第28話 第三章8

 川澄葵依の目覚めは、思いのほか悪くはなかった。

 ベッドで身体を起こし、瞼を擦る。

 寝覚めは悪くない。

 しかし思い返す夢は、葵依に強い苦味を伴った後味の悪さを植えつけていく。

 自分は川丘奏から、未来の可能性をひとつ奪ってしまった。

 彼女を救うために仕方がなかったとはいえ、その事実に変わりはない。

 胸が痛んで、呼吸が詰まる。

 他にやり方があったのではないかと考え、頭を振った。

 その思考は、姫華の魔法を疑うことと同義だ。

 美菜を救い、奏を救ったであろう姫華を疑うことと。

 奏にモデルの夢を諦めさせる。

 それが今回の魔法の目的だった。

「――葵依。怒っている?」

 隣のベッドから姫華が葵依に問う。

 少女も起きてから、まだ間もないのだろう。

 フリルのついた水色の可愛らしいパジャマを着たままでいた。

「わからない。でも姫華には怒っていないよ。けれど――私自身にはどうだろう」

 葵依は唇を噛む。

 姫華を責めるようなことを言ってしまった。

 これでは、ただの八つ当たりだ。

「ちょっと飲むものを買ってくるね。姫華はいつもみたいに甘いのでいい?」

「わたしも、ついていっていいかしら?」

「……ごめん。ちょっとひとりになりたいかも」

「――そう。わかった」

 寂しそうに姫華が俯く。

 葵依は机の引き出しから小銭入れを取り出しすと、裸足のままで廊下へ出た。

 葉月と美菜の部屋から笑い声が漏れ聞こえる。

 最近のふたりは、本当にいつも楽しそうにしていた。

 それは姫華のおかげだ。

 葵依の心が、瞬く間に罪悪感で溢れかえる。

 どうして姫華にあんな態度をとってしまったのだろう。

 理由はわかっている。

 奏の夢を壊した責任を、自分以外の誰かになすりつけたかったからだ。

 ――姫華のせいに、したかったからだ。

 葵依は両手で、思い切り自分の頬を叩いた。

 パァンと高い音が静かな廊下に響く。

 ヒリヒリと痛み、涙が滲む。

 葵依は歩きながら、もう一度自分の頬を叩いた。

 さっきよりも強く、叩いた。

 廊下を真っ直ぐに進み、突き当たりを左へ曲がった先に寮生用のラウンジがある。

 話し声が聴こえて、葵依はその手前で足を止めた。

 こんな朝早くに先客がいることに驚いたのだ。

 なんとなく、そっとラウンジを覗く。

「え? 貴志がレギュラーになったの? サッカー強い高校に行ったんだよね? ――わー、やったね。凄いじゃん。――え? 私? 私はなんていうか、ちょっといじけていたというか――」

 そこにいたのはジャージ姿の川丘奏だった。

 彼女は昨日とはまるで違う、明るい声で表情を輝かせている。

 ううん、もう大丈夫と奏はスマートフォン越しに貴志へ言った。

「はあ? 励まして欲しかったとかじゃありませんけど? ちょっと声を聞きたくなっただけですけど? ――ちょっとさ、照れて黙るのやめてくんない? こっちも照れるでしょうが。――身長? 十二センチ伸びたよ。貴志は? ――はい? 五センチ? たったの? ――前より身長差が広がっちゃったじゃないさ。――伸び過ぎ? ――うん。私もそれは気にしないよ。貴志もそういうの気にしないんだもんね? ――あはは。ありがとう。――そうだ。貴志に言っておくことがあったんだ。前にさ、モデル諦めるって言ったけど、あれなかったことにしてよ。やっぱり私、モデルも目指してみようと思って」

 葵依は慌てて自分の口を両手で塞いだ。

 そうしなければ、声を上げてしまいそうだったからだ。

「――うん。貴志ならそう言ってくれると思ってた。せっかく身長伸びたしね。まぁ、すぐにどうこうってつもりはないけど。まずは部活を全力で頑張りたいから。使い古された言葉だけどさ、目の前のことに全力を出せない人って結局なにも出来ないでしょ? 私はそういう風にはなりたくないんだ。――私、頑張るよ。貴志の場合は、無理し過ぎないように注意するのが先決かな? ――じゃあ、朝練頑張ってね。春に、会おうね」

