第31話 第四章3
ぴょんぴょんと跳ね回ってはしゃいでいた幼い妹が、繋いでいた手を離して突然に走り出した。
少女は注意をしようと、その肩へ細く短い手を伸ばす。
その刹那。
眼前で質量のある轟音と暴風が吹き荒れ、それに煽られた少女は肩から横断歩道へと倒れ込んだ。
耳をつんざく高いブレーキ音。
痛む肩を押さえて、少女は身体を起こす。
響くのは悲鳴と怒号。
それらが向けられている先には、電信柱に突っ込んで止まっている青いトラックがあった。
黒い染みが車体の下からじわじわと滲み出し、アスファルトを伝ってその範囲を広げていく。
それは次第に量を増し、その色を黒から紅へと変化させていった。
大人達がトラックを囲み、車体を持ち上げようとしている。
けれどその重量は、人の力でどうにかなるものではない。
「珠希どこ? どこへ行ったの?」
少女は妹の名前を呼ぶ。
周囲をぐるりと見渡しながら。
けれどどこにも妹の姿はない。
本当は最初からわかっていた。
ただその現実を、受け入れられないでいるだけだ。
何度見ても。
何度見ても。
何度見ても。
受け入れられない。
「ああ、ああああああああああっ! あああああああああああああああああ!」
ベッドの上で絶叫し、弓なりに跳ねた背骨が軋む。
それは目覚めだが、覚醒ではない。
少女は叫び、ボロボロと涙を零す。
狂人のように泣き叫び続ける。
だらだらと涎を垂らし、涙と鼻水の混合物が少女の顔を醜く汚す。
激しい吐き気と共に、少女の意識は緩やかに覚醒する。
ヘッドボードに置いたゴミ箱へ顔を突っ込んで嘔吐する。
胃液すら出なくなるまで、それは続く。
吐き気が収まる頃に、ようやく少女の意識は覚醒へと向かう。
そこまでの記憶は曖昧で、気がついたときにはいつもゴミ箱の底と吐瀉物が視界にあった。
肩で荒い息を整えながら、少女は鼻の中に残っている汚物をティッシュで取り除く。
ティッシュを捨ててからゴミ袋の口を閉じて、一階のキッチンへと持って降りる。
ゴミ袋を空袋で二重に包んでから、生ゴミのボックスへと捨てた。
洗面所へ行き、顔と口の中を洗う。
胸元の汚れたTシャツを脱いで、水洗いをする。
それを洗濯籠へ入れてから、足音を立てないように二階の自室へと戻った。
クローゼットから新しいシャツを出して着る。
いつもはそのままベッドへ潜り込んで、何事もなかったかのように眠っていた。
けれど今日は少しだけ違っていた。
机上のカメラになぜか目を惹かれたのだ。
三年前、父がプレゼントしてくれた一眼レフのカメラ。
これを持って外に出て、写真をたくさん撮りなさいと言われた。
けれど少女は、そのカメラを屋外で使ったことが一度もない。
別に写真が嫌いな訳ではない。
カメラが嫌いな訳でもない。
その証拠に、週に一度はカメラの手入れをしている。
ただ、少女がプライベートで家の外へ出ないだけだ。
母親に頼まれる買い物を除いては。
学校へは毎日通っているものの、引き篭もりがちな少女を両親は心配していた。
少女自身もそれを承知しているし、両親に気苦労をかけることも本意ではない。
だから少女は学業で優秀な成績を収め、たくさんの友人たちに囲まれる良い人間であろうと努力していた。
それは共に実を結ぶ。
生まれついての容姿も少女を後押しした。
少女は同級生から慕われ、教師には信頼される優等生となっていた。
そういう偶像になっていた。
心のどこかが壊れつつあるのかもしれないと少女は考える。
或いは、すでに取り返しがつかないほど決定的に壊れているのではないかと。
けれど完全に狂いきれないのは、それが自分に課せられた罰だからなのだろう。
罪を背負い続けるための生。
少女は机上の一眼レフカメラを撫でると、ベッドへと足を向けた。
今日は楽しかったな、と少女は思い返す。
家族以外と外出したのは何年振りだったろう。
けれどどうして、自分はあの誘いを受けたのだろうか。
これまでは誰に遊びへ誘われても、ずっと断り続けてきたのに。
自分にそんな資格はないのだから。
なにかを――赦されざるなにかを、淡く期待したのかもしれない。
なぜだろうか?
痛む頭で思考を巡らせてもわかるはずがない。
また誘ってね。
そんなことも言った気がした。
ヘッドボードのゴミ箱へビニール袋を装着する。
その脇に置かれた白いコンパクトを手に取ると、少女は白馬の刻印がある上蓋を開いた。
「おやすみなさい。珠希。お姉ちゃんは、今日もちゃんと生きたよ」
ひび割れた鏡へ自身の顔を映し、少女はそう囁いた。
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