第24話 第三章4

「とりあえず、どんな感じか見てくれる?」

 そう葉月に言われたとおり、葵依と姫華は体育館の舞台袖から、こっそりとバスケットボール部の練習風景を見学していた。

 葵依の所属するバレーボール部とは違い、バスケットボール部の部員数は優に三十人を超えている。

 実力的にも都内で強豪に数えられるチームだった。

 そんなバスケ部が、なぜ兼部などという中途半端なことを許しているのか。

 それは奏の意思ではなく、彼女が中学時代に残した成績が理由だった。

 奏は中学三年生のとき、バスケの全国中学生大会において準優勝チームの得点王だったのだ。

 そんな彼女がなぜか高校への推薦入学をすべて断り、一般入試で入った高校の、しかも存続すら危ういバレーボール部へ入部した。

 奏の経歴を知ったバスケ部員たちは、当然のように転部をさせるべく行動に移る。

 だが奏は決して首を縦には振らなかった。

 スポーツセンスに優れた奏は、入部してすぐにバレーボール選手としての才能を開花させ、その頭角を現していった。

 彼女自身、高校で始めたバレーボールが楽しくてしかたがなかった。

 しかしバスケ部員たちも諦めない。

 どうにか考え直すよう、足しげく奏の元へと通ってきた。

 結果として『バレーボール部優先の兼部』が奏とバスケ部との落とし所となる。

 奏は週に一度の平日、バレー部が休みの日だけバスケ部の練習に参加していた。

 それにも関わらず練習試合、公式戦を問わずすべての試合でレギュラーとして起用されていた。

 普通に考えれば、そんな奏に反発する部員が多く出るのは当然だった。

 しかしそんな反発すら起こさせないほど、奏のバスケットボール選手としての実力は本物で揺るぎないものだった。

 とても控えめに言って、他の部員達とはレベルが違ったのだ。

 それを証明するかのように、奏は一年生でありながらすでに複数の大学から推薦の話を持ちかけられていた。

 だからなのだろう。強豪でありながらも、兼部という中途半端な立ち位置の川丘奏をバスケ部が手放そうとしないのは。

 選手として優秀なだけではなく、奏の存在自体がこの学園の名声を上げることにも繋がるのだから。

 けれど葵依の知る川丘奏は、そういった評価に胡坐をかく人間ではない。

 誰よりも早く練習を始め、声を出し、積極的にボールを受け、後輩を指導し、先輩に助言を求める。

 己の上達だけではなく、チームとしてのまとまりやレベルアップにも尽力していた。

 そして体育館を出るのは、いつも決まって彼女が最後だった。

 その姿を見てきただけに、葵依は目の前の光景がうまく飲み込めずにいた。

 コート内で一人だけ走らずにいる。

 パスを受けても、それを前線へ無作為に送る。

 シュートは打たない。

 ライン際のボールを追わない。

 およそやる気というものとは程遠いスタイルで、練習に望んでいる長身の少女。

 周囲の動揺がこちらまで伝わってくるようだ。

「どう? 姫華。奏ちゃんもやっぱりクライエント?」

 葵依の問いに、姫華が頷く。

「間違いないわ。まだ初期の段階ね。けれど少し症状が重いというか、進行が早いみたい」

「どういうこと? なにかヤバかったりするの?」

 焦りの混ざる葵依の声音に、姫華はすぐさまそれを否定する。

「ああ、ごめんなさい。なにも不安に感じることはないわ。帰ったら別世界へ行きましょう。それですぐに解決するはずよ。――でも、すこしだけでも話ができればいいのだけれど」

