第20話 第二章11

 担任が終礼の挨拶を終えると、神前美菜は教室に備え付けてあるロッカーからヘルメットを引っ張り出して廊下を走った。

 昇降口から裏門に回り、駐輪場に止めてある自転車を素早く見つけ、蛍光色のヘルメットを被って跨る。

 昨日、ふたり組の女子高生が修理に行ってくれた自転車だ。

 当のふたりは挨拶もせずに、自転車屋へ自転車を託して帰ってしまったのだが。

 変な人たちだったけれど、お礼くらいはきちんと言わせて欲しかった。

 裏門から舗装された道路へ出た美菜は、一気にペダルを踏み込んだ。

 真っ直ぐで見通しの良い道。

 それを美菜は立ち漕ぎで疾走する。

 夏の日差しは強く、ヘルメットの中が蒸れて気持ち悪い。

 汗が目に入りそうになるし、それを拭うとハンドル操作を誤りそうになる。

 けれど美菜はペダルを漕ぐ足を緩めない。

 今日はどうしても早く家へ帰りたかった。

 それに明確な理由はない。

 ただ少しだけ、昨日に言われた言葉が頭の片隅にあっただけだ。

 自宅に到着した美菜は放るように自転車を止めると、ヘルメットを脱いで玄関を開けた。

 そこで起こった予期せぬ出来事に、美菜は感嘆の声を上げる。

 ヘルメットを足元へ投げ捨て、出迎えてくれた家族にただいまと言った。

「ただいま、ネロ。やっぱり元気になったんだね」

 美菜を迎えたのは黒猫のネロだった。

 口には宝物のブラシを咥え、美菜の足に擦り寄ってくる。

 にゃーと鳴き、いつものようにブラッシングをねだってきた。

「慌てないでネロ。これまでの分も、今日は念入りにしてあげるから」

 頭と背中を撫でると、ネロは嬉しそうにピンと尻尾を立てた。

 美菜とネロは並んで歩き、お決まりの縁側の部屋へと行く。

 美菜とネロが出会った部屋。

 ふたりはそこが、ずっとお気に入りの場所だった。

 制服姿のままネロを膝に乗せ、美菜は受け取ったブラシを彼女の全身に当てていく。

「どう? 気持ちいいでしょ? こうするの、ちょっと久し振りだもんね」

 美菜の言葉に、ネロはごろごろと喉を鳴らす。

 身を委ね、にゃーと鳴くネロはうっとりとした表情を浮かべていた。

 つられて美菜の口元にも笑みが漏れる。

 頭から顔、背中からお腹へ。

 慣れた手順で美菜はネロにブラッシングをしてやる。

 いつもよりずっと丁寧に。

 時間をかけて。

 いつまでも、いつまでも、この瞬間が終わらなければいいのにと思いながら。

「……ネロ。このブラシ、大切にするね」

 美菜はそう言うと、そっとブラシを脇に置いた。

 ネロはつやつやになった毛並みを誇るように、にゃーと鳴く。

 美菜の膝に乗ったまま、名残惜しそうに前足で数回、ブラシへ触れた。

「もう少し、ブラッシングしようか? ううん。ネロが満足するまで、何度でもしてあげるよ?」

 訊ねる美菜に、にゃーと鳴いてネロが答える。

 もう充分よ、そう言っているのが美菜にはわかる。

 ネロは美菜の膝で立ち、胸元に前足をかけて身体を伸ばすと、その瞼をぺろりと舐めた。

 そうしてひとつ、長く、鳴く。

 ありがとう。

 どうか元気で。

 ネロはもう一度、美菜の瞼を舐めた。

 美菜を起こすのではなく、慰めるのでもなく、涙を拭い、別れを告げるもの。

 それは。

 美菜を無敵にする、ネロの最後の魔法。

 ネロを抱きしめ、美菜は頬を寄せた。

「ありがとうは、私の台詞。ネロ、大好き。私、あなたのおかげで本当に幸せだった」

 心配しないで、と美菜が囁く。

「ネロが魔法をかけてくれたから、私はずっと無敵でいられる。いまはちょっと、涙が止まらないけど、明日からは泣いたりしない。だから、ゆっくり――」

 声が詰まる。

 美菜はこれ以上、言葉を紡げない。

 ふー、と安堵を伝えるネロの息が、美菜の耳をくすぐる。

 ――それがネロの終の呼吸だった。



「起きなさい。葵依」

 身体を揺すられ、川澄葵依は目を覚ました。

 目の前にあるのは、桃色のパジャマを着た姫華の顔。

 だがその姿はぼんやりと滲んでいる。

「私……」

 身体を起こすと、Tシャツにぽたぽたと水滴が落ちた。

 なにごとかと頬に触れて葵依は、初めて自分が涙を流しているのだと知った。

「見ていた夢を、覚えている?」

 姫華に手渡されたタオルで顔を拭いながら、葵依が頷いて答える。

「……これが、姫華の魔法? この夢を美菜ちゃんも見たの?」

「そうよ。美菜さんはもう、夢に喰われることはないわ」

 葵依はまだ頭がぼーっとしていた。

 あまりにリアルで、あれが夢だったとはとても信じられない。

 自分が川澄葵依という人間ではなく、神前美菜となって実際に体験したとしか思えなかった。

 ドンドンドン!、と乱暴に部屋の扉がノックされ、「葵ちゃん! 葵ちゃん!」と繰り返すくぐもった声が聞こえた。

 扉越しでもわかる。それは隣室の高見葉月の声だった。

「葵ちゃん! 美菜が泣いてて! でもぜんぜん起きなくて!」

 扉を開けると、葉月が葵依の胸に縋りつく。

 瞳を潤ませ、これまで見たことがないほどに狼狽していた。

「お、落ち着いて葉月ちゃん。美菜ちゃんが起きないって、どういうこと?」

 葉月の肩を抱き止め、葵依が訊ねた。

「目が覚めたから、美菜を起こそうと思って。そうしたら美菜がボロボロ泣いていて。びっくりして揺すったんだけど、目を開けないの」

 堪えきれなくなったのか、葉月の瞳から涙が零れる。

 その場にへたり込み、混乱しながらも懸命に事態を葵依たちへ伝えようとしていた。

 姫華はしゃがんで葉月の肩に触れる。

「大丈夫よ。じきに目を覚ますから」

「ほんと? 姫ちゃん、ほんとに?」

「ええ。葉月さんたちの部屋へ、一緒に戻りましょう」

 姫華は葉月に手を貸して立たせると、先頭に立って隣室へと向かった。

 葵依と葉月は腕を組んで、その後に続く。

 部屋の扉を開けると、ベッドに腰掛けた美菜がキョロキョロと辺りを見回していた。

 まるで、なにかを探しているかのように。

 その右手は、自身の瞼に触れている。

「みぃー! なぁー!」

 葉月は涙と鼻水で顔中をぐしゃぐしゃにしながら、まるで体当たりでもするかのように美菜の胸へと飛び込んだ。

「きゃあ! は、葉月ちゃん? どうしたの?」

「そりゃこっちが聞きたいっての! なんだよもー! 心配させんなよなー!」

 葉月は美菜の腹部に顔をぐりぐりと擦りつけた。涙と鼻水で美菜のシャツが濡れていく。

「ちょ、葉月ちゃん。鼻水とよだれが……」

「うっせーばーか! 美菜のばーか! ばーか! ばーか!」

 葉月は悪態をつきながらも、美菜の背中へしっかりとその両腕を回していた。

「もう……」

 美菜は困り顔で葉月の髪を撫でる。

 そして、その頭を優しく抱いた。

「葉月ちゃん。これまでごめんね。ありがとうね。私、きっともう大丈夫だから」

「なにがだよぉ。あたしはちっとも大丈夫じゃないってーの」

「ネロがね、会いに来てくれたんだ。それで、私の瞼を舐めてくれたの。たぶん、いまもすぐ近くにいるわ」

 葵依は弾かれたように姫華を見た。

 しかし姫華は首を横に振る。

 それは自分の魔法ではない。

 姫華はそう言っている。

「なんの話だよぉ。ネロってなんだよぉ。わかるように言えよぉ。あたしバカなんだからぁ」

「葉月ちゃんはバカじゃないよ。優しくて大切な、私の友達。だからちゃんと話すね。ぜんぶ話すね。笑ったり、怒ったりしてくれてもいいから」

 美菜が視線を葵依と姫華へと向ける。

 これまでのような弱々しい瞳ではなく、真っ直ぐに。

「葵依ちゃん。ありがとう。いっぱい迷惑かけちゃってごめんね。葵依ちゃんにも、聞いて欲しいんだ」

「迷惑だなんて思ってないよ。でも聞かせてくれると嬉しい」

 葵依がずっと鼻を啜る。

 姫華がクライエントを救う理由。

 危険を承知で続ける理由。

 美菜を見れば、その理由が葵依にもわかった。

「姫華さんも聞いてくれる? どうしてか、あなたには話しておきたくて」

「美菜さんがいいのなら、ぜひ」

 うん、と美菜が微笑む。

「私ね、双子の姉妹がいたの。その子は私の親友で、親で。ネロっていう名前の猫なんだ」

 ――美菜は語る。

 その、家族との出会いから、別れまでを。

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