第29話 第四章1

 二年三組の教室前で、川澄葵依は一之瀬歩乃海に頭を下げた。

「本当にごめんね。いつもだったら葉月ちゃんに借りるんだけど……」

「遠慮しなくていいよ。教科書くらい、いくらでも貸すから。――って、それはそれで問題かな?」

 あはは、といつものように屈託なく歩乃海が笑う。

 葵依の胸には、歩乃海から借りた数学の教科書があった。

 昨夜、葵依は寮の自室で葉月と一緒に苦手な数学の勉強をしていた。

 姫華と美菜はふたりからの質問をいつでも受けられるよう、漫画を読みながら待機している。

 美菜はもともと成績がよく、姫華は体育を除くほぼすべての教科を得意としていた。

 特に姫華は他人へ勉強を教えるのが上手で、失礼な話だが葵依にとってそれはなんだか意外でもあった。

 この勉強会は、かつて葵依、葉月、美菜の三人であった。

 けれどいまは、ひとつの部屋に姫華を加えた四人が集まる。

 彼女達にとって、それが日常となっていた。

 そしてときおり起こるアクシデント。

 葵依か葉月が――或いは両者共に、勉強終わりの教科書を鞄へ入れ忘れてしまうということがあった。

 今回は葵依と葉月のふたりともが教科書を忘れたため、こうして歩乃海に借りることとなったのだ。

 教室内の葉月は、美菜にこってり絞られたようで机に突っ伏して拗ねていた。

 葵依には「ちゃんと教科書をしまった?」と訊く美菜に、「しまったよー」と適当な返事を返す葉月の姿が容易に想像できた。

 もし想像通りであったのなら、怒られて当然だと思う。

 もっとも葵依に葉月をどうこう言う資格はないのだが。

「葵依―!」

 三組の教室奥から川丘奏に声をかけられた。

 クラスメイト達に囲まれている彼女は、王子様のような輝く爽やかな笑顔でこちらへ手を振っている。

「奏ちゃん、よっす~」

 これは女の子にモテますわ、と思いながら葵依も手を振り返す。

 奏はバスケットボール部を退部し、バレーボール部へと戻っていた。

 葉月を始めとしたバスケ部員たちも当初は残念がっていたが、毎日楽しそうにバレーボール部で汗を流す奏を見てどうやら諦めがついたらしい。

 いざこざも、しがらみもなく、彼女たちは奏と接してくれていた。

「――奏さん、すっかり元通りになったみたい。葵依さんはいったいどんな魔法を使ったの?」

 そう言った歩乃海が、興味あり気に葵依の顔を覗きこむ。

「え? ええと……ちょ、ちょっと励ましただけ、かなぁ?」

 歩乃海が冗談で言ったのはわかっている。

 だが『魔法』と言う単語に葵依はつい慌ててしまった。

 制服の背中をくいくいと引っ張られる。

 葵依が振り返ると、カタカタと小刻みに震える姫華の姿があった。

 もしかして、魔法のことがばれたんじゃ?

 訊かずとも姫華がそう思っているのが葵依にはわかった。

「あんたねぇ……ついてきたのなら気配を消して隠れていないで、歩乃海さんとお話しくらいしなさいよ」

「お、お話し? おはな、し……?」

 片言で話す姫華が、葵依の陰からちらりと顔を出す。

 歩乃海がにこりと微笑んで見せた。

 すっ、と姫華が葵依の背に隠れる。

 葵依と歩乃海は顔を見合わせて苦笑した。

「姫華さん、まだ私のこと苦手みたい」

「ごめんねぇ歩乃海さん。でも苦手ってわけじゃないと思うんだ。こら姫華。いい加減にしないと本当に嫌われちゃうよ」

 イヤイヤと姫華が首を横に振る。

「まったくこいつは……。そうだ。歩乃海さんって、今度の土曜日に予定ある?」

「土曜……。えっと、どうだったかな? なにかあるの?」

「姫華の歓迎会をやろうと思ってるんだ。よかったら歩乃海さんもどうかなって」

「まあ、楽しそう」

「えべっ!?」

 愉しげな歩乃海の声と、驚く姫華の声が重なる。

 姫華は葵依の袖を掴んで、ぷるぷると小さく首を振った。

「わ、わたし、き、聞いていない。聞いてないのだけれど?」

「うん。言ってないもん」

 いつかの仕返しだとばかりに、葵依が嬉しそうに笑う。

「か、歓迎会なら、寮とクラスでやってもらったわ」

「そうね。でも私が個人的にはやっていないもの。どうかな? 歩乃海さん。歓迎会って言っても、ご飯食べて遊びに行くだけだけど」

 すこしの間を置いてから、歩乃海が訊ねる。

「……他には誰が来るの? 私がいたら邪魔にならない?」

「葉月ちゃんと、ルームメイトの美菜ちゃんを誘うつもり。美奈ちゃんって知ってる? 私のクラスの神前美菜ちゃん」

「知っているけれど、話したことはないかも……」

「いい子だよ。きっと歩乃海さんと仲良くなれると思うな」

 歩乃海はしばし考え込み、やがてこくりと頷いた。

「土曜は、確か予定がなかったと思う。お言葉に甘えて、お邪魔してもいい?」

 歩乃海の言葉で、姫華の背筋がピンと伸びた。

 その反応が面白くて、葵依は笑いを必死に堪えながらスマートフォンを取り出した。

「じゃあ決まり。連絡先教えくれる? 細かいことが決まったら連絡するから。ほら、姫華もさっさとスマホを出しなさい」

「え? わ、わたしもいいの?」

「あんたの歓迎会でしょ? いいも悪いもないじゃない」

 おずおずと差し出す姫華の手からスマートフォンを引ったくり、葵依は姫華の分、自分の分と順に歩乃海の連絡先を登録した。

「これで番号とメアドは交換できたね。歩乃海さんって、メッセージアプリは使ってる?」

「ううん。ああいうの、ちょっと苦手で」

「そっか。細かいことが決まったら電話かメールするよ」

 葵依の言葉に予鈴が被る。

 ありがとう、と歩乃海が言った。

「楽しみにしているね」

「こっちこそ来てくれてありがとう。姫華もお礼くらい言いなさいよ」

「あ、ありがとう歩乃海さん」

「うん。またね姫華さん」

 三人は手を振り合って別れる。

 一組へ戻る廊下を歩きながら、葵依が姫華に訊ねた。

「で? 姫華ちゃんは、いつになったら歩乃海さんにコンパクトの欠片を返すのかね?」

 コンパクトの欠片。

 正確には割れた鏡の欠片だ。

 歩乃海が持ち歩いている、上蓋に白馬が刻印されたコンパクト。

 その鏡の欠片を、姫華は毎日ハンカチに包んで学校へ持ってきていた。

「――明日こそは」

 姫華はぐっと拳を握り締め、決意に瞳を燃やした。

「……それ、昨日も一昨日も、そのずっと前も聞いた気がするんだけど?」

 これは明日も返せないな。 

 葵依はそう、静かに確信した。



 部活帰りの葵依が寮の廊下を歩いていると、ちょうど部屋から出てきた葉月と美菜に出くわした。

 ふたりは洗濯籠を手にしている。

 はろー、とお互いにいつもの挨拶を交わしてから、葵依がふたりに訊ねた。

「葉月ちゃんと美菜ちゃんって、次の土曜になにか予定ある? 姫華の歓迎会をしようと思ってるんだけど」

 あちゃーと葉月が顔をしかめる。

「その日は他校で練習試合があるんよ。日程ずらせないん?」

「あらま残念。割引券の期限が土曜までなんだ」

「お? よもや高級ホテルのレストランとかかね?」

「まさか。そんな上等なものじゃないよ」

 申し訳なさそうに美菜が謝る。

「葵依ちゃんごめんね。私もマネージャーだからついていかなくちゃいけないの」

「ううん。気にしないで。急に誘った私が悪いんだから。ふたりとも頑張って」

「おう。任せとき。ばんばんシュート決めてくるっしょ」

「姫華さんの歓迎会は、私と葉月ちゃんでも計画しておくね。せっかくだもの。四人でお祝いしましょ」

「ありがと美菜ちゃん。姫華も喜ぶよ」

 美菜はすっかり明るい少女に戻っていた。

 まだ中学生の頃の彼女ほどではないが、それでも間違いなく入学時よりもたくさん笑うようになっている。

 彼女は疑いようも無く、救われたのだと改めて思う。

 けれど、と葵依は考える。

 いや、ずっと考えていた。

 彼女たちのように夢に喰われている子が、まだこの学園にはいるのだ。

 きっとその子たちも目の前にいる美菜のように、優しい心の女の子に違いない。

 奏のように、可愛らしい心の女の子に違いない。

 だからこそ、夢に喰われてしまう。

 ――救ってあげたい。クライエントとなってしまった少女たちを。

 いますぐにでも。

「はて? どしたの葵ちゃん? ボーっとして?」

「あ、えっと。なんでもない。ちょっと考え事しちゃった。引き止めてごめん。洗濯しに行く途中でしょ?」

「うん。溜め込むと美菜に叱られるんだ。参っちゃうよ」

 嬉しそうに葉月が言う。

 その葉月に、美菜が不満げな視線を向けた。

「もっとこまめに洗濯してもいいくらいです。それじゃあ葵依ちゃん。また後でね」

 葉月と美菜は肩を並べて歩いていく。

 元気になったのは美菜だけではない。

 最近の葉月は、いつも楽しそうにしている。

 美菜といるときは尚更だ。

 それは葵依の心を暖かくした。

 ふたりの背を見送ってから葵依は踵を返す。

「わあっ!」

 葵依が悲鳴を上げた。

 いつかのように、自室の扉の隙間から姫華がこっちを覗いていたからだ。

「……姫華さぁ。あんたそれ、なにしてんの? びっくりするんだけど」

「話し声が聞こえたから。もしも知らない人が訪ねてきたら困るし、怖いもの。隠れないと」

「そんな人は寮に入ってこられないから安心しなよ。ところでいまの話、盗み聞きしてた?」

「ええ。美菜さんと葉月さんは来られないのね。残念だわ」

 言葉通り、姫華が寂しそうな顔をする。

 葵依はその頭にポンと触れた。

「ま、そのぶんゆっくり歩乃海さんと話せるからさ。プラマイゼロくらいに考えようよ」

「……そうね。――ところで葵依。あなたひとつ忘れていることがあるわ」

「なに? 忘れてることって?」

「今度の土曜日、わたしの歓迎会をすると言ったけれど、あなたはまだわたしの予定が空いているか確認していないじゃない」

「なんか予定あるの?」

「ある訳ないでしょ。楽しみにしているわ」

 そう言って、姫華が踏ん反り返る。

「――ああ、お礼が言いたかったのね。そういうのは終わってから、素直にありがとうって言えばいいんだよ」

「も、もしかして先に言ってはいけなかった?」

 不安げに姫華が訊ねる。

「いけなくなんてないよ。姫華が喜んでくれれば、みんなそれで嬉しいんだからさ」

「そ、そうなの……?」

 姫華が胸を撫で下ろす。

「姫華はときどき変なことを気にするよね」

「そう、かしら?」

 葵依の言うとおり、自分が人と違うことはわかっている。

 違う環境で育ったとわかっている。

 葵依とも、美菜とも、葉月とも、異なる人生を歩んできたとわかっている。

 そのことに姫華は負い目を感じている。

 自分が彼女たちにしてしまったこと。

 いつかそれを話さなくてはならない。

 いま。

 いま、話してしまおうか。

 そんな考えが過ぎるも、自分に勇気がないこともわかっている。

 話してしまえば、きっとこれまでのようにはいられない。

 歓迎会だって、開いてもらえなくなる。

 ここにだって、いられなくなる。

 だから、もう少しだけ。

 もう少しだけ、このままでいたい。

 少女はそう願うようになっていた。

 ――すぐ先に訪れる苦難に満ちた試練を、姫華はまだ知らずにいる。

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