 それにしても、と姫華が続ける。

「あんなに背の高い女子高生っているのね。二メートルくらいあるかしら?」

「そこまで大きくないよ。確か百七十五センチとか言ってたかな? もっと大きい子もいると思うけど」

 川丘奏はすらりとした長身で、黒髪をショートにしている。

 色白だが男装が似合いそうな顔立ちで、言動にも裏表がなく爽やかさを絵に描いたような少女だった。

 女生徒たちからの人気も高く、王子様の呼び名が定着している。

 姫華がうっとりとため息をついた。

「かっこいい子ね。わたしもああいう風になってみたいわ」

「それならまずは夜更かしして漫画読むのをやめないと。寝る子は育つっていうでしょ」

「なるほど一理あるわ。美菜さんが蚤のようにちいさいのも、その辺りが原因ということね」

「ちょっと。なにをさらっと美菜ちゃんの悪口言ってんのさ。だいたいあんたと美菜ちゃんは、あんまり身長変わらないかんね」

「葵依。川丘さんを呼んでくれる? ちょうど休憩に入りそう」

「おっけ。ちと待ってて」

 葵依は舞台袖から飛び降りると、奏に向かってブンブンと手を振った。

 葵依の存在に気づいた奏は「まずいな」という顔をする。

 思ったことがすぐ顔に出るのは、彼女の欠点でもあり、愛すべきチャームポイントでもあった。

「……やあ。なんだか久し振りだね。葵依」

 ゆっくりと傍に寄ってきた奏は、葵依から目を逸らしている。

 葵依の知る奏は、相手の目を真っ直ぐに見る少女だった。

 彼女の中で異変が起きているのだと、葵依は実感する。

「寮でも会わないもんね。食事も同室の子が部屋まで運んでるって聞いたよ」

「――バスケ部のみんなに会いたくなくてさ。色々言われるの、しんどいんだ」

「バスケ、嫌いになっちゃった?」

「一度やめたものだからかな。やる気がでなくて」

「じゃあ、バレーならどう? 明日からまた一緒に練習する?」

「あー……。それもちょっと、どうだろう」

 生気のない目で頭を掻きながら、面倒臭そうに奏は答える。

 自分は一体、誰と話しているのか。

 なにも知らなければ、葵依はそう思っただろう。

 美菜のときにも経験したことだが、夢に喰われた人間がこうまで変わってしまうという事実が、葵依には単純に恐ろしく感じる。

「……もういいかな。そろそろ休憩が終わるんだ」

「あ、ちょっと待って。姫華がすこし話したいって――」

 葵依は振り返るも、そこに姫華の姿はなかった。

 いつものように背中にへばりついていると思い込んでいた葵依は、きょろきょろと姫華の姿を探す。

「――姫華って、あの子?」

 奏が舞台を指差した。

 舞台上、緞帳の陰から顔だけを半分だして姫華がこちらを見ている。

 その瞳はいつものように、強い警戒色を帯びていた。

「ウーップス。……マジっスか。プリンセス」

 姫華の想像を絶するヘタレぶりに呆然とする葵依の脇を、奏がすり抜けて舞台下へと歩んでゆく。

 近づいてくる奏を見て、姫華がお決まりのように短い悲鳴を上げた。

「――私に話ってなに?」

 奏に問われた姫華は、助けを求めるようにちらちらと葵依を見る。

 しかし葵依は不機嫌そうにそっぽを向いて、視線を合わせようとはしてくれない。

「こ、こんにちは。西行寺姫華です」

「……こんにちは。川丘奏です」

 姫華は意を決して口を開くも、奏が興味を示す素振りはない。

「あの、質問があるんです」

「どうぞ」

「えと、過去に――正確には中学二年生の秋頃に、なにか『後悔』するようなことがありませんでしたか?」

「なっ……」

 奏が驚愕の表情を見せる。

 だがそれは一瞬で苛立ちへと変わった。

「――特になにも。仮にあったとしても、初対面の相手に話すようなことじゃない」

「ご、ごめんなさい」

 奏の強い口調に姫華の瞳が潤む。それを見た奏の瞳も揺らぐ。

「……いや、こっちこそ強く言い過ぎたよ。ごめん。他に聞きたいことは?」

 姫華は首を横に振った。

「ならこれで」

 奏は踵を返すと、葵依へ一言もかけずにコートへと戻っていった。

 葉月と美菜がすすっと、摺り足で葵依の隣へと並ぶ。

「葵依ちゃん。どうだった?」

「うーんと、とりあえず、したい話は出来たかなって感じ?」

 明日には解決しているよ、などと言える訳もなく、葵依は曖昧な返事をする。

「そっかー。さっすが葵ちゃん。本当にありがとね。あたしらのほうでもこの後また話して――」

 ドン、ドンと鈍い音が二度、立て続けに響く。

 張り詰めた空気と共に、静寂とざわめきが順に訪れた。

 そしてそれは、掠れた悲鳴へと変わる。

 室内スポーツ経験者の多くが知るそれは、常に暗い予感を纏っている。

 葵依と葉月が視線を向けた先で、一年生の部員と川丘奏が、体育館の床でうつ伏せに倒れ込んでいた。

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