第19話 第二章10
徒歩で一時間と聞いていたが、一時間半を過ぎても目指す鶏小屋のある自転車屋は未だ見えてこない。
理由は単純に、炎天下のなか途中でへばった姫華を木陰で休ませているからだ。
「悪かったわね。足手纏いで。飲み物ありがとう」
スポーツドリンクを飲みながら、姫華が不貞腐れたように言った。
道中で見かけた自販機で葵依に買ってもらったものだ。
「どういたしまして。でも足手纏いとは思ってないよ。めっちゃだらしないとは思っているけど」
「うぐぐ……」
「やっぱり転移の魔法、使っちゃわない?」
「こんな開けた場所では、誰が見ているかわからないわ。さっきも言ったでしょう?」
姫華の魔法で目的地へ跳ぼうと提案した葵依だったが、それを理由に断られていた。
「じゃ、どうする? 姫華はここで休んで、私が一人で行ってこようか?」
「こ、こんな場所でわたしをひとりきりにする気? 葵依がいないのに、熊や猪が襲ってきたらどうすればいいの?」
「魔法でなんとかしなよ。それと私がいても熊や猪はどうにもならないからね」
遠くから聴こえるエンジン音に、葵依と姫華が視線を向けた。
白の軽トラックがこちらへ向かってゆっくりと走ってくる。
思えばここまで、一台の自動車ともすれ違わなかった。
あー、と葵依が残念そうな声をだす。
「私たちの進行方向とは逆だね。そうでなければ乗せてもらえたかもしれないのに」
「葵依。やる前から諦めてはダメ。軽く轢かれてみましょう。交渉が有利になるはずよ」
「それは『姫華が轢かれる』って話だよね? 私じゃないよね? ――あれ? 車が止まった」
軽トラックが葵依たちのいる木陰の前で止まると、運転席から四十代くらいの男性が降りてきた。
男は葵依と姫華、そして自転車の順に視線を移動させてから口を開く。
「キミらだらぁ? 神前さんとこのケッタ修理しに来たって女の子たちはぁ?」
葵依と姫華は目線を交わしてから、そうですと答えた。
「そうやらぁ。娘さんから電話きて、まだ着いてへんよって言ったら心配しとったもんで。だからこうして迎えに来たんやよ」
男は目指す自転車屋の主人のようだ。
やや訛りのある間延びした口調で、穏やかに話す。
葵依と姫華が表情を輝かせる。
姫華だけでなく、実は葵依もかなり体力を消耗していた。
「ありがとうございます。自転車は荷台に乗せればいいですか?」
「それは俺がやるでええよぉ。悪いんだが、お嬢さんふたりも荷台だぁ。先に上がっとって」
「わかりました。失礼しますね」
葵依は後輪のタイヤに片足をかけて、軽やかに荷台へと飛び乗った。
それを真似ようとしてもたついている姫華に手を貸してやる。
「このまま神前さんとこ行くで。道具もあるからあっちで修理するわぁ。それと次からは電話くれりゃええから。うちは出張サービスもやっとるもんで」
「ええ? そんなのあるんですか?」
自転車を荷台に固定しながら、葵依が驚いた声を出す。
「ここんたぁは田舎やから。それくらいのサービスせんと仕事がこーへんだわぁ。神前さんの娘さんも知らんかったみたいで、驚いとったねぇ」
そうですか……、と力なく答えて葵依は運転席側を背に座り込んだ。
「もしかして、わたしたちの苦労って無駄だったのかしら?」
葵依の隣に座った姫華が訊ねる。
びっしょりと汗をかき、制服が肌に貼りついていた。
「それについては考えないことにしない?」
「そうしましょうか……」
葵依は姫華の頬にくっついている髪を指先で払ってやる。
「な……」
姫華は驚いた顔を見せ、次いで頬を赤らめて俯く。
麦藁帽子で隠れていて、葵依にはその表情が窺い知れない。
自転車屋が運転席に乗り込むと、ほどなく自動車が動き始める。
葵依たちの乗った荷台はときおりガタガタと揺れ、その度に尻が痛んだ。
「ねぇ、姫華。ちょっと思ったんだけどさ」
白い雲の浮かぶ真夏の空を見上げながら、葵依が言った。
「姫華って『姿を消す』魔法とか使えないの?」
「使えるわよ。どうして?」
「それで姿を消して、転移の魔法を使えば良かったんじゃない? 出来ない理由とかあんの?」
葵依の問いに姫華はびくりと肩をすくめ、麦藁帽子を下ろして顔を隠した。
「え? なに? もしかして思いつかなかったとか?」
「そ、そんなわけないでしょ。別世界ではあまり魔法を使いたくないのよ」
「なにその言い訳。どうせぼんやりしてたんでしょ。姫華ってサイテー」
冗談のつもりで聞いたのだが、もしや本当に思いつかなかったのではと考えてしまう。
思えば姫華は、どこか抜けたところのある少女だった。
「……葵依、怒った?」
麦藁帽子で顔を隠したまま、おずおずと姫華が訊く。
「別に怒ってないよ。なんか理由があるんでしょ? それ、話せないの?」
数秒の沈黙の後、姫華が答えた。
「……わたしだけ、ずるいことしているみたいだから。たくさん魔法を使うなんて」
「なにがずるいの?」
