第16話 第二章7

「美菜さんの過去になにがあったか。それをいまから話すわ」

「……うん。お願い」

 部活終わりの葵依は制服姿のまま、姫華のベッドで彼女と向かい合って座っていた。

 美菜の過去を姫華から聞くのには抵抗も罪悪感もある。

 だがそれが美菜を救うことに繋がるのならばと、葵依は自分に言い聞かせていた。

 ちょっと長い話になるけれど、と姫華は前置きをする。

「美菜さんが猫を怖がるようになった根本には、彼女自身の飼い猫の死が深く関わっているの」

「飼い猫の死? え? 美菜ちゃんが猫を飼っていたの?」

「そうよ。黒猫で名前は『ネロ』。生後数日の美菜さんが、初めて実家へと連れられた日に、まだ子猫だったネロが庭へ迷い込んできたの。縁側の部屋で寝ていた美菜さんの隣で、寄り添うようにその子猫が眠っていた。両親は猫が娘に病気を伝染してはいけないとすぐに遠ざけたのだけれど、途端に美菜さんがぐずって大泣きを始めたわ」

 父親が子猫を安全な場所へ放して戻った後も、美菜は母親の腕の中で泣き続けていた。

 両親がどれだけあやしても美菜は泣き止まない。

 オムツも綺麗だし、ミルクも少し前に飲んだばかりだ。

 困った両親が祖父母に相談の電話をかけていると、美菜が不意に泣き止んだ。

 どうしたのかと様子を見に戻ると、さっきの子猫がまた美菜に寄り添って眠っている。

 まさかと思いながらも子猫を遠ざけると、美菜はすぐに泣き声を上げ始めた。

 だからと言って、病気を持っているかもしれない子猫を愛娘の傍に置いてはおけない。

 父親は再度、猫を安全な場所へと放つ。

 戻れば大泣きしている美菜と、困った顔であやしている母親。

 そして不思議なことに、両親がすこしでも目を離すと、その隙に子猫は戻って美菜に寄り添っていた。

 話を訊いて心配して訪ねてきた祖父は、寄り添って眠っている美菜と子猫を見てこう呟いた。

「もしかしたら、守り神様かもしれねぇなぁ」

 その言葉を真に受けたわけではない。

 しかし遠ざけても遠ざけても戻ってくる子猫に、両親はついに根負けしてしまう。子猫を病院へ連れて行って検査を受けさせ、飼い猫とすることに決めた。

 それから美菜とネロは、いつもふたり一緒だった。

 ネロは赤ん坊の美菜について回り、美菜はネロの姿が視界から消えると泣き始めた。

 それだけではない。

 美菜がオムツの交換やミルクを必要としているとき、ネロはまるでそれがわかっているかのように美菜の傍を離れて両親に知らせた。

 美菜が幼稚園に通い始めると、ネロは母親が起こしに来るよりも前に、眠っている美菜の瞼を舐めて起こすようになった。

 それも幼稚園のある平日だけに限って。

 小学校へ上がればその時間に合わせ、中学校へ上がればまたそれに合わせる。

 美菜を起こすのはネロの役目になっていた。

 ネロに瞼を舐められると、美菜はぱちりと目を覚ました。

 顔を洗って着替える間、ネロは美菜を見守っている。

 朝食はいつも一緒に食べた。

 美菜にとってネロは双子の姉妹であり、親友であり、親でもあった。

 彼女と共に入浴をし、眠り、目覚め、学び、遊び、笑い、泣き、育っていった。

 どんなに落ち込んでいても、ネロが瞼を舐めて慰めてくれると美菜はすぐ元気になった。

 ネロに瞼を舐められること。

 それは美菜にとって、自分を無敵にしてくれる魔法のようだった。

「ごめん。姫華。ちょっと待って。私なんか泣いちゃいそう」

 葵依がごしごしと目元を擦る。

「なんで? 泣くような話なんてしてないでしょ?」

「だって……そんなに仲良しだったのに、ネロちゃんは、もういないんだよね?」

「――ええ。美菜さんが十五の夏、中学三年生の夏に、ネロは死ぬの」

 美菜ばかりがネロに甘えていたわけではない。

 ネロは美菜にブラッシングをしてもらうのが大好きだった。

 美菜が学校から帰ると、ネロは待ちわびていたとばかりにブラシを咥えて擦り寄ってきた。

 そして急かすように、にゃーと鳴く。

 父親でもなく、母親でもなく、美菜にブラッシングをしてもらいたい。

 まるでそう言っているかのように、ネロはブラシを宝物置き場に隠していた。

 持ち出すのは美菜にブラッシングをしてもらうときだけ。

 終わればすぐにまた宝物置き場へ隠してしまう。

 ブラッシングを終えたネロは誇らしげで、つやつやになった毛並みを自慢にしているようだった。

 ――ある夏の日、学校から帰宅した美菜を出迎えたネロはブラシを咥えていなかった。