 奏はスマートフォンの液晶をじっと見詰めながら、名残惜しそうにしている。

「――貴志、先に切ってよ。――だから照れて黙るなって。あんた中学の頃よりシャイになってない? ――うん。バイバイ」

 奏は嬉しそうに吐息をついて、スマートフォンをポケットにしまう。

 そこにいる奏は、葵依の知るどの奏とも違った。

 恋をしている、ただの可愛らしい女の子にしか見えない。

「――で? 葵依はいつまでそこに隠れているつもりだい?」

「うえっ!?」

 葵依は恐る恐るラウンジへと顔を出した。

「……奏ちゃん。気づいてたの?」

「気づくもなにも、覗いてるの見えてたよ」

「マジっスか。ごめんなさい」

「いいよ。こっちこそ昨日はごめん。私、すごく感じ悪かったと思う。許して欲しい」

「それはもちろんだよ。でも……」

 葵依は奏をまじまじと見た。

 彼女はすっかりいつもの奏に戻っている。

 けれどそれでは辻褄が合わない。

 奏はモデルを諦めることで、夢に喰われずに済んだはずだ。

 それなのに奏は、先程の電話で再びモデルを目指すと言っていた。

 なにか聞き間違いでもしたのだろうか。

 葵依は無意識に無遠慮な視線を向けていたのだろう。

 奏が頬を染めて目を逸らす。

「あ、あんまりまじまじと見ないでよ。さっきの私、そんなにおかしかった?」

「あ、ち、違う違う。大丈夫、可愛かったよ」

「本当? 可愛かった? って、そうじゃなくて」

 こほんと咳払いをして、奏が頭を下げた。

「――言い訳にしかならないけど、昨日までの私は自分でもよくわからないくらいに、どうかしていたんだ。でもいまは、みんなに謝らなきゃって思う。それでみんなが許してくれたら、私はバレー部に戻りたいんだ」

「バレー部に? バスケ部じゃなくて?」

「私はもともと器用な性格じゃなくてさ。兼部なんて最初からやるべきじゃなかった。それなのにうだうだと迷って……。葵依。許してくれるなら、バレー部の部員集めを私に任せてくれないか?」

「それは……構わないけど、あの、モデルを目指すって話は?」

「春大会が終わってからだね。いまはバレー部のことだけ考えるよ。あとさ、モデルの話はみんなには内緒にして欲しい。さすがにちょっと気恥ずかしいんだ」

 やはり聞き間違いではなかった。

 奏はモデルを目指すつもりでいる。

 それはつまり、姫華の魔法が失敗したということなのではないかと疑問が浮かぶ。

 表面上とてもそうは思えないが、戻って姫華に確認するべきだろう。

 けれど葵依は嬉しくもあった。

 奏はまだ、夢を諦めていない。

「部員集めはみんなで頑張ろうよ。でもバスケ部はどうするの? 兼部をやるべきじゃなかったって……」

「すっぱり辞める。迷惑ばかりかけて無責任だと叱られるだろうけど、納得してもらえるまで説得する。それで一日も早く、バレー部の練習へ参加するよ。これまで本当にごめん」

「いいよ。だからもう私には謝らないで。でも、バスケ部のこと、本当にいいの?」

 奏は強く、深く、しっかりと頷いた。

「ありがとう。同室の姫華さんにも葵依から――いや、やっぱり後で直接謝りにいくよ。彼女にはそうしなくちゃいけない気がするんだ」

 さっそく寮のバスケ部のみんなに謝ってくる。

 奏はそう言って走り去っていった。

 葵依は早足で自室へと戻る。

 奏のことを、姫華に話さなくてはならない。

「姫華!」

「うぎゃー!」

 葵依が勢いよく自室のドアを開けると、姫華が悲鳴を上げながらパジャマの胸元を閉じた。

 どうやら着替え始めたところに葵依が戻ってきたようだ。

「あ、あなたねぇ、ノックぐらいしたらどうなの?」

「ああ、ごめんごめん。それにしても相変わらず不細工な悲鳴だねぇ。――っと、それより姫華。そこで奏ちゃんに会ったんだけど、モデルの夢、諦めてなかったよ。私たち、なにか失敗したんじゃ?」

「なにも失敗していないわ。川丘さんの様子は普段通りに戻っていたでしょ?」

「うん。だから変だなって」

「わたしたちの目的は、彼女に一度『完全にモデルの夢を諦めさせること』だったの。それは成ったでしょう? その後のことは、また別の話よ。他のなにかを目指そうと――それこそまたモデルを目指そうと関係ないの」

「そう――だったんだ」

 姫華はちゃんとわかっていた。

 わかっていたうえで魔法を使い、奏を救っていた。

 そんな姫華を自分は信じてやれなかった。

 葵依は自分の頬を、両手でパァンと叩く。

 三度目のそれが、一番痛かった。

「あ、あなたなにをしているの? 頭でも打ったの?」

 青い顔で姫華が訊ねる。

「――おしおき」

 葵依は痛む頬に涙を滲ませながら、姫華の前で正座をする。

「ごめんなさい。私、姫華のことを疑ってしまった。他に方法があったんじゃないかとか、なにか間違ってしまったんじゃないかとか。

 ううん。それだけじゃない。

 奏ちゃんが夢を諦めたこと、姫華のせいにするところだった」

「ちょ、ちょっとどうしたの? 改まって」

 姫華は胸元を押さえたまま、おたおたと葵依と向き合うように正座をする。

「謝ることなんてなにもないわ。あなたが勘違いをしてしまったのは、わたしの説明が足らなかったから。悪いところはわたしにもあったのよ。もっと考えて、きちんと説明していれば、そんなに悩ませることもなかったのに。だいたい頭の中でわたしのせいにしたとか、黙っていればわからないのよ? どうしてそんな変なところで正直なの? そういう人って、きっと損ばかりするわ」