葵依は問い返すが、姫華はそれに答えない。
話したくないのであろうと、葵依にもわかる。
「――そういえばさ、姫華はどうして不良を怖がるの?」
葵依は話題を変えた。あまり姫華を責めるような真似をしたくない。
「どうしてって、怖いじゃない。漫画の不良って脈絡なく主人公に突っかかってくるし。そういう人、どうすればいいのかわからないわ」
葵依の思いを察したのか、姫華はその問いにすぐ答えた。
「あら意外。姫華って漫画読むんだ。どんなジャンルが好きなの?」
「少女漫画。それ以外は読まないわ。少女漫画以外を読む人は不良なのでしょう?」
「なにその偏見。私も少女漫画は好きだけど、少年誌の漫画も面白いのたくさんあるっての。そうだ。こんど美菜ちゃんに借りてみたら? 私のおすすめも教えてあげる」
そう言いながら葵依は思う。
美菜があれほど漫画を買い集めていたのは、『独りになるため』だったのではないかと。
夢に喰われた美菜が、独りの世界へ閉じ篭るために。
「寮部屋って、漫画を置いていいのね。葵依は置いていないから、禁止されているのかと思っていたわ。美菜さんたちの部屋へ入って驚いたもの」
「私は実家が近いんだ。読みたくなったら家へ帰ればいいだけ」
「葵依の実家ってどこ?」
「世田谷」
「想像以上に近いわね。どうして家から通わずに寮へ?」
「お母さんも昔、あの寮の寮生だったんだよ。そこで大切なものをたくさん見つけたから、娘の私にもって。だから私が一人部屋になったって言ったら、凄く残念がってた」
そうだ、と葵依がスカートのポケットからスマートフォンを取り出した。
「姫華。一緒に写真撮って。ルームメイトが出来たって、お母さんに教えてあげないと」
「ええっ? きゅ、急にそんなこと言われても。わたしなんかじゃ、お母さんがっかりするんじゃ……」
「……まぁ、愛娘とのフェイス偏差値を見比べて、クォリティの差にがっかりするかもだけど……」
「く、クォリティ? なんの話をしているの?」
「うるっさい。撮るよー」
葵依は姫華の肩を抱き寄せ、シャッターを切る。
「どれどれ。おー。なかなかいい写真が撮れたね」
葵依はスマートフォンの液晶を覗き込む。
笑顔の葵依と、困り顔を向けている姫華。
お揃いの麦藁帽子で、とても仲が良さそうに見える。
「ちょ、ちょっと葵依。どうせ撮るなら可愛く撮って欲しいのだけれど」
「姫華は充分カワイイデスヨー。保存保存っと。帰ったら早速送るんだー」
「待ちなさい。撮り直しを要求するわ」
「姫華って実家はどこにあるの?」
スマートフォンを素早くポケットに戻しながら葵依が聞いた。
「……あからさまに話題を逸らしてきたわね。新宿よ」
「新宿? 私より学校近くない?」
「わたしの目的は『学校へ通うこと』ではなくて、『クライエントの救助』なのよ。だから拠点はより近いほうを選ぶわ。当然でしょ」
「おー。なんかプロっぽい」
葵依がパチパチと拍手をすると、姫華は露骨に不満そうな顔をした。
「不思議ね。なぜだか侮辱をされているような気分にしかならないわ」
さて、と姫華が言う。
「帰りましょう葵依。たったいま過去が変わったわ。美菜さんが夢から解放されたの」
「ええっ? なんかあんたの話って全部が唐突なんだけど。本当に魔法でそんなのわかるの?」
「わからなければ仕事を終えられないじゃない。麦藁帽子は重ねて自転車の籠へ入れておきましょう」
「美菜ちゃんに挨拶は? 黙っていなくなると心配するんじゃ?」
「いまさらだけれど、わたしたちはあまり別世界の人間に関わるべきではないの。それに戻ってから美菜さんにまた『前にどこで会いました?』って聞かれたら困るでしょう? 葵依は上手に答えられる?」
「……自信ないなぁ」
「そうでしょう? わたしたちはここでこの世界から去るべきなの」
「でも最後まで見届けたいよ。明日、美菜ちゃんがネロちゃんを看取れるかまで」
お願いだから、と葵依は請うような視線を姫華へと向けた。
姫華は短く息を吐く。
「葵依なら、そう言うだろうと思っていたわ。だからあなたには、あらかじめ魔法をかけておいたの」
姫華の言葉に、葵依が青ざめる。
「は? え? な、なに? なんの魔法? 私を言いなりにする魔法とか?」
「あ、あなたの発想は本当にどうかしているわ。そんな恐ろしい魔法、わたしに使えるわけないでしょ」
葵依よりもなお顔を青くして、姫華が怯えた声を出す。
「記憶を消す魔法とか使う魔女のくせに……じゃあなんの魔法よ?」
「『夢を見る』魔法。今夜、現世界の美菜さんが見る夢。それはこの別世界で、明日に起こる現実。夢に喰われた人間は、別の夢によって救われるの。それをあなたに見せてあげる」
「――うん? なんて?」
なんだかよくわからないことを姫華が言った。
葵依にわかったのは、それだけだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます