第22話 第三章2
「日が悪かったようね。今日は諦めましょう」
ドアの陰から三組を覗いていた姫華は、声と膝を震わせながら葵依にそう進言した。
教室内では、一之瀬歩乃海がクラスメイトたちと楽しげに談笑している。
そこへ割り込む勇気が姫華にはないのだろう。
葵依はちいさくため息をついた。
「一之瀬さんがひとりでいる機会なんて、そうそうないと思うけど? それと私の制服を引っ張るのやめなさい」
葵依は袖を握り締めている姫華の手をぴしゃりと叩く。
ふたりがこうして歩乃海のクラスを訪ねるのは、実は今回が初めてではなかった。
姫華はたびたび、歩乃海がひとりになるタイミングを見計らってコンパクトの欠片を返そうとしていた。
けれど彼女の周りにはいつだって誰かが傍にいる。
歩乃海は特定の友人と仲良くしているというよりは、誰とでも親しく話しているように見受けられた。
まるでクラスメイト全員が歩乃海の友人であるかのようだ。実際にクラスの誰に訊いたとしても、皆が歩乃海を友達だと言うだろう。
歩乃海は鏡の割れたコンパクトを持ち歩いていることを、誰にも言わないでと話していた。
姫華はその約束を守るべく、こうしてこそこそとその機会を伺っている。
健気だとは思うが、鏡の欠片を返したければ歩乃海をどこかへ呼び出せばいいだけだ。
それだけのことが、どうして出来ないのか葵依には不思議でならない。
どうやら今回も、こうして陰から歩乃海を眺めるだけで終わりそうだった。
「ぶぎゃあ!」
そう葵依が考えていた矢先に、姫華が日常生活ではおよそ聞くことのない不細工な悲鳴を上げる。
「な、なに? どうしたの?」
「ほ、歩乃海さんと目が合ってしまったわ。どうしよう? どうすればいいの?」
「手を振れば? こっちへ来てくれるんじゃない?」
情けない声を出す姫華に、葵依は至極まっとうな答えを返す。
「む、ムリムリ! 逃げましょう!」
「えぇっ? 嘘でしょ? そんなことしたら嫌われるよ?」
「いいから早く!」
姫華は制止する葵依の後ろに回りこみ、その背中を両手で力任せに押した。
「わ、わかったわかった。危ないから押さないで」
「一階! 一階まで逃げるのよ!」
葵依の手首を掴み、姫華は小走りで廊下を駆ける。
中央階段から一階へ降り、そのまま来賓用玄関前を経由して職員室前へと辿り着いた。
「もう! ダメだよ姫華。ああいうのって本当に失礼なんだから。歩乃海さんに嫌な思いをさせてもいいの?」
ハァハァと肩を上下させる姫華を葵依は叱りつけた。
「よ、よくないけれど、どうしていいか、わからなくて……」
姫華は胸の前で指先を組み合わせ、おどおどと答える。
「イメージトレーニングはどうしたのよ? 最初は挨拶するだけでもいいんだよ?」
「挨拶? そんなことでいいの?」
姫華は目を丸くした。
「いいもなにも、クラスのみんなとは普通に挨拶しているでしょ? おかげでキョーコちゃんたちとは、いつも一緒にお弁当を食べるほど仲良くなれたじゃない」
キョーコちゃん。
姫華の登校初日から、積極的に話しかけてきてくれた三人組のひとりだ。
「だってそれは……あの子たちとは、友達ではないから」
困惑したように姫華が言った。
『友達ではないから』
その言葉の意味を、葵依は即座に理解できなかった。
――葵依ちゃんばかり姫華ちゃんを独占してずるい。
そう言って楽しげに笑っていたキョーコの顔が浮かぶ。
初めて姫華と一緒にお昼を過ごした後、彼女は嬉しそうに葵依へ話した。
やっと姫華ちゃんとお友達になれたよ、と。
葵依の額がカッと熱くなる。
声を荒げずにいるので精一杯だった。
「――もしもそれをキョーコちゃんたちに言ったら、私は絶対にあんたを許さないから」
