第26話 第三章6
「もう目を開けてもいいわ」
姫華の指示に従って葵依は目を開ける。
そこはコンクリートの建物に挟まれた、どこかの狭い路地裏だった。
積み上げられたゴミの山と、ゴンゴンと騒がしいエアコン室外機が置かれた袋小路。
つい数秒前――それこそ瞬きをする間に、葵依の見ていた風景は変わってしまった。
葵依は足元へ目を落とす。
そこにあったはずの古新聞も自室の床も、まるで幻であったかのように姿を消していた。
しかも変わったのは場所だけではない。
ここは葵依たちがいたのとは異なる世界の、さらに三年前という過去だった。
「葵依? 大丈夫? もしかして具合が悪くなった?」
ぼんやりとしている葵依の顔を、姫華が心配そうに覗きこむ。
「え? あ、ううん。そんなことない。まだ慣れないだけ」
大丈夫だよと、葵依は笑顔を返した。
これまで何度も抱いた感想だが、葵依は姫華を見て「本当に綺麗な子だなぁ」といつも思う。
そして自分が仮に男の子であったなら、間違いなく恋に落ちているだろうとも。
けれど葵依の目から見た姫華の特別は、その優れた容姿だけだった。
クライエントを救おうとする姫華はすこしだけ凛々しいけれど、それ以外は至って普通の――普通よりもすこしだけ人見知りで臆病な女の子に過ぎない。
そんな姫華がこうして魔法を使うのが、未だに不思議でならなかった。
「ここは東京の外れにある青梅市よ。駅前の本屋に中学二年生の川丘さんがいるわ。すぐ近くだから、とりあえず向かいましょう」
姫華に促されて路地裏を出ると、すぐ目の前には金網に囲まれた横長の駐輪場があった。
その駐輪場の向こう側で、ちょうど到着したオレンジ色の電車が停車している。
線路を右手に数メートル進むと、円環状の歩道橋と三角屋根の駅が見えた。
目的の本屋は駅前のロータリーに面した場所にある、二階建てビルの一階だった。
店の前には五台分の駐車場がある。
自動ドアを抜けると、なぜか右手側に酒や煙草を販売しているコンビニエンスストアのような一画がある。
どう考えても場違いな施設に驚いて足を止めていると、姫華が腕を引っ張ってきた。
「葵依見て。あの子が川丘さんよね?」
自動ドアを挟んだ反対側。ガラス張りの壁面に沿って設置された女性向けファッション誌の書架の前で、紺のブレザーを来た川丘奏が一冊の雑誌を食い入るように見ている。
髪型を含めた全体の雰囲気は、高校生となったいまとさほど違いはない。
ただ身長は十センチほど低く、いまの葵依と同じくらいだった。
「うん。間違いないと思う。……中学生の奏ちゃんもかっこいいねぇ」
「ええ。どこかの四天王とは違って、風格のようなものが感じられるわ。とても同じ四天王だなんて思えないくらいね」
「……姫華ちゃん。次にそのネタを口にしたら、私はみんなの前であんたの腰にしがみついて、びーびー泣き叫ぶからね」
「な、なんて気色の悪い脅迫を……。恐ろしい子だわ」
「うっさい。それで、私たちはどう動けば?」
「さりげなく声を掛けて、読者モデルに応募するよう説得してちょうだい」
「難易度の高いことをさらりと……まあ、やってみるよ」
「あ、待って葵依」
姫華の制止で葵依は足を止める。
いつの間にか、奏の隣に短髪の少年が立っていた。
奏と同じデザインのブレザーを着た少年は、奏より頭一つ分くらい背が低い。
よお、と少年は気安い様子で奏に声を掛ける。
「珍しいな。カナがファッション誌なんて」
「た、貴志? あんた、なんでここに?」
奏は慌てて手に持っていた雑誌を背後に隠す。
「外から姿が見えたからだけど。……なんで隠した? もしかしてエロ本だったのか?」
「バカじゃない? そんな訳ないでしょう。――まぁ、あんたに隠してもしょうがないか。この雑誌で読者モデルを募集しているのよ。ほら、私って背が高いでしょ? 似合わないとは思うけど、応募してみようかなって」
奏が照れながら差し出した雑誌の表紙を、貴志はしげしげと眺める。
雑誌名は『キュート&パッション』。
チュニックワンピースを着た可愛らしい女の子が、ひまわりの花束を抱えて笑っている表紙だった。
貴志がうーんと困ったように唸る。
「……こりゃあ、確かにカナには似合わないな」
貴志の言葉で、奏の表情が固まる。
そして少女は、すぐさま明らかな作り笑いを浮かべた。
「だよねぇ。なにを血迷ってるんだって話だよね。――じゃあ私、先に帰るね」
「あ? ちょっと待てよカナ。おまえは――」
貴志が奏の腕に手を伸ばす。
しかし奏はそれを振り払い、早足で店の外へと出て行った。
「……なんだよあいつ、本当にせっかちだなぁ」
「ちょっとキミ! 女の子になんてこと言うの!」
葵依は鼻息荒く大股で貴志へと近づくと、その鼻先へと詰め寄った。
見知らぬ女の、あまりの剣幕と突然の出来事に貴志がたじろぐ。
「だ、誰だあんた? 赤毛? 不良か?」
「不良じゃないわよ! 奏ちゃんの友達!」
「友達? カナの奴、こんなのと付き合ってるのかよ」
「なによこんなのって! そんなことより、どうして女の子にあんな酷いこと言うの? 奏ちゃん、傷ついてたじゃない!」
「酷いこと? なんの話だよ?」
「モデルが似合わないって言ったでしょ!」
「そうじゃないって。カナなら、こっちのほうが合うって言いたかったんだよ」
貴志は一冊の雑誌を葵依へと差し出す。
表紙にはストレートの黒髪を伸ばしたスーツスタイルのすらりとした美人が写っていた。
雑誌名は『クール×W』。
葵依は奏が見ていた雑誌と、貴志に差し出された二つの雑誌を見比べる。
彼の言う通り、確かに奏なら後者のほうが合うだろう。
「だったらそう言いなさいよ! なんで言わないの!」
「言う前にいなくなっちまったんだよ。つうか、ちょっと落ち着いてくれよ」
葵依は二冊の雑誌を引っ手繰るように取ると、人差し指をビシリと貴志へ突きつけた。
「これ、お姉さんが買ってあげる。だからキミはこれを持って、奏ちゃんを追いかけて」
「な、なんで俺がそんなこと――」
「いいから言うとおりにしなさい!」
「わ、わかった」
葵依は頷くとレジへ向かい、会計を手早く済ませて戻ってきた。
「はい! 早く追って!」
葵依は雑誌の入った紙袋を貴志の胸へと押し付けた。
「あ、ありがとう」
礼を言って貴志がそれを受け取る。
「いいから走る!」
「お、おう!」
貴志は紙袋を脇に抱え、店の出口へと走った。
そこで足を止めて、葵依を振り返る。
「ありがとう! ヤンキーのねーちゃん! 俺、あいつに話したいことがあったんだ!」
「ヤンキーじゃない!」
貴志は笑顔を見せて手を振ると、そのまま走り去っていった。
このときになって、ようやく周囲がどよめいていると葵依は気づいた。
カーッと顔が熱くなる。
注目されていると自覚した葵依は、恥ずかしくて俯いてしまう。
「……やるわね葵依。わたしの出番がまるでなかったわ」
頬を赤く染めた姫華にぽんと肩を叩かれた葵依は、堪えきれず両手で顔を覆い隠した。
「――なんか変なテンションになっちゃった。恥ずかしい。消え去りたい」
「そうね。見ていてとても怖かったわ。とても恥ずかしかったわ。とても痛ましかったわ。わたしも顔から火を噴きそうよ。それとあなたが女の子っぽい仕草をすると、どうしてか不安な気持ちになるわね。ほら見てわたしの腕。鳥肌がこんなにびっしり」
