第17話 第二章8
葵依はゆっくりと目を開いた。
視界一面に広がる連なった田畑。
どこまでも真っ直ぐに伸びるあぜ道。
青々とした緑の木々が生い茂る山々が程近い。
蝉の合唱は耳に痛いほどで、用水路ではおたまじゃくしが群れをなしている。
ここは農村の一角だろう。
陽射しは強く肌が痛むほどで、涼しさが増してきた九月中旬とはまるで違った。
夕方だった時刻は巻き戻り、見上げた太陽は真上にある。
「葵依。ここがどこだかわかる?」
向かい合っている姫華が訊ねた。
「――二年前の岐阜県」
葵依は答え、掴んでいた姫華の両腕を離す。
「ええ。もっと正確に言うと『別世界の岐阜県の二年前の七月』よ。あなたが別世界の過去へ来るのは、これで二回目ね」
「ここで美菜ちゃんの過去を変えれば、私たちの世界の美菜ちゃんは救われる。そうだよね?」
「ええ。そうよ。でもその前にひとつ。あなたに話しておかなければいけないの」
「……なんかイヤな予感がするんだけど、聞かせて」
姫華は『逃げ出せない』『後には引けない』そんな状況で重要な話をする節がある。意図してのことかわからないが、今回もそうなのではないかと葵依は邪推する。
「本来なら最初に話すべきなのだけれど……別世界でクライエントを救うという行為。これに五回挑戦すると死ぬの」
「……は? 死ぬ? 死ぬって私が?」
「葵依が死ぬの?」
姫華が不思議そうに首を傾げる。
「知らないよ。あんたが言ったんだろうが。それとその顔やめろ」
嫌な予感が当たったようだ。
葵依は姫華の両肩を掴むと、早口でまくし立てる。
「あんた危険がないとか言ってなかった? てか誰が死ぬの? ちょっと待って。死ぬとか縛りが厳しすぎない? ていうか姫華の話ってなにもかもが唐突過ぎて反応に困るんだけど?」
「おち、落ち着いて。ちゃんと説明するから」
「当たり前でしょ。早く説明して。わかりやすくね」
「は、はい。――正確に言うと『消えてしまう』の。同一のクライエントの過去改変を四度失敗した場合、それ以上そのクライエントの過去へは行ってはいけない。それを破って五度目に挑んでしまうと、成否を問わずにその魔法使いの存在が『消える』わ」
「なによ、それ……」
「なんの代償も無く、何度でもやり直しが出来る。わたしたちがやろうとしているのは、そういうものではないと覚えておいて」
姫華の話に、葵依は言葉を失する。
夏の日差しは刺さるように暑い。
しかし葵依は滲むような寒気を覚えていた。
「……ごめん。なんか、なんて言ったらいいのかわかんない。つまり、四回までで止めておけば安全ってこと?」
姫華は首を横に振る。
「なぜ魔法使いの存在が五回目に消えるのか。なぜ四回まで消えないのか。その原因は残念ながらわかっていないのよ。それはつまり過去に事例がないだけで、一回目なら絶対に消えないと保障されているわけではないということ」
姫華は言い聞かせるようにゆっくりと話を続ける。
「――さっき少し話したけれど、これがわたしと同じ仕事をする魔法使いが少ない理由。危険と隣り合わせだから、従事している魔法使いが多くはないの。実質的には四度の失敗がイコールで、そのクライエント救出の失敗になるわ。よほど運やタイミングが良くなければ、引き継げる魔法使いなんて用意できないのだから」
「そんな危ないことをどうして姫華が? あんたみたいな臆病者の人見知りに向いている仕事とは思えないんだけど」
「失礼ね。わたしは臆病でも人見知りでもないわ。……他に選択肢がなかったのよ。最初は。でも、いまは違う」
なにかを思い出したのだろう。姫華の瞳に翳が差す。
「――理由は後で教えてあげる。きっといま話しても理解し辛いと思うから。それと安心して。わたしたちと違って、葵依が消えるということはないわ」
「……わかった。なんかよくわからないけど、一度で成功させれば良いってことね?」
リスクがあるのは理解した。だが他に美菜を救う方法はない。それならば前へ進むしかないと葵依は考える。
そんな葵依の心中も知らず、姫華は自慢げに薄い胸を叩いた。
「安心して葵依。わたしは一度も失敗したことがないのよ。有能なのだから」
「出発前に話していない時点で、クッソ無能だと思うけど……。話は帰ってからじっくり聞かせてもらうとして、私たちはこの後、どう動けばいいの?」
「近くに美菜さんの実家があるわ。まずはそこへ行きましょう」
姫華はそう言うと、葵依の前に立って歩き始めた。
葵依は短いため息をついて、その背中を追う。
土と丈の短い草に覆われた細いあぜ道から、自動車二台が余裕ですれ違える広さの舗道へと出る。
コンクリートで舗装されてはいるが、段差やひび割れがあって歩きにくい。
葵依は道の前後を見回してみた。
一番近場にある建物は約三十メートル先の一軒家。
土地を広々と使った平屋で、家の周りに囲いのようなものは見当たらない。
どこからどこまでがあの家の敷地なのだろうと、葵依はぼんやり考える。
平屋がある方向とは反対側を振り返ってみた。
どのくらい先だろうか。
見渡す限りの広大な田畑を五、六枚ほど挟んだ先にまた平屋がある。
もしあれが隣家だとするならば、突風が悪戯をしない限り、どれだけ騒いでも近所迷惑にはなりそうもなかった。
「これが真の田舎……カントリーオブカントリーなのね」
「なにしてるのよ葵依。早く来なさい」
しみじみと現実逃避気味な感想を抱いている葵依を姫華が急かす。
はーい、と返事をして、葵依は平屋の前で待っている姫華の元へと小走りで行く。
「それで姫華。私たちはなにをするの? 魔法でネロちゃんの寿命を延ばすとか?」
「そんな魔法ないわ。もちろん死者を蘇生させるような魔法もね。魔法は万能ではないのだから。あそこにあるシルバーの自転車、わかる?」
引き戸になっている玄関の脇、縁側の前に止められている一台の自転車を姫華が指差す。
「あれが美菜さんの自転車よ。あれをこっそりと修理するのがわたしたちの目的」
「そっか。パンクが直れば明日も自転車で学校へ行けるもんね。そうすれば美菜ちゃんは、ネロちゃんを看取ることができるってわけね。早速修理してよ、姫華」
「なに言ってるのよ。わたしに修理なんて、できるわけないでしょ?」
「ん? 魔法で直すんじゃないの?」
「自転車のパンクを直す、なんて限定的な魔法をわたしは知らないわ。だから美菜さんの自転車をこっそりと拝借して、自転車屋さんで修理して貰って元の場所へ戻すの。簡単でしょ?」
「地味に面倒だと思うけど……。それにこっそり拝借って、それポリスに捕まるやつだよ。ポリス沙汰になって、おロープ頂戴するやつだよ」
「ばれなきゃいいのよ。ばれなきゃ。葵依も慎重を心掛けて動くのよ? それとちょいちょい英語挟むのはなに? お巡りさんじゃダメなの?」
「ダメじゃないけど、もうばれているよ」
葵依の視線の先には、縁側から顔を覗かせてこちらの様子を伺っている少女がいた。
それが一目で中学生の美菜だと葵依にはわかる。
自分の知っている美菜よりもすこしだけふっくらとした、健康的な身体つきをしていた。
あの、と少女が口を開く。
「お姉さんたち誰ですか? なにかうちに御用ですか?」
無警戒ではないが、それよりも好奇心が勝っているのが目の輝きからわかる。
その様子に、葵依は目を疑った。
自分は、こんな表情の美菜を見たことがない。
美菜は確かに笑い、楽しげにお喋りもする娘だった。
けれどこんなにも素直に、自分の興味や感情を優先させる姿を見たことはなかった。
「ど、どうしよう葵依」
姫華は青ざめた顔で葵依の袖を引く。
それが葵依の思考を現実へと引き戻した。
「どうしようって、見つかったくらいで帰るわけにも――」
「あの子、こんな日中なのに学校へも行かず家にいるわ。ふ、不良なんじゃないかしら?」
「え? そっち? どうして姫華はそんなに不良を怖がるの?」
えっと、と中学生の美菜が片手を上げる。
「今日は日曜日なので学校はお休みですよ」
「あ、そうなんだ。よかったね姫華。不良じゃないって」
「そ、そのようね。危ないところだったわ。ううん。違うわ。今日は日曜だから美菜さんが家にいるって、わたし知ってたはずよ」
ほう、と姫華が胸を撫で下ろす。
「じゃあなんで一度ビビってんのよ……。浮き足立ってるの、あんただけじゃない」
そうだ、と葵依は思い当たる。
日曜なら美菜の両親が家にいるかもしれない。
それならば、両親に自転車の修理をお願いするように勧めればいいのではないか。
「ねぇ、美菜ちゃん。お父さんかお母さんはいま家にいる?」
「お父さんたちはお祖父ちゃんの家に行っていますけど……。お姉さん、どこかで会いましたっけ? なんで私の名前を知っているんです?」
「え? えーっと、前に会ったことあるんだけど、美菜ちゃんは覚えてないかも」
覚えていないに決まっている。
葵依にとって美菜との出会いは過去のことだが、中学生の美菜にとっては未来の出来事だ。
そんなこと葵依にもわかっているが、それをいまの美菜に説明するわけにもいかない。
葵依はこのまま押し切ることにした。
「美菜ちゃんは、お父さんたちについて行かなくても良かったの? 留守番寂しくない?」
「本当は私も一緒に行く予定だったんですけど……うちの子がちょっと調子悪くて。すぐに良くなるとは思うんですけど、いまは一緒にいてあげたいんです」
そう言って美菜は微笑んだ。
うちの子、とは飼い猫のネロのことに間違いはあるまい。
まるで弟か妹のように言う美菜から、ネロに対する気持ちが伝わってきた。
そして美菜の笑顔からわかる。
少女が本心からネロの回復を信じていると。
それよりも、と美菜が目を細めてじっと葵依を見た。
「本当にどこかで会ったことあります? 私まったく覚えがないんですけど」
「そ、そう? そんなこと言われると、お姉さん寂しいなぁ」
すっと視線を逸らす葵依に代わって、今度は姫華が訊ねた。
「あなたの自転車、パンクしているのでしょ? 良かったら、わたしたちが修理に行ってきましょうか?」
唐突な姫華の提案に、美菜が疑念の篭った視線を向ける。
「……どうしてそれを知っているんですか? パンクしたのは今朝、自販機までジュースを買いに行った帰りだったんですけど」
「え? 自販機まで自転車で行くの?」
きょとんとした顔で姫華が訊ねる。
「一番近い自販機が、家から一キロ離れているので。……お姉さんたち、やっぱりこの辺に住んでいる人じゃないですよね?」
「そうよ。わたしたちは東京のもがっ――」
葵依は慌てて姫華の口を手で塞ぐ。
「ぐ、偶然に見かけたのよ。この子と散歩している途中で、あなたの自転車がパンクしているところを。だから困っているだろうなと思って来たの」
姫華の正直さは美徳だと思うが、いまこの場においては交渉の妨げにしかならない。
どう? と葵依が精一杯の笑顔を美菜に向ける。
「私たちに任せてみない?」
その問いに美菜が微笑んで返す。葵依のように引きつった笑顔ではなく。
「わかりました。お姉さんたちはとても親切なんですね。ちょっとここにいてください。すぐにポリスを呼びますから」
「「待ってぇ!」」
葵依と姫華の声が重なる。
ポリスは困るわ、と姫華が震えた声を出す。
「ポリスに連行されるなんて、まるで悪い魔法使いみたいじゃないの……。葵依、残念だけれど今回は失敗よ。一度帰って出直しましょう」
「失敗!? これで失敗って、あんたやっぱりメンタル弱過ぎない? 本当にこれまで一度も失敗したことないの? それにチャンスは四回だけなんでしょ? もっと頑張ろうよ」
「そ、そうね。あまりの出来事に、わたしとしたことが取り乱してしまったわ」
「あんたは基本的にいっつも取り乱しているじゃない」
「魔法使い? 魔法使いってなんですか?」
美菜が怪訝な声を出す。
「なんでもないのよ、美奈ちゃん。このお姉さんはちょっと気の毒なの」
『悪い魔法使いがポリスに連行された』なんて話は聞いたこともないと思いつつ、葵依はどうすべきか考えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます