第30話 第四章2

 これを喜ばなくてはいけないの?

 女子高校生が?

 姫華は目の前に置かれた巨大なラーメンどんぶりを前に、そう自問した。

 約束の土曜。

 正午少し前に歩乃海と駅前で合流した葵依と姫華は、その足で目的地へと向かった。

 店の名前は『猫太郎らーめん』。

 武蔵東学園の制服を着ていくと五十円引きになるため、三人はいつも通りの制服姿で来店していた。

 店の看板を見上げながら、歩乃海がキラキラと瞳を輝かせる。

「私、ラーメン屋さんって初めて来た。ここは葵依さんのおススメなの?」

「無駄遣い出来ないから、たまにしか来られないけどね。歩乃海さんは友達とこういう所へ行かないの?」

「え……っと。そうかも。あまり行かないかな」

 少し困ったように言う歩乃海に、気を使わせてしまったかなと葵依は思う。

 姫華が葵依の裾をクイクイと引っ張った。

「ほ、本当に女の子三人でこんなお店へ入るの? 不良に絡まれたりしない? ラーメン屋さんには不良がたむろしているのでしょ? 漫画では、そういう場面が多いのよ」

「……そうなの? どうしよう葵依さん」

 歩乃海が心配顔を葵依へと向けた。

「そんなことないよ。姫華の知識が偏っているだけ」

 歩乃海は性格的に姫華寄りなのかもしれない、と思いながら葵依は店の引き戸を開ける。

「らっしゃーせー!」

 店内から投げられる威勢の良い声に、姫華がお決まりの短い悲鳴を上げて葵依の背中へと隠れた。

 お好きな席へどうぞと言われ、葵依達は一番奥のテーブル席へと向かう。

 壁際の席へ葵依が座り、姫華がススッとその隣に座る。

 そして葵依の裾をちょこんと摘んだ。

 歩乃海は葵依の向かいへと座る。

 昼時には少し早いからか、他に客はふたりしかいない。

「放しなさいな」

 裾を掴む姫華の手をぴしゃりと叩き、葵依はメニューを広げてテーブルの真ん中へと置いた。瞳を潤ませている姫華は当然無視だ。

「どれにする? ちなみに一人二百円ずつ引いて貰える割引券があるのです」

「わあ。ありがとう葵依さん。この『猫太郎らーめん』というのが、普通サイズ?」

「それは大盛り。こっちの『ハーフ猫太郎らーめん』が並盛りだよ。それでも普通のラーメン屋さんのより量が多いけど」

「これより小さいのはある?」

「ううん。これが一番量の少ないやつ。でもチャーシューは三枚もつくんだよ。ここのチャーシュー美味しいんだ。私もハーフ猫太郎を頼むから、食べきれないようなら手伝うよ」

「ごめんね。その時はお願いします」

「おっけー。姫華はこれにしよう。『メガ猫太郎らーめん』。麺の量が猫太郎らーめんの倍で、チャーシューはなんと驚きの十――。姫華? どうしたの? あんたさっきから全然喋んないけど」

 姫華は唖然とメニューを見ていた。

 大きなどんぶりに、麺が見えないほどのモヤシとキャベツ。

 さらにその野菜を覆い尽くすほどに並べられた肉厚なチャーシュー。

「……これを全部食べられる人なんているの?」

「試してみれば良いんじゃない? 注文するよー」

「ま、待って! 無理よ! わたしも小さいのがいいわ」

「えー。大きいの食べなよ。そのために貯金したんだから」

「気持ちは嬉しいけれど、人には出来ることと出来ないことがあるのよ」

「成せばなるって言葉があるじゃない。姫華は色々小さいんだから、たくさん食べよ?」

「い、いま侮辱したわね? わたしの身体的特徴について侮辱したわね? 許さないわ」

 ふふっ、と歩乃海が笑った。

「姫華さんは、葵依さんが相手だとやっぱり自然体でいられるのね。なんだか面白い」

 姫華の顔がカーッと赤くなる。

 葵依が手のひらでパタパタと扇いでやった。

「ちょっと変な子だけど、姫華は悪い子じゃないの。だから長い目で見てあげて」

「あ、葵依! 余計なこと言わないで!」

「なによ。だったら自分から歩乃海さんに話しかけてみなさいな。この根性なし」

「根性なしで悪かったわね。根性がないと知っているのなら無茶言わないで」

「偉そうに言うんじゃないよ。人見知りも限度が過ぎると嫌われるんだからね」

「なら直し方を教えなさい。わたしにお説教するくらいなのだから知っているのでしょ?」

「あははは。ちょ、ちょっと待って。そんなに笑わせないで」

 歩乃海が両手で口元を押さえながら、声を上げて笑っている。

 その姿を見た葵依と姫華は、互いに顔を見合わせてしまう。

「……葵依。歩乃海さんが楽しそうに笑っているわ。わたしは上手くやれていたみたいよ」

「違う違う。笑ってるんじゃなくて、笑われているんだよ。どちらかと言えばマイナスだよ」

「ええっ? どうしてそんなことに?」

「ご、ごめんなさい。ふたりの話が面白くて」

 歩乃海はまだ笑いが収まらず、くっくっと声を漏らしていた。

「……歩乃海さんって、もしかして笑いのツボが凄く浅い? それともズレてる?」

 どこが面白かったのか葵依にはさっぱりわからないが、悪意のない彼女の笑顔に、つまらない言い合いをしていた自分が恥ずかしくなる。

 姫華も同じ思いなのか、なんだかそわそわとしていた。

 そうそう、と歩乃海が口を開く。

「奏さん、部活頑張ってるんだってね。葉月さんから聞いたよ」

「うん。バスケ部と交渉して、体育館でコートを使える時間も確保してくれたんだ。あ、ウチの部は人数が少ないから、最近はずっと屋外で練習していたんだけど」

「らしいね。バレー部に入部しないかって、奏さんに誘われたわ。みんなにも声をかけているみたい」

「部員が四人しかいないから、最低でもあとふたりは確保しないと冬季大会に出られないのよ。最悪の場合は葉月ちゃんが出てくれるって話になっているけど、それでももうひとりは必要で。ねぇ姫華ちゅわん」

 葵依が姫華の顔を覗き込むと、少女は露骨に目を逸らした。

「わ、わたしには無理だと言っているでしょ? 足だってクラスで一番遅いのだから」

「運動を始めれば早くなるかもしれないのに……。そう言えば歩乃海さんって、何部?」

「私、部活はやっていないの」

 へぇー、と葵依が声を漏らす。

「そうなんだ。なんかちょっと意外かも」

「最初の仮入部期間にどこへも所属しなかったら、なんだかタイミングを逃してしまって」

「確かに二年生になってからって、入部しにくいかもね。ちなみにバレー部は初心者も、途中入部も大歓迎だよ。気が向いたらでいいから、見学とかでもいいから、一回だけでいいから、ね? ねね? 一度練習に――」

「ま、待って。そんなに迫ってこないで」

 身を乗り出して顔を近づけてくる葵依を制するように、歩乃海が両手を顔の前へと挙げる

「こ、こら。やめなさい葵依。迷惑でしょ?」

 姫華が葵依の制服の裾を引っ張った。

「あ、ああ。そうね。ごめん。ちょっと熱くなっちゃった」

「う、ううん。いいよ。熱意は伝わったから。――そろそろ注文しない?」

「そうだね。すみませーん」

 店員に注文を伝えると、ほどなく三人前のラーメンが卓上へ並べられる。

 歩乃海は感嘆の声を漏らし、姫華は正体不明の物体に戦慄しているようだった。

 凄い量だね。

 あ、でも美味しい。

 そんな感想を言い合いながら食べ始める。

 三人の話題は専ら学校関係に終始していた。

 思えばまだ、お互いの趣味すらも知らない。

 これが姫華と歩乃海の良好な関係を築く第一歩になればいい。

 葵依はそう考えていた。

 葵依はラーメンをぺろりと平らげ、歩乃海は終盤かなりの苦戦をするも、どうにかひとりで食べきった。

 姫華は半分を超えたあたりから顔色がおかしくなっている。

「姫華。残りは私が食べるから無理しなくてもいいよ」

「……そうもいかないわ。わたしは人の厚意をむげにするような、恥知らずではないもの」

 姫華はふぅふぅと息を荒げながら麺を口に運ぶ。

 歩乃海はそれをハラハラと見ていた。

「姫華さん。具合悪くなっちゃうよ? やめとこ?」

「まだよ。まだいけるわ。まだいけるはずよ」

 姫華は歩乃海の言葉にも耳を貸さずに麺を啜り続ける。

 三十分ほどかけて、姫華はようやく完食へと漕ぎつけた。

 箸を置き、顔の前で両手を合わせる。

「――ごちそうさま。とても美味しかったわ。葵依。ありがとう」

「どういたしまして。それより大丈夫なの? あんた泥みたいな顔色になってるんだけど」

「とても控え目に言って、お腹が破裂しそうよ。歩いたら出てしまいそう」

「言わんこっちゃない。ちょっとお会計してくるから待ってな」

 しゃっくりで返事をする姫華を尻目に、葵依と歩乃海は会計を済ませた。

 席へ戻り、両側から姫華を支えて立ち上がらせる。

「姫華さん。ゆっくり。ゆっくりでいいからね」

 店員や他の客からの注目を浴びながら、姫華の歩く速度に合わせてのたのたと店を出る。

 店の前を避けて脇へ退き、膝の高さにある植え込みのブロックへと姫華を座らせた。

 脂汗を滲ませながら、姫華は大きな呼吸をゆっくりと繰り返している。

 歩いたら出そう、というのは大袈裟な表現ではなさそうだった。

「……この子、ちょっとダメみたい。ごめんね、歩乃海さん。この後の買い物は中止にさせて貰ってもいい?」

 謝る葵依に、歩乃海は気にしないでと答える。

「私も寮まで付き添うよ。ひとりで連れて帰るのは大変でしょ?」

「ありがたいけど、さすがにこれ以上は迷惑かけられないよ。いざとなったらタクシー呼ぶつもり。今日は結構暑いし、歩乃海さんは先に帰っていて」

「いいの? なんだか薄情な気がするんだけど……」

「そんなことないって。振り回してしまって本当にごめんなさい」

「ううん。それは本当に気にしないで。……じゃあ、お言葉に甘えようかな。今日は楽しかった。良かったらまた誘ってね」

「うん。来てくれてありがとう。姫華、頑張って手くらい振りなさい」

 姫華が微かに上げた手は、ぷるぷると震えていた。

「む、無理しなくていいよ。それじゃ、姫華さんも葵依さんも、また学校で」

 またね、と手を振り合い歩乃海と別れる。

 葵依は姫華の隣に座った。

「……歩乃海さんが楽しかったと言っていたわ。これはかなりの進展が――うぶっ」

 姫華が両手で口を押さえる。

 葵依はその背をさすってやった。

「社交辞令でしょ。呼び出されてラーメンだけ食べてバイバイじゃあ、普通の女子高生なら怒ると思うよ。それも初めて一緒に出かけた相手に、そんなことされたら尚更ね」

「ほ、歩乃海さんは怒っているの?」

「そう思っておいた方がいいだろうね。あれで本心から楽しかったって言ってくれているのなら、歩乃海さんはたぶん天使だよ。もしくは菩薩とか如来とかそういう類いの」

「……どうしよう。わたしが意地を張ったせいだわ」

「姫華は私のために無理をしてくれたんでしょ? 今回は私もあんたも、ちょっと良くなかったんだよ。月曜になったら一緒に謝りいこ。それで許してくれるんじゃないかな」

「そうかしら……。そうだといいな……」

 力なく呟く姫華の頭を、葵依は手のひらで優しくポンポンと叩いてやった。

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