「なんでトドメを刺すのさ? 優しくしてあげようよ。励ましてあげようよ。――私、雑誌を二冊も買ってしまったから、こんどの休みにあんたと一緒に食べに行こうと思って貯めておいたケーキ代がなくなっちゃった」
「その話、わたしは初耳なのだけれど? まあいいわ。頑張ったご褒美にわたしが食べさせてあげる」
「本当? 一番大きなショートケーキを頼んでもいい? モンブランも食べていい?」
「いいけれど、それ以上はダメよ。あなたも一応は女の子なのだから、無駄に太りたくはないでしょう?」
「わーい」
葵依が両手を挙げて喜びを表現する。
姫華がやれやれと嘆息した。
「さあ、わたしたちもふたりを追いましょう。過去はまだ変わっていないのだから」
「追うって……どこへ行ったかわかるの?」
「わたしたちが転移した場所のすぐ近くにいるわ。あのふたりは家が隣同士の幼馴染だから、帰り道が同じなの。貴志はもう川丘さんに追いついているはずよ」
「なにそれずるい。私も家が隣同士の幼馴染が欲しい。もちろん優しいイケメンで、私のことだけが好きな男の子がいい。あと出来れば身長も、私より二十センチ高くて――」
「来世に期待しましょう。もしくは帰ってから、ベッドの中で幸せな妄想に耽るといいわ」
「ああっ、待って姫華」
葵依はひとりで店を出ようとする姫華の背中を追った。
駐車場を抜けて線路沿いの道に出ると、葵依たちが転移してきた路地裏のすこし先で奏と貴志が向き合っていた。
葵依と姫華は路地裏に忍び込み、ふたりに気づかれぬようこっそりと様子を伺う。
貴志は雑誌の入った紙袋を、奏の胸の前へ突きつけている。
奏は右手で自身の左腕を握り締め、貴志から視線を逸らしていた。
「『さっきの雑誌を買ってきた』ってなに? 冗談のつもり? それとも嫌味? どっちにしても笑えないんだけど」
刺々しい口調で奏が早口に言った。
「どっちでもねぇよ。話の途中でいなくなりやがって。せっかちなところ直せよ。もともとおまえ、ちょっと誤解されやすいんだから」
「……貴志には、もうすぐ関係なくなるじゃない。ほっといてよ」
傍目にも奏が意固地になっているのがわかる。
けれど貴志も引き下がらない。
「あのなぁ。俺が引っ越しても、カナとの縁がなくなるわけじゃないんだぞ? 心配でほっとけないだろ」
「誰も心配してなんて頼んでない。その雑誌もいらない。モデルなんてどうせ向いてないって、最初からわかっていたんだから」
「拗ねてないで話を聞けって。俺はもう明後日にはいなくなるんだ。こんな喧嘩別れみたいなの勘弁してくれよ。カナはそれでいいのか? 俺は嫌だよ、そんなの」
「……私だって、よくはないけど」
ちらりと奏が貴志に視線を向ける。
姫華は葵依の背中にトントンと指で触れると、小声で言った。
「葵依、過去が変わったわ。帰りましょう」
「ちょっと待って! いまいいところだから!」
「悪趣味ねぇ……」
姫華は呆れ顔を浮かべるが、葵依は構わずかぶりついていた。
貴志は紙袋から雑誌を一冊取り出すと、その表紙を奏に向ける。
「俺が言いたかったのは、どうせ応募するならこっちにも送れってことだよ。カナが見ていた雑誌より、こっちのほうが合っていると俺は思ったんだ」
奏は貴志から雑誌を受け取ると、その表紙に目を落とした。
「『クール×W』……。これ私よりも、ずっと大人向けの雑誌だよ」
「カナは大人っぽいんだから丁度いいだろ。それとこっちも」
貴志は『キュート&パッション』を奏に押し付けた。
「そっちの雑誌にもちゃんと応募しろよ。おまえは可愛い系じゃないけど、可愛くないわけじゃないんだからな」
奏の顔がぼっと火照る。
「……そ、そういうことを女の子に言うと、勘違いされるから気をつけなさいよ。貴志の癖に――ちょっとだけ、クラっとしちゃったじゃない」
なんてね、と奏が笑う。
「冗談冗談。貴志は小柄な女の子が好きなんだもんね。わかってるわかってる」
「――俺がいつそんなこと言ったんだよ? 別に身長なんて、スカイツリーくらいあっても構わねぇし」
「は? なにそれ? ほ、本気で言ってるの? てか私、そこまで大きくないけど?」
奏は照れ隠しに怒り顔を作るが、もじもじと頬を染めているのであまり意味がない。
今度はそれを見た貴志が顔を赤らめ、奏から目を逸らす。
「……本気だよ。けど、いまはまだカナに告白なんてしないからな。せめてサッカー部でレギュラーを獲ってから――いや、エースになって、おまえに相応しい男になってからだ」
「……それ、こ、こく、告白しているのと同じじゃない。バカなの?」
「俺に告白をしているつもりがなければ、告白じゃないんだよ。とにかく俺はカナを超える男になるんだ」
「なによ、超えるって。私そんなの気にしないし。それに私、二年生だけどチームの得点王だよ。自慢じゃないけど、全中大会でも得点王狙えるって言われてるんだからね」
貴志は逸らしていた視線を奏の瞳へと戻す。
「だからどうした。俺がその上を行けばいいだけだろ。ただし次に再会したとき、カナがつまらない奴になっていたら、この話は無しだからな。だからバスケでもモデルでも、精一杯にやってみせろよ」
貴志の目に宿るのは照れでも迷いでもなく、ただ純粋な決意だった。
奏はその真剣な眼差しに、しばし言葉を失してしまう。
彼の言葉に、偽りがないとわかったからだ。
「――なにさ。偉そうに」
奏は瞳を閉じると、二冊の雑誌をぎゅっと胸に抱く。
「……貴志って、本当にバカ。もっと早く言ってよ。そういうことは」
奏は貴志の横に並ぶと、自分の肩を貴志のそれにぶつけた。
くぅ~、と葵依が身悶えする。
「いいですなぁ。甘酸っぱいですなぁ。羨ましいですなぁ。私も彼氏が欲しいなぁ」
肩を並べ、寄り添って歩く奏と貴志の背中を見送りながら、葵依は心底から搾り出したかのような声で呟く。
「そんなに欲しいのなら、葵依も恋人を作ればいいじゃない」
「……随分と簡単に言ってくれるわね。こちとら同年代の男の子と、もう何ヶ月も話しすらしていないってのに。――葉月ちゃんとか、頼み込んだら彼氏になってくれないかな?」
「無茶苦茶言い過ぎでしょ……」
まあいいや、と葵依が伸びをする。
「これで解決かぁ。でも奏ちゃんがモデルになるのは、ちょっと寂しいな。もう一緒に部活も出来なくなるだろうし。――それで私たちの世界の奏ちゃんは、いつ頃モデルになるの?」
「え?」
葵依の言葉に、姫華がきょとんとする。
「ん? なに? どうかした?」
「もしかして……葵依は過去を変えることで、川丘さんがモデルになると思っていたの?」
「そうだよ。だって目的は読者モデルに応募させることだったんでしょ? それって応募さえしていれば、奏ちゃんがモデルになっていたって話じゃ――」
言葉を紡ぎながら、葵依は以前に聞いた姫華の言葉を思い出していた。
『すべての世界は繋がっていて、ちいさな過去を変えることはできても、人生の本筋を改変するような真似はできない』
姫華は確かに、そう言っていた。
そしてなによりも、奏は夢に喰われるはずのない人間だった。
それはつまり、本来は葵依と姫華がこうして奏のために、別世界の過去へ行くはずはなかったということになる。
言い知れぬ不安が、葵依の胸にじわりと薄暗い染みを広げた。
「……それじゃあ私たちって、ここでいったいなにをしたの?」
葵依の問いに、姫華は僅かに目を伏せる。
「――断ち切ったのよ。彼女の後悔と、未来のひとつを」
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