第34話 第四章6
「一之瀬珠希さんが亡くなったのは、今から八年前の話よ。歩乃海さんが九歳で、珠希さんが六歳の冬」
そう語る姫華の姿は儚げで、深い沼の底へ沈み込んでいくような錯覚を葵依に与えた。
「珠希さんの小学校入学の祝いに、祖父母がオーダーメイドのランドセルをプレゼントしてくれた。珠希さんは歩乃海さんに連れられて、そのランドセルを鞄屋へ受け取りに行く途中で交通事故に遭ったの。ふたりは手を繋いで青信号を渡っていて……はしゃいでいた珠希さんは、歩乃海さんの手を離して走り出してしまった。事故はその直後に起こったわ」
祖父母がランドセルをあつらえさせなければ。
両親のどちらかが同行できていれば。
幼い姉妹二人での外出を許さなければ。
そのどれか一つだけでも叶っていれば、起こらなかった事故かもしれない。
けれど身内の誰のせいでもない事故だ。
誰も誰かを責めはしなかった。
一之瀬家は、そういう家庭だった。
三つ年下の妹の死を、歩乃海は正しい意味で認識していた。
いつ、どういう状況で妹が亡くなり、通夜を行い、葬式を出したのかを。
妹の幼稚園へ両親と共に訪問し、なんと挨拶をしたのか。
小学校のクラスメイトたちから受け取った兎のぬいぐるみを、珠希の棺へ入れたことまで詳細に認識していた。
そしてその記憶は、年月を重ねることで正常に薄れていった。
悲しみは消えていかなくてはならない。
残された者たちがそれに囚われては、旅立つ者が永久に解放されない。
それは、あってはならないことだ。
歩乃海は家族と共に、その困難を乗り越えた。
一度は、乗り越えたはずであった。
けれど、歩乃海だけは違っていた。
彼女は踏みとどまっていただけだった。
中学一年生になったある日、突然に訪れたフラッシュバック。
それが歩乃海の心のなにかを決定的に壊し、彼女は夢に喰われた。
フラッシュバックを引き起こしたと考えられる原因はいくつかある。
その日は、学校帰りに道路脇へ寄せられた犬の死骸を見た。
その犬は首輪をしていた。
轢いたドライバーが、後続のために死骸をどかしたのだろう。
警察にも市役所にも連絡せずに、そのまま走り去る。よくある光景だ。
あの犬は即死だったのだろうか。
せめて、そうであって欲しいと歩乃海は思う。
そうでなければ、最期を家族に看取られることなく、ひとり心細く死んでいったことになる。
そんなのは、あまりにも可哀想だ。
一週間位前に、主人公の妹が自殺をするドラマを観た。
自殺の理由は明確にされていない。
繊細な心を持った妹が、突如世界に絶望して命を絶った。
そんな話だった。
妹。死。
歩乃海は珠希を想起する。
珠希の死の瞬間を想起する。
そして歩乃海は思う。どうしてこんなくだらないシナリオを、プロの作家が書けるのだろうと。
妹は意味のない自殺をさせられて、周囲の人間たちは意味もなく世界を憎む。
あまりにも軽く扱われる死。
取り戻すことなんて、出来はしないのに。
両親が辛そうにテレビ画面を見ていたことを、歩乃海は知っている。
だがそういったものを見るのは、これが初めてではない。
おそらくはそういった心無く、悪気なく、想像力が欠如した者達のもたらす結果の積み重ねが、薄氷の如くギリギリで均衡を保っていた歩乃海の心を蝕んでいったのだろう。
「わたしはこの件を魔法省へ報告するつもりよ。美菜さんの八十六日間だって過去に例がないほどだったのに、彼女の四年半はそれを遥かに越えているもの。尋常じゃないわ」
「でも……どうして歩乃海さんは、そんなに長い期間クライエントで居続けられるの?」
葵依はかつてクライエントだった美菜を思う。
あのときの自分や葉月のように、歩乃海を支える人間の存在があったのだろうか。
だが姫華の口をついて出たのは、葵依の想像とは真逆の事実だった。
「――それはね。珠希さんを悪霊にしないためよ」
「悪霊? 悪霊ってなに?」
「歩乃海さんは自分の心が蝕まれていることも、その原因に妹の死が関わっていることも理解しているわ。そして彼女自身が言っていたように、それを珠希さんの呪いだと心のどこかで考えてしまっていることも。
このまま夢に喰われてしまえば、歩乃海さんにとってそれは現実となってしまう。
生前の優しかった妹が、死後悪霊になって自分を呪っている。
そんなもの、歩乃海さんにとってはなによりも受け入れがたいのよ。
でも反対に、歩乃海さんが夢に喰われず、あまつさえみんなに愛される人間である限り、珠希さんの呪いを証明することはない。普段の歩乃海さんにはわかっているの。珠希さんが誰かを恨むような子ではなかったって」
「……珠希ちゃんへの想いが、心の支えになっているってことね」
歩乃海は、あまりにも優しすぎるのだろう。
でもその優しさが、結果として彼女自身をこれまで守ってきたのだ。
それを想うと、葵依は胸が詰まるようだった。
「今日、歩乃海さんが消火器で窓を破ってしまったこと。ああいう衝動が、これまで何度もあったはずよ。歩乃海さんはその衝動をずっとやり過ごしてきた。けれど今日は押さえ切れなかった。だから学校のガラスを破ってしまった。これまでの努力をふいにするところだった」
姫華の瞳に、強い光が宿る。
「でもそれだけ。ここで歩乃海さんを夢から救えば、彼女の人生はなにも悪くはならない。明日からは、本当に笑顔でいられるようになる。そのために、わたしはここにいる」
「私『たち』ね。そこのところ、間違えないでちょうだいな」
葵依は姫華の肩を肘で小突いた。
「それじゃ、私たちの目的は『珠希ちゃんを交通事故から守る』ってことでいいのかな?」
「そうなるわ」
「了解。……でもちょっと心配事があってさ。聞いてもいい?」
「いいわ。予想はつくけれど」
「『別世界の過去』で珠希ちゃんを交通事故から救った場合、その世界での珠希ちゃんはどうなるの? 私たちの世界で生き返るってことがないのはわかるけど、別世界の過去では珠希ちゃんは生き続けられる?」
姫華は首を横に振った。
「その可能性はゼロよ。完全にね。事故を回避すれば、その日に珠希さんが死ぬことはなくなる。けれど日付が変わった翌日から、世界は珠希さんを殺すために動くわ。それは本当に翌日かもしれないし、もしかしたら半月くらいの猶予はあるのかもしれない。でもね、いずれにしてもそう遠くない未来に珠希さんは死んでしまう。前にも話したけれど、人生の本筋を改変するような真似はできないのよ」
「やっぱり、そうなんだ……。もしかして事故で亡くなるよりも、苦しい思いをしながら死んでしまうこともある?」
葵依の瞳が潤む。
もしそうなら、それは歩乃海のために珠希を犠牲にすることとなる。
「大丈夫。魔法は万能ではないけれど、そんなに残酷じゃないわ。事故を回避した世界における珠希さんの死は、ずっと穏やかなものになる。そうでなければ、歩乃海さんが別の傷を負う原因にもなるから」
姫華は葵依の背に触れた。
「――だから、葵依がなにかを背負う必要はないの」
「……うん。ありがとう。姫華」
ふたりは互いに微笑み合う。
「さあ行きましょう葵依。向こうは一月末だから寒いわよ。あったかいコートをふたつ、用意してね」
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