自分を睨む葵依に、姫華は戸惑った顔を向ける。
「お、怒られたってどうにもできないわ。わたしはまだ、誰とも『そういう話』をしていないのだもの」
「『そういう話』? なによそれ?」
「なにって……だって、友達になるには――」
「もしかして、喧嘩をしているの?」
職員室の入り口からかけられた声に、葵依と姫華が硬直する。
ワイシャツにカーディガン、黒のタイトスカートといういつもの格好で、おろおろとしている女教師は、すでに瞳を潤ませていた。
勘違いであって欲しい。
葵依と姫華がゆっくり声の主へ顔を向けると、そこに立っていたのは間違いなく、担任であり生活指導担当でもあるトーコ先生だった。
「川澄さん。西行寺さん。喧嘩をしているの? 喧嘩をしているのね?」
葵依が顔の前で両手をぶんぶんと振る。
「ま、まさかまさか! 喧嘩なんてするわけないですよ!」
姫華はそれを肯定するべくひたすら頷いていた。
「でも、言い争うような声が職員室内まで響いていたから……」
「おしゃ、お喋りしていただけですよ。私も西行寺さんも声が大きいから」
「わざわざ職員室へ来たのだもの。私に話したいことがあるのでしょう? 『生活指導室』でお話を聞きましょうか?」
葵依と姫華は「ひいっ!」と短く悲鳴を上げ、次いでガシリと互いに肩を組んだ。
「た、たまたま、たまたまっス! たまたま、職員室の前で話をしていただけで。私と西行寺さんはとっても仲良しなんですから」
「そう、そうです。わたしたち、喧嘩なんてしたことないです」
「本当に? ……良かった。でもなにかあったらいつでも相談してくださいね」
「はい! 失礼します!」
ふたりは肩を組んだまま、駆け足で職員室を離れる。
廊下を曲がり、トーコ先生の視界から逃れた場所で足を止めた。
「……姫華。『口から心臓が飛び出る』って表現あるでしょ? 私、それを現実にやらかすところだったよ」
額に噴き出した冷や汗を拭いながら、葵依が言った。
「奇遇ね。わたしもよ」
姫華の瞳には涙が滲んでいる。
彼女は生活指導室から出てきた自分が、感情を失ったおさげの少女になっている姿まで想像していた。
一刻も早くもっと職員室から離れよう。
そう考えていたにも関わらず、ふたりはすぐさま足を止め、そろって息を呑んだ。
柱の陰から半身を覗かせて、一之瀬歩乃海がこちらを見ていたからだ。
えっと、と申し訳なさそうに歩乃海が言う。
「ごめんね。西行寺さんを探して来たのだけれど、ふたりがトーコ先生と話していて、しかも『生活指導室』って言葉が聞こえたから思わず隠れちゃった。……大丈夫だった?」
葵依がギクシャクと頷く。
「だ、大丈夫。先生の勘違いだから。それより。さっきはごめんなさい。姫華が失礼なことをしてしまって」
歩乃海もトーコ先生と生活指導室のセットは怖いようだ。
「ううん。それはいいの。西行寺さんが人見知りだっていうのはわかっているから。でも私に用事があるのかなって思って、追いかけてきちゃった」
「そ、そうだ。わたし――」
姫華は鏡の欠片を包んだハンカチを取り出そうと、スカートのポケットに手を入れる。
ふふふ、と感じ良く歩乃海が微笑んだ。
「川澄さんと西行寺さんって、本当に仲がいいのね。私、女の子同士で肩を組んでいる姿って、初めて見たかも」
葵依と姫華が顔を見合わせる。
鼻先がぶつかりそうなほど距離が近くて、ふたりは赤面しながら慌てて離れた。
「西行寺さんは、川澄さんとなら普通にお話できるのね。……もしかして私って、西行寺さんから見ると、どこか怖いところがあるのかしら?」