 失くしちゃったの? と問う美菜に、ネロは小さく鳴いて答える。

 美菜が自室へ戻ると、ベッドの脇にブラシが落ちていた。

 ネロはブラシに駆け寄って咥える。咥えようとする。

 けれどネロはブラシを咥え上げることができない。

 何度やっても。何度やっても。

 その姿に、美菜はただただ言葉を失した。

 そしてネロは振り向いて、にゃーと鳴く。

「ごめんね、美菜ちゃん。私の時間は、もうすぐ終わってしまうみたい」

 美菜の耳には、はっきりとそう聞こえた。

 美菜はすぐにネロを病院へ連れて行った。

 そこで下された診断は『老衰』。

「ネロが立てなくなったのは、その五日後。そして更に一週間後、ネロは天国へ旅立つことになるわ。問題は美菜さんとネロの別れ。彼女はネロを看取ってあげられなかったのよ」

「そんな……どうして?」

「単純に運がなかったの。美菜さんは中学校へ自転車で通っていたのだけれど、ネロが逝く前日にタイヤがパンクしてしまった。自転車で十五分の学校も、バスを使うと四十分かかってしまう。美菜さんは自転車を修理しに行くよりも、ネロと一緒にいることを選んでしまった。仕方ないわ。翌日にネロが死んでしまうなんて、わからないのだから。次の日バスで学校から戻ると、ネロは母親の膝の上で醒めない眠りについていたの」

 美菜は眠っているネロの頭を撫でた。

 背中を撫で、腹へと撫で下ろす。

 ネロの身体は、まだ温かかった。

 あと十五分早ければ、と母親が言った。

 いつもは学校から帰っている時間だから、ネロは美菜のことをずっと探していたよ、と。

 美菜の視界が白い闇に染まる。

 膝から崩れ落ち、その場にへたり込んだ。

 ネロの最期を看取ってやれなかった。

 美菜にとってそれは、ネロに対する絶対にしてはいけない裏切りだった。

 そして、と姫華が言った。

「これから話すのは、美菜さんが葵依と葉月さんに真実を話せなかった理由。

 ネロを失った美菜さんは塞ぎこんでしまった。それは当然だとわたしも思う。ずっと一緒だった家族がいなくなってしまったのだもの。

 美菜さんは家でも学校でも、元気に振舞うことなんてできない。心配した友達の一人が、なにがあったのかと彼女を問い詰めたわ。

 話すことで楽になるかもしれない。そう考えた美菜さんは、その友人に事情を説明したの。話を聞いた友人は、美菜さんにこう言ったわ」

 姫華が一呼吸置く。

「「同じ高校に行くって約束したでしょ? いつまでも『そんなこと』で落ち込んでいないで、一緒に勉強がんばろう」と」

 口を開きかけた葵依を、姫華が制する。

 葵依の顔に浮かんでいたのは、明らかな怒りだ。

「その一言で、美菜さんは酷く傷ついた。言葉にできないほどに、深く深く傷ついたわ。

 でもね。その友人のことを酷い人間だ、なんて言ってはダメよ。

 彼女は真剣に美菜さんを心配していたの。それこそ、いまの葵依や葉月さんのように。

 けれど彼女は、美菜さんとネロが生まれた時からずっと一緒だったなんて知らないし、彼女自身が動物を飼ったこともない。

 飼い猫の死について鈍感だったのは、彼女の育った環境に寄るもので彼女自身の罪じゃない。

 加えて高校受験は目の前に差し迫っている。美菜さんの将来を考えれば、一匹の猫の死で未来を棒に振らせるような真似なんてさせられないでしょう?」

 ただでさえ激しく消耗していた美菜の心に、友人の言葉が追い討ちをかけたのは間違いではない。

 だが結果として、美菜は受験勉強に集中することとなった。

 ネロの死という現実から逃げるかのように没頭した。

 当初に受験する予定だった地元の高校ではなく、ずっと学力レベルの高い東京の高校へ合格するほどに。

 受験の終わった美菜の心に去来したのは、いくつもの後悔。

 友人の言葉に怒れなかったこと。

 ネロの死と向き合わずに逃げてしまったこと。

 ネロとの思い出が詰まった実家から離れて、東京の高校へ通うと決めたこと。

 そう言った様々な後悔が、徐々に美菜の心を蝕んでいく。

 美菜の心を、喰らい始める。

「真実を告げたとき、葵依と葉月さんがかつての友人と同じ言葉を口にしたら。もしそうなったら、美菜さんは自分が『終わる』と無意識でわかっていたのよ。だから言えなかった。けれどそれは、あなたたちふたりを信頼していなかったからじゃないわ。あなたたちさえ傍にいてくれれば、自分は大丈夫だと信じていたからよ。でも……」

 姫華が口篭る。

 適切な言葉を選んでいるかのように。

 大丈夫だから、と葵依が言った。

「続きを話して姫華」

「……ええ。でも、それにも限界はあるの。どれだけ足掻いても、人間の力では抗えない。美菜さんは『夢に喰われている』のよ」

「それ前も言っていたけど、どういうこと?」

 葵依は眉根を寄せた。戸惑っているのだとわかる。

「昨夜で八十六日目。美菜さんは毎夜眠るたびに、ネロの死を夢で見続けているのよ。自分の判断が間違いだったために、ネロの死を看取れなかったこと。ネロを裏切ってしまったあの日の、あの瞬間の夢を。それが夢に喰われるということ。夢はいずれ完全に、美菜さんを喰らい尽くすわ」

 葵依はごくりと唾を飲む。

「もしそうなったら、美菜ちゃんは……?」

「症状は人それぞれ。多くは周囲の人間との関係を拒否するというものよ。美菜さんもそれに当てはまると思う。彼女はすでに、葵依と葉月さん以外の人間との関係を拒絶しはじめている。その対象があなたたちにまで及んだ時点で、美菜さんは夢に喰われて終わるのよ」

 葵依は絶句する。

 人間との関わりの拒絶。

 それはつまり、生きることの拒絶なのではないか?

 そしてそれは、美菜の昨日の行動と重なる。

「繰り返しの話になってしまうけれど、人間を『食う夢』の正体はわたしたち魔法使いにもわからない。仮説はあるけれど、それを肯定するだけの根拠がないの。だから災害や現象、実体のない敵としか説明できないのよ」

 葵依は姫華の話を、完全にではないが理解できている。

 吉田茜の過去へ行き、変質した美菜の姿を見た。

 けれどそのうえでなお、そんなことが現実にあるとは到底思えなかった。

 だが同じように、これらすべてが姫華の作り話だとも思えない。

 そしてなによりもショックだったのは、美菜がそこまで追い詰められていたと自分が気づけなかったことだ。

 姫華の話が本当だと仮定するならば、と葵依は考える。

「つまり、このままだと美菜ちゃんは――」

「幾日も持たずに『夢に喰われて終わる』わ」

「そんな……でもどうしてそんな急に? これまでは、たまに熱を出すくらいだったのに」

「それは――たぶんわたしのせいよ」

 姫華の表情が曇る。

「姫華の? どういうこと?」

「美菜さんの心は、葵依と葉月さんの存在でぎりぎり均衡を保っていたの。自分になにかあっても、きっとふたりが助けてくれるって。ふたりがいれば大丈夫だって。無意識下で強くそう信じていた。けれど、そこにわたしが現れてしまった。わたしの存在は、きっと美菜さんにとって邪魔な――」

「違うよ姫華。それは違う」

 怒りを孕んだ声で、葵依が姫華の言葉を遮る。

「美菜ちゃんはそんな子じゃない。誰かを邪魔になんてしない。私の友達を侮辱しないで」

「ご、ごめんなさい。侮辱するつもりなんて――」

「悪いのは私だ。私がもっとしっかりしていれば、美菜ちゃんは苦しんだりしなかったのに。それなのに――」

「それこそ違うわ。葵依」

 姫華は両手で、葵依の両頬を包むように触れる。

 そして真っ直ぐに葵依の目を見た。

「胸を張っていいの。誇っていいの。あなたと葉月さんがしてきたことを。美菜さんの傍にいたのが、あなたと葉月さんであったことを。あなたたちが美菜さんを支えてきたから、わたしは間に合ったのよ」

 美菜が夢に喰われ始めたのは八十六日前。

 彼女は八十六日間に渡って、夢に喰われ続けている。

 そんな人間が、あのように心を失わずにいる事例なんて過去になかった。

 姫華は葵依から目を逸らさない。

「事情があって、わたしと同じ仕事をしている魔法使いはとても数が少ないの。美菜さんが三ヶ月前にいまの状態になっていたら、ツムギさんもレイさんも助けには来られなかった。わたしが間に合ったのは、葵依と葉月さんが美菜さんの傍にいてくれたから」

 そう、と姫華が言う。

「間に合ったの。葵依。美菜さんは救える。だから立って」

 姫華は葵依の手を引いてベッドから立たせた。

 こうして向き合うと、やはり姫華は華奢で背も低い。

 けれどいまの姫華は、これまでとは別人のように凛々しく見えた。

 葵依、と姫華はパートナーの名を呼んだ。

「改めて言うわ。わたしと一緒に過去へ行きましょう。そこでしか救えない人たちがいるから」

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