 葵依は姫華の顔を見る。

 少女は心配そうな眼差しを向けていた。

 思えばいつも、自分は姫華を心配させているような気がする。

「……姫華は優しいけど、フォローの仕方が下手くそね。それと目が赤いけど、泣いていたのかな?」

「な、泣くわけないでしょ! あなたに嫌われたって、なんとも思わないもの」

 姫華は赤いと言われた目を、慌てたようにゴシゴシと擦る。

 それを見た葵依がニヤついた。

「そっかー。姫華ちゃんは、私に嫌われたと思って泣いちゃったんだー。ごめんねー」

「泣いていないと言っているでしょ! 本当に意地の悪い子ね!」

「はいはい。私は意地の悪い子ですよ」

 葵依は膝を立てると、姫華の肩と背中に両腕を回して優しく抱きしめた。

「!?」

 姫華が硬直する。

 突然のことに、葵依になにをされているのかわからない。

「――ごめんなさい。姫華。私はもう絶対にあんたを疑わない。信じ抜く」

 葵依は姫華を抱く手に、ぐっと力を込めた。

 抱きすくめられた姫華は、頬に柔らかくて暖かい感触を覚える。

 ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐった。

 少しだけ息苦しいけれど、それが心地よくさえあった。

 どうしてだろう。身体の力が抜ける。

 触れられた肩と背中から、ぬくもりが広がっていくようだった。

 身体は支えられているのだが、全身に重みを感じる。

 それが姫華へ、これまでに経験したことのない安らぎを与えていた。

 こうして誰かに抱きしめられたことが、自分にはあっただろうか。

 姫華は瞳を閉じる。

 額にかかる吐息がこそばゆい。

 自分のものではない鼓動が聞こえた。

 このままずっと、身を任せてしまおうかと思ってしまう。

 ――けれどそれもつかの間だ。

 姫華の顔がみるみる上気していく。

「いぎゃー! 放してー!!」

 葵依の胸の中で、姫華がじたばたと抵抗をする。

「いた、痛た! 痛いって! そんなに暴れないでよ!」

 姫華は葵依を振りほどくと、そのまま自分のベッドへ潜り込んだ。

「な、なんで葵依はいつも突然襲い掛かってくるの!?」

 布団から顔も出さずに、のた打ち回りながら姫華が叫ぶ。

「誰が襲い掛かったって? 失礼ねぇ。それより姫華。話があるんだけど」

「……なに?」

 僅かに隙間を開けて、布団の下から姫華が警戒した目を覗かせる。

「『姫華を呼んだクライエント』。その人をどうにかして探そう。あんたが言っていたように、そのクライエントが周囲に影響を与え始めているのなら、奏ちゃんみたいな子がたくさん出てくるってことでしょ? それってどう考えても止めたほうがいいはずだよ」

「それについては、わたしも考えているわ」

 姫華は布団から、にょきりと頭を出した。

「葵依には情報収集をお願いしたいの。ここ数ヶ月で急に雰囲気の変わった子がいないかを。あなたいま、そういう子に心当たりはある? 噂程度でもいいのだけれど」

 うーん、と葵依は頭を捻る。

「いないなぁ。前にも話したけど、うちの学校って問題を抱えている生徒には敏感なのよ。

 例えば何年生の誰がトーコ先生の呼び出しを受けそうだとか、そういうのが耳に入った途端に、生活態度を改めるよう誰かしら説得に行くんだ。それで大抵は解決するの。

 他の学校から見たら、ちょっと生徒同士の距離が近すぎて気持ち悪く思われるかもだけど、少なくともこの学園に在籍している間は、みんなそういうのを心掛けていると思う」

 葵依から以前に聞かされた、トーコ先生と生活指導室。

 生徒達がそれを本気で恐れていることを、いまの姫華は知っていた。

「……なるほど。現時点でクライエントが爆発的に増えていないのは、もしかしたらその辺りのことが理由なのかもしれないわ。昨日も話したけれど、川丘さん程度の心の傷でクライエントになるのなら、もっと被害者は多いはずだもの」

「明日から一クラスずつ回ってみる? 意味ない?」

「そんなことないわ。様子のおかしい子がいれば、わたしの魔法でクライエントかどうか調べられるもの。時間は掛かるけれど、確実な方法よ」

「じゃあ、さっそく明日の昼から動こう。姫華も頑張れる?」

「じ、自信はないけれど努力するわ。だから葵依はわたしの傍にいてちょうだい」

「そこは『まかせて!』って言うところじゃないの? 本当に頼りないなぁ。この人見知り」

 むぅ、と姫華が頬を膨らませる。

「仕方ないでしょ。すぐに直せるようなものじゃないのだから」

「まぁ、そうだろうねぇ。……ところで姫華は、いつまでそうしているのさ?」

「……あなたが部屋からいなくなるまでかしらね」

 姫華は亀のように頭を引っ込めると、目を覗かせていた細い布団の隙間を、すっと閉じた。

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