
歩乃海と珠希が、葵依と姫華の前を通り過ぎる。
ふたりはしっかりと手を繋いで、楽しそうにお喋りをしていた。
声を掛けて足止めをしなくてはならない。
それはわかっているのだが、葵依は喉が詰まって言葉が出なかった。
「あなたたち、ちょっと待って」
姫華が姉妹を呼び止める。
振り返ったふたりに、姫華は穏やかに笑いかけた。
「この髪留め、あなたのでしょう?」
姫華は珠希の前で膝をついて目線を合わせると、白い髪留めを見せた。
あ! と声を上げて珠希は自分の頭に触れる。
そこにあったはずの髪留めが無くなっていた。
それはつい先程まで間違いなく珠希の髪にあったものだ。
姫華が魔法を使ったのだろうと、葵依は見当をつける。
「おねーさんありがとー」
珠希は屈託の無い笑顔を姫華に向けた。
「すみません。ありがとうございます」
九歳とは思えないほどにしっかりと、丁寧に歩乃海が頭を下げた。
「ううん。失くさなくて良かったわ。お姉さんがつけてあげる」
姫華は珠希の髪を一束梳いて取ると、ゆっくり時間をかけて髪留めをつけた。
「髪、引っ張られて痛くない?」
「へいきー。ありがとー。おねーさんキレーだねー」
「ほんと? 嬉しい」
そう言って珠希の頭を撫でる姫華は、葵依の知らない顔をしていた。
慈しむような瞳で笑みを浮かべる様は、まるで愛娘を前にしている母親のようだった。
普段の病的なまでの人見知りが嘘のように思える。
頭を撫でられるのが気持ちいいのか、珠希はえへへと笑っていた。
――突如けたたましいクラクションが鳴り響く。
その騒音に視線を向けると、青いトラックが唸りを上げて、交差点を猛スピードで突っ切って行った。
トラックの進行方向にある信号は、完全に赤となっている。
横断歩道を渡ろうとしていた人々は、暴走するトラックを唖然と見送っていた。
「姫華! いまのトラック!」
葵依が駆け寄る。歩乃海と珠希はなにが起こったのかわかっていないようで、不思議そうに小首を傾げていた。
間違いない、と姫華が頷く。
葵依がそれに頷き返した。
「姫華、上手くいったね。これで過去が変わるね」
「……ええ。そのはずなのだけれど」
いつもとは違い、歯切れ悪く姫華が答える。
彼女は、じっと交差点を見詰めていた。
「おねーさんどーしたの?」
珠希がクイクイと姫華のコートを引っ張った。
「あ、ううん。なんでもないわ。気をつけていってらっしゃい」
「はい。ありがとうございました」
歩乃海は礼儀正しくふたりへ頭を下げると、珠希と手を繋いで交差点へと再び向かった。
歩乃海と珠希が何度も振り返って手を振る姿を見て、葵依はそこに現世界の歩乃海の姿を重ねた。
「歩乃海さんって、小さい頃からいい子だったんだねぇ。それじゃ、帰ろう姫華。私ってば、なんにもしていないのに凄く疲れちゃったよ」
「……葵依。もう少しだけ待って。まだ、まだなの」
そう言った姫華は、珠希から視線を逸らさないでいた。
その様子に葵依が緊張する。
「まだって、なにが?」
「まだ――過去が変わらない」
葵依も視線を珠希へと向ける。
ふたりは無事に交差点を渡り終えていた。
葵依の肩から力が抜ける。
「交差点、ちゃんと渡れたね。これで――」
姫華へと向けた視界の隅に、不吉な黒い影が映る。
葵依の背中に冷たい汗が流れた。
直線の道を左右に蛇行しながら走るそれは、一般道では考えられないほどのスピードを出していた。
「姫華っ!」
葵依は叫び、黒の乗用車を指差す。
乗用車は葵依たちの真横を一瞬で走り去ると、交差点でスピンした。
タイヤが道路を焦がす、急ブレーキの甲高い音が鳴り響く。
「あれよ!」
姫華は右腕を突き出すと、狙いを定めるようにスピンする乗用車へと向けた。
暴走する車を強制的に停止させるような、強力な魔法が姫華には使えない。
けれど浮遊させ、空中へ放り投げることならできる。
一時的に大騒ぎにはなるだろうが、姫華は珠希の救出を優先した。
これ以上、歩乃海の心を傷つけたくない。
コントロールを失った自動車は、歩道を歩く歩乃海と珠希の背後へと迫っている。
もう寸刻の猶予も無い。
目の前で、珠希の命が失われてしまう。
だが姫華の魔法なら間に合う。
自動車が珠希を襲うよりも速く、彼女の魔法はスピンする自動車へと届く。
姫華の発現した魔法は狙い違わず対象を捕らえ、その車体を中空へと舞い上げる。
――はずだった。
姫華の魔法は、車体へ触れる寸前に掻き消された。
ガァン、と聞き慣れない衝突音。
直後にコンクリート壁に突っ込んだ車体が潰れる音。
周囲が静まり返るなかで立ち尽くす、ひとりの少女。
姫華は崩れ落ちるように、その場で膝をついた。
「なぜ……」
姫華が呟く。
彼女の魔法は間違いなく車体に届いていた。
間に合っていたはずだった。
しかし魔法は打ち消された。
失敗ではなく、妨害を受けた。
魔法を打ち消すには、魔法を使うしかない。
それが意味するのは、この世界におけるもうひとりの魔法使いの存在。
その者は明確な意志を持って、確固たる決意のもと姫華の魔法を妨害した。
珠希を、殺すために。
怒号と悲鳴が轟く。
ひとりの若い男が、黒い乗用車へと恐る恐る近づいていく。
彼の視線は車体の下に向けられていた。
葵依はその視線に導かれるように、車体の下へと己のそれを向けてしまう。
遠目であったが、はっきりと見えた。
赤いコートから覗く、紅く染まった小さな手が。
「――うぶっ」
葵依は口元を押さえた。
けれどせり上がって来る胃の内容物を、押し戻すことなど出来はしない。
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