第32話 第四章4
「歩乃海さんにきちんと謝って、お友達になるわ。今日なるわ。もう決めた」
姫華が胸を張って宣言する。
心境の変化でもあったのか。
それともいつもの口だけか。
「ああそう。せいぜい頑張んなさいよ」
葵依はメモ帳に書いた『一年五組』という文字の横に×マークをつける。
葵依と姫華は昼休み毎に一年生の教室を回って、最近様子のおかしな子がいないかと聞き取り調査をしていた。
一年生達は皆が協力的でことは順調に進んでいたが、肝心のクライエントでありそうな生徒については、影すら見えてはこなかった。
葵依は終礼前の十分休みに、その日の結果をメモ帳に書き込むようにしていた。
可能性のありそうな生徒がいれば、その名前を書き込むつもりでいたのだが、今のところは誰の名前も記入されてはいない。
姫華も一年生たちに怯えつつ頑張っていた。
それと平行しながら『一之瀬歩乃海ちゃんとお友達になろう』計画を彼女なりに練っていたようだ。
「葵依は今日、部活お休みよね? 土曜のことを謝った後に「駅まで一緒に帰ろう」と歩乃海さんを誘うわ。わたし」
「いいよ。でもどうせまた土壇場で怖気づくんでしょ?」
「たぶんね。だから励ましてちょうだい」
「情けないなぁ。今日で友達になれるんじゃないの?」
「そういう予感がするってだけよ。なれるとは言っていないわ。ぶぎゃっ」
ふふんと勝ち誇る姫華の鼻を、葵依はぎゅっと摘んだ。
終礼を終え、クラスメイトたちに手を振って別れを告げてから、葵依と姫華はすぐに三組へと向かう。
教室の入り口から歩乃海を探すが、彼女の姿はどこにもない。
机の脇に鞄がかけられているので、校内のどこかにいるのは間違いないだろう。
トイレかもしれないと、ふたりはしばし待つ。
「……歩乃海さん、戻ってこないね」
葵依は壁時計の時間を確認する。
かれこれ十五分近くが経過していた。
「探しに行ってみましょうか?」
「入れ違いになっちゃうかもしれんよ?」
葵依と姫華がどうしようかと話していると、葉月が廊下を歩いてきた。
「よっすー。葵ちゃんと姫ちゃんじゃん。どしたん?」
「あ、葉月ちゃん。よっすー。部活は?」
「ちこっと忘れ物を取りに来たのさ。もしかして、私に用だった?」
「ううん。歩乃海さん。駅まで一緒に帰ろうと思って」
「お? 葵ちゃんたち、ホノミンと仲良しさんなんだ。ホノミンなら、さっき部室棟の渡り廊下のところで見たよ。まだいるかはわかんないけど」
姫華がぱっと顔を輝かせる。
「部室棟の渡り廊下ね。ありがとう葉月さん。行ってみましょ葵依」
「うん。葉月ちゃん、また後でね」
「あいよー」
ひらひらと手を振り合ってから、葵依と姫華は渡り廊下へと向かった。
終礼から時間が経ったせいか、教室内に残っている生徒は多数いるものの、廊下を歩いている生徒はほとんどいない。
廊下を曲がった先、渡り廊下の中央にある消火器の傍で、歩乃海はひとり窓から校庭を眺めていた。
「おお。やったね姫華。歩乃海さんいたよ」
歩乃海がひとりでいるのは珍しい。
そう思いながら葵依は姫華の肩を小突いた。
「そ、そうね。まずはこんにちはでいいのかしら? それともこんばんは?」
姫華は胸の前で指を組んで、もじもじとしている。
「どっちでもいいよ。ほらほら行こう行こう」
葵依は姫華の背中を押しながら、歩乃海の傍へと近寄っていく。
そしてふたりは歩みを止め、両目を見開いた。
目の前で起こりつつある光景がなんであるのか、葵依も姫華も即座には理解できない。
一之瀬歩乃海が両手で消火器を振り上げている。
「うそっ!? 歩乃海さ――」
葵依が駆け寄ろうとした瞬間、歩乃海の眉間に深い皺が刻まれた。
歩乃海はそのまま躊躇うことなく、消火器を窓ガラスへ叩きつける。
消火器はガラスを突き割り、その破片を撒き散らしながら地面へと落下していく。
コンクリート上で一度だけ小さく跳ねると、底部が破損した消火器は消化剤を勢いよく撒き散らした。
「――え? な、なに? どうなったの? どうしたの?」
青ざめた姫華が葵依のセーラー服の裾を握って、そう聞いた。
けれど、葵依に答えられる訳もない。
「きゃあ――!!!」
葵依達の後方から、いくつもの悲鳴が上がる。
ざわめきに次いで、人の集まってくる気配があった。
先生! 先生を呼んで!
そんな声がいくつも聞こえる。
葵依は裾を掴んでいた姫華の手を握り、歩乃海の傍へと駆け寄って窓から下を覗いた。
消化剤はコンクリートに扇状の軌跡を描いている。
校庭では、運動部の部員たちがそれを遠巻きに見ていた。
ここまで声は届かないが、彼女たちが口々に何かを言っている様子が見て取れる。
どうやら怪我人はいないようだ。
葵依は、ほっと胸を撫で下ろす。
「あ、葵依……」
姫華は先程よりもずっと青ざめている。
繋いだ手が震えていた。
葵依の手も、震えている。
けれど握った手から伝わる姫華の熱で、葵依はどうにか取り乱さずにいられた。
「――歩乃海さん、どうして、こんなことを?」
葵依は言葉を区切りながら、どうにか歩乃海にそう聞いた。
喉が急激に渇いていく。
しかし歩乃海からの答えはない。
窓の外へ向けられた彼女の目は、なにも見てはいないようだった。
「あ、あなたたち、どうしたの? 大丈夫? 怪我はない?」
弱々しく掛けられた声に振り向くと、生徒たちに連れられたトーコ先生が立っていた。
彼女は唇をおののかせながら、瞳を潤ませている。
なんと答えていいかわからず、葵依はちらりと視線を歩乃海へ向けた。
「一之瀬さん。あなたがやったのでしょう? なぜ消火器を外へ投げたりしたの?」
トーコ先生は歩乃海の肩を揺する。
だが歩乃海は窓の外を見たままで、一切の反応を返さない。
「ち、違うんですトーコ先生。やったのは私なんです」
葵依は咄嗟にそう言ってしまった。
姫華が、はっとした視線を葵依へ向ける。
「川澄さんが? でも、この子たちは一之瀬さんがやったのを見たって……」
トーコ先生が一緒に来た生徒たちを振り返る。目撃者なのだろう。
戸惑い顔ながらも、数人がしっかりと頷いていた。
「や、やったのは一之瀬さんですけど、やらせたのが私というか――」
「あ、葵依じゃないわ! 葵依はそんなことしないもの!」
姫華は葵依の手を両手で握り、ブンブンと首を横に振った。
「ちょ、いいから姫華は黙ってて」
「イヤよ! あなたが悪く思われるのはイヤ!」
トーコ先生は状況が飲み込めず、困ったように葵依と姫華を交互に見た。
「……それでは川澄さん。どういうことか説明してくれる?」
「え? えっと、えっと――。そ、そうです! ゴキブリが、ゴキブリがいて、私が怖がっていたら、その、歩乃海さ――一之瀬さんが、自分も怖いのに助けてくれようとして、それで、ちょっとパニックになっちゃって、消火器を投げてしまったんです」
葵依はしどろもどろに苦しい言い訳をした。
トーコ先生は姫華へ視線を向ける。
「――そうなの? 西行寺さん」
姫華はコクコクと頷いた。
「に、二十匹位いたわ」
「……二十匹もですか?」
トーコ先生が不審そうに聞き返す。
「あ、に、二十センチ、二十センチよ」
姫華は慌てて言い直すも、より現実味が薄れていく。
トーコ先生は小首を傾げると、鼻息を荒くしている姫華から、葵依へと視線を移した。
「どうやら、西行寺さんもかなり混乱しているようですね。川澄さん。どこかでふたりを休ませてあげてください。後は私のほうで処理しておきますから」
「い、いいんですか? 私てっきり生活指導室送りかと――」
予想だにしていなかった言葉に、葵依はつい余計な一言を口にしてしまう。
「ただし、明日の朝八時に三人で校長室へ来なさい。そこでもう一度説明してもらいます」
「わ、わかりました。ありがごうございます。行こう。姫華、歩乃海さん」
葵依は一礼すると、歩乃海の肩を抱いて歩くように促した。
反応こそなかったが、歩乃海はそれに素直に従う。
葵依と姫華は手を繋いだままだ。
大丈夫? と目撃者の少女たちが葵依と姫華に声を掛けてくれる。
葵依は彼女たちにありがとうと礼を言い、謝罪をしてから、震える足で懸命にその場を離れた。
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