「ま、まさか。一之瀬さんに怖いところなんてないわ。むしろ葵依のほうが遥かに怖いもの。髪の毛は赤いし、目つきが悪いし、ゴリラみたいに力が強いし」
「おっと。どさくさに紛れて私の悪口を言ったね? お嬢さん。聞き逃さんよ? 許さんよ?」
ああ、と歩乃海が思い出し笑いをする。
「そういえば入学当初の川澄さんって、みんなに怖がられていたのよ。髪が赤くて、背が高めで、日焼けしていて、そのうえ美人だったから漫画に出てくる不良みたいだって」
「び、美人? 私が? いや、それより怖がられていたの? 私」
葵依は、まったく知らなかった事実にショックを受けた。
そうよ、と歩乃海が答える。
「本当に最初だけだったけどね。赤い髪がお祖父さんの遺伝で、日焼けしているのも部活を頑張っているからだってわかってからは、誰も怖がらなくなったけど。実際に川澄さんと話した子たちが、優しかったって言って回っていたし」
「うわ……なんか恥ずかしいな」
葵依が照れ臭そうに人差し指で頬を掻く。
言われてみれば確かに入学当初は、美菜以外にクラスで話してくれる子があまりいなかったような気がする。
みんなも緊張しているのだろうと思っていたが、そういう理由があったのだといまになって知った。
「じゃあ、もしかしてこれも知らない? 川澄さんが一部の生徒達から『学園の四天王』って呼ばれていること」
「は、はい? 四天王? え? なにそれどういうこと?」
葵依が目を白黒させた。
姫華は葵依からそっと離れ、「やっぱり不良じゃないか」と口元を押さえて震える。
「学園の四人の美人をそう呼んでいるんですって。四天王のうち、二人がバレーボール部に入ったって、当時はちょっとした話題だったのよ」
「バレーボール部? ってことは、カナデちゃんも四天王なの? あー、それはちょっとわかるかも」
カナデちゃんこと川丘奏は、葵依と同じくふたりだけいる二年生部員のひとりだ。
渾名はとてもわかりやすく『王子様』で、生徒たちから人気があった。
でも、と葵依が続ける。
「私が入っているってのは、流石に冗談でしょ? 私より綺麗な子なんて、いくらでもいるもの」
目の前にいる一之瀬歩乃海もその一人だ。
万が一にも自分が入っているのなら、彼女が入らないわけがない
「不思議。本人たちにはそういう話って伝わらないものなのね。実は残るふたりが誰かは、私も知らなくて。友達に聞いてもどうしても教えてくれないのよ」
それは歩乃海も四天王に数えられているから――ではないかと葵依は推測する。
「でもいまは、西行寺さんも含めて五天王とか言っている子もいて、なんかよくわからないことになっているけれど」
「え? わ、わたしが? なんで?」
姫華は葵依の裾を引っ張る。
「なんでって、姫華が入らないのはおかしいでしょ?」
「私もそう思うな。西行寺さんが入らないのはおかしいよ」
あははと、歩乃海は口を開けて笑う。
その気取らない姿に、葵依は歩乃海へ改めて好感を抱いた。
そうだ、と歩乃海は急に真剣な表情を見せる。
「さっき話にでた奏さんだけど、最近はバレーボール部の練習にちゃんと来てる?」
「奏ちゃん? バレー部の練習には出てないよ。いまは兼部してるバスケ部のほうに本腰を入れているはずだから」
「そっか。やっぱりバレー部にも行ってないんだ。奏さん、バスケ部も最近休みがちらしいのよ。ここのところあまり元気もないし、葉月さんが誘っても返事だけみたいで」
心配そうに歩乃海が言った。
――川丘奏。
彼女も葵依たちと同じ寮で暮らしている。
いまは葉月が所属するバスケットボール部へ主に参加しているはずだ。
その奏が部活を休みがちだという。
葵依はそれを知らなかった。
「それって、いつ頃からかわかる?」
葵依の問いに、歩乃海はしばし思考を巡らせる。
「――たぶん、夏休み明けくらいからだと思う。彼女その頃からちょっと様子が変で。ひとりでいることが多くなった気がする」
「そっか……」
時期的には、夏の大会が終わってバレー部の先輩たちが引退した頃と重なる。
部員を新たに集められない限り、夏の大会が現時点で事実上バレー部最後の試合となってしまう。
その辺りのことが原因で、奏はやる気をなくしてしまったのだろうか。
そう考えられなくはない。
けれど葵依は、それをすんなりとは受け入れられなかった。
夏の大会敗退後、奏は悔しさで涙を滲ませ、絶対に春大会で勝とうと話していた。
その決意に満ちた顔が、葵依の瞳に焼き付いている。
スポーツに関して、川丘奏の情熱は葵依が知る誰よりも強かった。
その奏が部活をサボるなどとは信じがたい。なにか特別な事情があるのではないか。
――特別な事情。
葵依の背がぞくりとする。
まさかと思い、姫華を見る。
姫華は葵依にだけわかるよう、ちいさく頷いた。
確信はない。
けれど可能性はある。姫華はそう目で伝えてきた。
葵依は動揺を歩乃海に悟られぬよう、平静を装って口を開いた。
「一之瀬さん。奏ちゃんのこと、教えてくれてありがとう。私からも話を聞いてみるね」
葵依の言葉で安心したのか、歩乃海に笑顔が戻る。
「本当? そうしてくれると嬉しい。……それと、もうひとついいかな? ちょっと馴れ馴れしいかもだけど」
歩乃海がはにかむ。
「川澄さんのこと、葵依さんって呼んでもいい? もしよければ、私のことも歩乃海って名前で呼んで欲しいんだけど」
すこし上目遣いでそう言う歩乃海に、葵依は思わずキュンとしてしまう。
「もちろん。よろこんで」
「やった。よろしくね、葵依さん。西行寺さんもよかったら私を名前で呼んでね。私も姫華さんって呼びたいから」
「え、ええ。呼ぶわ。名前で呼ぶ」
「ありがとう。それじゃ、先に戻るね。次の授業で理科室へ行かなくちゃいけないの」
ばいばい、と満面の笑顔で手を振りながら歩乃海は廊下を走り去った。
葵依はその背中に手を振る。
本当に感じのいい子だ。
これまではクラスが違ったせいであまり話をしなかったが、この機会に彼女と親しくなれたらいいなと葵依は思う。
そうだ、と葵依は思い出す。
「ねぇ姫華。あんた歩乃海さんに鏡の欠片を返すんじゃなかった?」
「――凄いわ、葵依。わたし、歩乃海さんと名前で呼び合う仲になってしまった」
葵依の話が聞こえていないのだろう。姫華はポーっと頬を赤らめてそう言った。
「……私とは、最初から名前で呼び合う仲だったじゃん?」
「え? なにか言った?」
「べっつにー」
話を聞いていない姫華に「あんたは、ほとんど会話に参加していなかったけどね」と言ってやろうかと思うがやめておく。
「葵依、ちょっとこっち向いてくれる?」
「ん? なに?」
葵依が顔を向けると、姫華がじっと見つめてきた。
「な、なにさ? そういう風に見られると緊張するんだけど」
「……こうやって見ると、確かに葵依は美人ね。日焼けのせいで気づかなかったわ」
「日焼けを仮面みたいに言わないでくれる? でも姫華にそんなこと言われると、ちょっとその気になっちゃうかも」
葵依が照れて身体をくねらせる。
しかしすぐ真顔に戻った。
「姫華。奏ちゃんのことどうする? 放課後に体育館へ行ってみようか?」
「――いえ。まずは同じ部活に所属している葉月さんに話を聞きましょう。周囲の人間の話が、クライエントを救うヒントに繋がることもあるから」
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