第18話 第二章9

 舌先三寸で相手を弄するなんて、自分には向いていないと最初からわかっている。

 相手が親しい友人なら尚更だ。

 ならば愚直に、実直に。

 葵依は縁側にいる美菜の元へ行くと、膝を突いて少女と目線を合わせた。

「美菜ちゃん。事情があって詳しく説明はできないの。でも信じて。今日のうちに自転車を修理しなければ、あなたはとても辛い思いをすることになる。それは長い時間、あなたを苦しめるわ。私と葉月ちゃんは、あなたにそんな思いをして欲しくないの」

「な、なに? 苦しめる? 葉月ちゃん?」

 美菜は葵依がなにを言っているのか、まるでわからなかった。

 ただ、その真剣な眼差しに気圧されていた。

 ちょっと怖いとも思ってしまう。

 けれどどうしてだか、胸がざわつく。

 だからだろうか、つい考えてしまった。

 もしかしたら自分は、どこかでこの人に心配をかけていたのかもしれないと。

「なんならお財布とか置いていくよ。銀行のカードとか、大切なものが入っているから」

「そ、それはそれで困るというか。うーん……」

 美菜は腕を組んで逡巡する。

「――まぁ、パンクした自転車なんか盗んでもしかたないだろうし。仮に盗まれたら、お父さんが新しいの買ってくれるだろうし」

 美菜はぶつぶつと呟いてから、よしと頷いた。

「わかりました。お願いします。でもお金は後払いにさせてもらいます。あらかじめ渡しておくほど、私もお人好しじゃないですから」

「ほ、本当? 良かった。ありがとう。姫華、オッケーだって」

 葵依は振り返ると姫華に向かってぶんぶんと手を振った。

 姫華が感心したように拍手をしながら近づいてくる。

「見た目によらず、やれば出来るのね葵依。褒めてあげるわ」

「わあ。私、生まれて初めて女の子にビンタしたいって思ったかも」

 葵依は立ち上がり、意味深な笑みを浮かべて姫華を見下ろした。

 姫華は短い悲鳴を上げて後ずさりをする。

「な、なによ急に? わたしは暴力に……不良になんて屈しないわ!」

「それより姫華、お金持ってる?」

「か、かつあげ? 突然のかつあげ? こ、怖いわ。こんなときは、どうすればいいの?」

「違うって。自転車の修理代。私のお財布には、あんまりお金入っていないから」

「わたしお財布持ってない。必要ないときは部屋に置いておくようにしているの」

「え、ええー……。足りるかなぁ」

 葵依はスカートのポケットから財布を取り出し、中身を確かめた。

 姫華は葵依の財布を覗き込みながら訊ねる。

「パンクの修理って、とてもお金がかかるものなの?」

「さあ……。私、そういうのってしたことないからなぁ」

「あの、お金ないんですか?」

 心配そうに美菜が声をかけてくる。

「なくはないんだけど、足りるかどうかわからなくて」

「パンクだけなら千円くらいかな? ホイールがダメになっていたら五千円くらいかかるかもしれないです」

「……足らないっス」

「あらら。ちょっと待っていてください」

 美菜は跳ねるように身を起こし、家の奥へと引っ込んだ。

 葵依と姫華がどうしたのかと顔を見合わせていると、一枚の用紙と二つの麦藁帽子を持って美菜が戻ってきた。

「はいこれ。お金が足りないようなら電話してください。自転車屋のおじさんと私が話しますから」

 手渡された用紙には電話番号と、ぺろりと舌を出した美菜の似顔絵が描かれている。

「あっ……」

 葵依は声を漏らす。

 心臓を乱暴に掴まれたかのような感覚。

 湧き上がる感情は、強い寂寥感に似ていた。

 良かったわね、と姫華が耳打ちする。

「美菜さんの実家の番号が手に入ったわ。あなたと葉月さん、欲しがっていたわよね?」

 けれどそんな姫華の言葉は、葵依の耳には届いていなかった。

「……美菜ちゃんって、こんな可愛いイラストを描く子だったんだ。知らなかった」

 ぽつりと呟く葵依の瞳で、薄い涙の膜が揺らいだ。

 姫華は目を見開く。

 葵依になにが起こったのか、即座に理解することが出来ない。

 けれど思考を巡らせればわかる。

 葵依はいま、友を想って瞳を濡らしているのだ。

 葵依の知る美菜と、いま目の前にいる美菜。

 その二人のあまりの違いを、葵依は上手く受け止められないでいるのだろう。

 もしも自分に大切な友がひとりでもいれば。

 考えるまでもなく、葵依の気持ちを察せたのだろうか?

 姫華は自らの背負う業の深さを、改めて突きつけられたような気分になる。

「葵依……」

 姫華は葵依の背に触れた。

 こんなときなんと声をかけてあげればいいのだろう。

 思い悩むも、そんなことすら姫華には答えが出せない。

 だからせめてもと、葵依に代わって話を進める。

「美菜さん。自転車の鍵を貸してもらえる?」

「鍵はつけっぱなしにしています。泥棒なんて来ないから」

「そう。自転車の修理が出来る場所はどこにあるのかしら?」

「家の前の道をまっすぐ一時間くらい歩いた隣町です。大きな鶏小屋のある家が自転車屋さんなので、見落とさないようにしてください。それとこれを」

 美菜が麦藁帽子を差し出した。

「陽射しが強いので被ってください。お母さんとお揃いで買った大事なものなので、ちゃんと返してくださいね」

「ありがとう。大切にして返すわ」

 姫華は麦藁帽子を受け取ると、未だメモに目を落としている葵依の頭に一つを被せた。

 あの、と美菜が言う。

「戻ってきたら、私とお姉さんたちがどこで会っていたのか教えてくれます?」

 それは、と姫華が口篭る。

「――美菜さんが頑張って勉強をして、東京の高校へ合格すればわかるの」

「え? 東京の? 私、地元の高校へ行くつもりなんですけど……」

「あ……え、えっと――葵依。そろそろ行きましょ」

 姫華は借りた麦わら帽子を目深に被ると、そそくさと自転車を押し始める。

 そんな姫華に、葵依はふらふらとついていく。

「葵依。しゃんとして。転んでしまいそうよ」

「うん。ごめん」

「なんで謝るの? わたしになにかした?」

「……してない。なんか胸が苦しくて、よくわからなくなって」

 姫華は並んで歩く葵依を盗み見た。

 彼女の目は赤く充血している。

 もっと優しい言葉をかけた方がいいのだろうと姫華は思うが、その言葉がひとつして思いつかない。

 どうしてだろう。気持ちが焦る。

「……いまの美菜ちゃん、私が知っているのとはまったく別人みたいだった。私や葉月ちゃんと出会う一年も前じゃないはずなのに。あんなに元気で明るい子だったなんて」

「ネロを失ったのが――看取れなかったのが、それだけ辛かったのだと思う。人格に影響を与えてしまうほどに。だから彼女は『夢に喰われて』しまった。――でもそのぶん、帰ってからは大変よ」

「大変?」

「葵依と葉月さんは、これまで見たことのない美菜さんの姿を、たくさん知ることになるでしょうね。本来の、在るべき姿をね。楽しみでしょ?」

 突然、ぱっと視界が開けた。

 葵依はそんな感覚を得る。

 今度は葵依が姫華を盗み見た。

 自転車を押しながら早くも息を切らせ、暑いと言いながら汗をかいている。

 さきほどの言葉は、葵依を慰めるために発したのではなさそうだった。

 けれど葵依を気遣い、無意識にそれを成した。

 葵依はそこに、姫華という少女の本質を見た気がした。

「……姫華って体力無さ過ぎ。自転車貸して。私が押すから」

「助かるわ。良かったらついでにわたしをおんぶしてくれない? 一時間も歩くなんて、わたしみたいな普通の女子高生には無理みたいだから」

「普通の女子高生は魔法なんて使えないと思うけど。普通ってのは、私みたいな子を言うんだよ。――そうだ姫華。ちょっと気になることがあるんだけど」

 姫華から自転車を受け取り、葵依が訊ねる。

「美菜ちゃんがネロちゃんを看取った場合、私たちの世界みたいに塞ぎ込まなくなるんだよね? それだと友達に酷いことを言われずに済むから、受験勉強に集中しなくなるんじゃない? 美菜ちゃんはそれでも私たちが通っている『武蔵東学園』を受験するの?」

「言ったでしょ。すべての世界は繋がっているって。ちいさな過去を変えることは出来ても、人生の本筋を改変するような真似はできないのよ。特に『人との出会い』に関することはね。美菜さんは今後、なんらかのきっかけで必ず東京の高校への入学を目指すわ。そこで葵依と葉月さんと出会う。それは変わらない」

「そっか。良かった。ほっとした」

「ねぇ葵依。なにか冷たいものを持っていない? 喉が渇いたのだけれど」

「持ってないねぇ」

 ぶー、と姫華が不満げに頬を膨らませる。

 葵依がそれを人差し指でついた。

 お揃いの麦藁帽子を被って、並んで歩くふたりの少女。

 それが見紛うことなく友人同士の姿であると、彼女たちはまだ気づいていない。

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