第33話 第四章5
歩乃海をどこで休ませるか迷った挙句、葵依はタクシーで寮へと向かった。
学校内であれば、どこであっても歩乃海は好奇の目に晒されるだろうと考えたからだ。
自室へ客を招く場合は事前申請するよう寮則で決められているのだが、そんな手続きをしている時間も余裕もない。
葵依は誰にも気づかれないよう、歩乃海を裏口からこっそり自室へと連れ込んだ。
放心しているかのような歩乃海をベッドに座らせ、葵依と姫華はクッションを敷いて床に座る。
そしてどう切り出すべきかと迷っていた。
歩乃海は学校から寮へ移動する間も、一度として口を開こうとはしなかった。こちらの誘導には従うが、視線は葵依たちからそむけ続けている。
しかしこのまま黙っていても埒が明かない。
葵依はダメもとで問いかける。
「えっと。歩乃海さん。どうしてあんなことをしたの? 下に人がいたら、大怪我をさせていたかもしれないんだよ?」
もう少し遠まわしに話を振るべきだっただろうか。
説教臭い言い方では、歩乃海を頑なにさせてしまうかもしれない。
頭ではそう思っていても、実行できるほどの余裕がいまの葵依にはなかった。
「――その前に聞かせて」
意外にも、歩乃海はしっかりとした口調で答えを返した。
まだ目の焦点が合っていないようにも見えるが、その瞳は間違いなく葵依たちへ向けられている。
「き、聞かせるって、なにを?」
歩乃海の問いに、葵依は問いで返す。
歩乃海はふわりとした自身の髪を指先でくるくると弄ぶ。
「……どうして私を助けてくれたの? 私たち、一昨日に一度食事をしただけで、まだそれほど親しくもないのに」
表情のない顔で、抑揚のない声で、歩乃海は淡々とそう問いかけてきた。
隣で姫華がショックを受けているようだが、葵依は構わず答えた。
「理由って聞かれても、正直答えに困るかな。歩乃海さんの言う通り、私たちは特別に親しいわけじゃないのかもしれない。でもね、歩乃海さんが理由もなく、あんなことをするとは思えなかったんだ。だからあの時は、とにかくなんとかしないとって」
葵依が口を閉じる。
言われて初めて気づいた。なぜあのとき歩乃海を庇おうとしたのか。
その明確な理由が葵依自身にもわかっていなかった。
――ただ、可哀想だとは思った。
このまま姫華が、歩乃海と友達になれなくなるのが。
それだけ? と問う歩乃海の声音に、僅かながら動揺に似た色が混ざる。
「それだけの理由で、私に手を差し伸べたの? 罪を被ろうとしたの?」
「罪を被ろうとしたとか、そんな大袈裟な話じゃないよ。どうにかあの場を切り抜けようって、行き当たりばったりに動いちゃっただけ」
歩乃海は葵依の言葉について、しばらくなにかを考えているようだった。
葵依は、隣の姫華が先程からじっと歩乃海を見ていることに気づく。
「……私に、そんなことをしてもらう資格はないの」
歩乃海がぼそぼそと言葉を口にする。
「あのときだって――葵依さんが声を掛けてくれたときだって、本当はみんなの声が私には聴こえていた。でも聴こえない振りをしてしまった。どうなるのかわからなくて、怖くて、なにも考えられなくて、身体が動かなくて、これまで積み上げてきたものがすべて無くなるって思った」
歩乃海は両手を額に当てると、背中を丸めて太腿で肘を支えた。
その表情は窺い知れない。
「……けど、そうはならなかった。楽になれると思ったのに。私には逃げるという選択肢すら用意されていないの? ううん。わかってた。そんなこと許されないって」
「許されない? それってどういう――」
歩乃海が首を横に振る。
これ以上は答えたくないということなのだろう。
葵依には、歩乃海がなにを言っているのかまるでわからない。
だが歩乃海の急激な変化には覚えがあった。
彼女はおそらくクライエントだ。
歩乃海を見る姫華の目が、それを肯定している。
けれどいったい、いつから彼女はクライエントになったのだろう。
土曜に出かけた時とは別人のようだ。
葵依が歩乃海を最後に見かけたのは今朝だった。
下駄箱でクラスメイト達と話していた歩乃海は、いつもと変わらぬ笑顔をみんなに振りまいていた。
たったの半日で、これほど症状が進行するのだろうか?
そもそもこんな短時間で、夢に喰われるような出来事が起こるなんてありうるのだろうか。
もしくは、そのきっかけとなる過去が。
夢に喰われるということ。
それについて葵依は自分がまだ、ほとんどなにも知らないのだと今更ながらに自覚する。
だからこれは、偶然に葵依の口からついて出た言葉だった。
「……もしかして、ご家族のどなたかに不幸があったの?」
短い時間で、夢に喰われるような、深い傷を心に負う出来事。
葵依がまっさきに思いついたのは身内の不幸だった。
今日、歩乃海が登校した後に知らされた訃報があったのではないかと。
そんな葵依の問いは、彼女の意図するものとは異なる形で、歩乃海の心を強く揺さぶった。
「……どうして、それを――? 誰かに聞いたの? もう八年も前のことなのに」
顔を上げた歩乃海には表情がなく、その瞳からは感情の光が消えていた。
歩乃海の変貌ぶりに、葵依は思わずごくりと生唾を飲む。
「はち、八年前? なんの話?」
葵依が助けを求めるように姫華へ視線を向けると、彼女は頷いて返した。そのまま話を続けろということだろう。
「妹が死んだの」
歩乃海は独り言のようにぼそぼそと呟いた。
「八年前に、妹が事故で死んだ。私の目の前で。私には助けることができたはずなのに。あの手を離さなければ。それだけで珠希は死なずに済んだのに」
歩乃海さん、と姫華が問いかける。
「そのときのことを、夢で見るのね?」
「中学へ入学した頃から見るようになった。毎日、同じ瞬間を繰り返す。珠希は私を恨んでいるのよ。すべてを忘れたように、のうのうと幸せに生きていた私を呪っているんだわ」
歩乃海は震える手を、覆い隠すように自分の顔へと当てる。
「……そんな風に考えてしまうの。珠希がそんなことするはずがないのに。あの優しかった子に、そんなことできるわけないのに。私は、自分のおぞましい心根を抑えられない。あの子の夢を見るようになってから、ときどきなにもかも壊してしまいたくなる」
歩乃海は顔に当てていた両手を握り込む。
「なにもかも、なんて偉そうに言っても、私が持っているものなんて家族と学校と――。あとは数人の友達だけなのに。そんなもののために、まるで悲劇のヒロイン気取り。気持ちが悪い」
姫華は立ち上がると、歩乃海の隣に腰掛けた。
「そんなもの、なんて言ってはダメ。それはとても大切なものだって、わたしは思う。歩乃海さんにとっては、あって当然のものだから、いまは少しだけくすんで見えるかもしれない。けれどそれは眩しいくらいに輝く、かけがえのないものだってすぐに思い出せるようになるわ」
葵依は唖然として姫華を見ていた。
姫華が自分以外の誰かに、ここまではっきりとした意見を口にしているのを初めて見たからだ。
それもこれまでは緊張して、まともに話しかけることすらできなかった歩乃海相手に。
歩乃海は顔を上げて姫華を見た。次いで葵依を。
「……帰る。今日は、面倒をかけてごめんなさい」
ほんの僅かだったが、歩乃海の声に力が戻っているように葵依には思えた。
「送らせて。歩乃海さんの家ってどこ?」
葵依の申し出に、歩乃海は首を横に振る。
「ひとりになりたいの。大丈夫。もうおかしなことはしないから。他の寮生たちにも気づかれないように出て行く」
「どうする? 姫華」
「歩乃海さんの言う通りにしましょう」
「わかった。じゃあ明日の朝八時に校長室へ来てね。先生に理由を聞かれたら、ゴキブリが出てパニックになったってことで話を合わせて」
「ええ。葵依さんに従うわ。これ以上は迷惑をかけたくないし」
それと、と歩乃海が真っ直ぐな視線を向ける。
「もう私に関わらないで。話しかけないで。二度と助けようなんてしないで」
「それは、ちょっと約束できないかも」
葵依は困り顔で笑顔を浮かべる。
歩乃海はふいと視線を逸らすと、ふたりに背を向けて部屋を出て行った。
「……歩乃海さん、一回も笑わなかったね」
葵依の肩から力が抜ける。
出会いから絶えることのなかった歩乃海の笑顔が、いまは完全に失われていた。
「そうね。……もうわかっていると思うけれど、歩乃海さんはクライエントよ」
「やっぱり。正直に言って、私には歩乃海さんがなにを言っているか全然わからなかったけど……妹さんの話を聞かせてくれたのに、二度と助けないでなんてさ。矛盾したことを言っているって、自分では気づいていないみたいだった。本当に関わらないで欲しいのなら、私たちに話なんてしないはずだもの。美菜ちゃんの時と同じだった」
でも、と葵依が続ける。
「歩乃海さんが夢に喰われたのって、今日なんだよね? 朝は普通だったのに、放課後にはあんなになってしまうなんて。これも『姫華を呼んだクライエント』の影響なの? 話を聞いた感じだと、八年前の傷が今になって夢に喰われたみたいだったけど」
葵依はベッドに座る姫華の隣へと腰を下ろした。
姫華の表情が曇る。
「……葵依。これは完全にわたしの落ち度だわ。――わたしをここへ呼んだクライエントは、他でもない一之瀬歩乃海さんだったのよ」
姫華の言葉に、葵依は言葉を失する。
何度も口を動かすが、それが声になることはない。
「対象者がクライエントかどうか。それを特定するまでに二段階の魔法を必要とするの。
一段階目は私が常時展開している広範囲の感知魔法。
これは『まだ夢に喰われるまで猶予のあるクライエント』と『まだ助けることの出来ないクライエント』の両方を等しく感知するのだけれど、『クライエントが誰か』までは知ることが出来ない。
どこにクライエントがいるか。その範囲を絞り込むための魔法。
二段階目は『クライエントを特定するための魔法』。
これは、対象者へ直接に感知魔法を使わなくてはならないわ。けれどわたしは、それを歩乃海さんにしていなかった。まさかあの子が夢に喰われているなんて、考えもしなかった」
それは葵依だって同じだ。
歩乃海は他人思いで、お互いに名前しか知らなかった自分たちにも、とても親しみを持って接してくれた。
葵依は歩乃海に好意すら持っていた。
そんな歩乃海が夢に喰われているなど、葵依だって考えはしない。
まとまらない思考の中、葵依が姫華に訊ねる。
「つまり……歩乃海さんは、姫華がここへ来る前からクライエントだったってことだよね? それで、いまもクライエントで、土曜に食事をした時も、そうで……」
「ええ。とてもそうは見えなかったけれど――」
姫華が組んだ指先を額に当てる。
「歩乃海さんは四年以上も昔から、夢に喰われ続けていたのよ」
いまになって、姫華にはようやくわかったことがある。
初めて会った時から、どうしてか歩乃海のことが気になってしかたがなかった。
歩乃海の姿が、瞼の裏から離れなかった。
彼女を前にすると、頭が変になりそうなくらいに緊張した。
そこにあったのは、焦がれるような憧れだけではなく。
――一之瀬歩乃海に対する、本能的な恐怖だったのだ。
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