第15話 第二章6
昨日の出来事を覚えていないのか、それとも触れて欲しくないのか。朝食の場での美菜の振る舞いは、いつもとなんら変わりなかった。
通学時もそうだ。葵依と姫華、葉月と美菜の四人で登校していたが、むしろ普段よりも明るく、よく喋っていた。
もしかしたら昨日のことは夢だったのかもしれない。葵依はそう考えてしまう。
けれど美菜に向けられた葉月の視線が、現実だと物語っていた。
手足を振り回し、感情的に叫ぶ美菜の姿を思い出すだけで、胸がぎゅっと苦しくなる。
葉月は大丈夫だろうか。彼女の受けた衝撃は、自分よりもずっと大きかったはずだ。
姫華と、その仕事について。
葉月に話してしまおうかという衝動に駆られる。
真実を知れば、美菜を救えると知れば、きっと葉月の心労は軽くなるはずだ。
そのためならば、自分の記憶の一部など失ってもかまわない。
葵依は心底からそう思えた。
けれど魔法の存在を、葉月にどう説明すればいいのかわからない。
結局、葉月になにも告げられないまま、葵依たちは学校へと到着してしまった。
――授業中、姫華はひたすらに神前美菜を観察していた。
美菜は教卓前から二番目の席に座っている。
彼女は一見真面目に授業を受けてはいるが、ときおりぼーっとなにかを考えていた。ノートも取ってはいるようだが、とても授業速度に追いついてはいないだろう。
休み時間になると、美菜はすぐに漫画を開く。
誰かから話しかけられればそれに応じるが、基本的にはひとりで漫画を読んでいる。
そういう子だという認識が定着しているのか、周囲も特に気にしてはいないようだ。
クラスで浮いている様子もない。
これは気づけない。
それが姫華の抱いた感想だ。
美菜がいまこの瞬間も夢に喰われているなど、姫華にだって気づけない。
本来であれば、もっとわかりやすいサインがあるはずだ。
吉田茜のように学校へ行かなくなったり、元気がなくなったり。
それが普段の美菜には一切なかった。
昨日のことがなければ、美菜がクライエントだとは思いもしなかっただろう。
だから姫華は理解する。考え至る。
美菜はなにかに支えられているのだと。
夢に喰われながらもそれに抗い、平静に日々を過ごせるほど強力な支え。
その支えを崩したのは、きっと――。
「姫華。どしたのボケッとして? 美菜ちゃん待ってるよ」
葵依の声で、姫華は我に返った。
時間は放課後になっている。
他校との練習試合が近い葉月を部活へ行かせ、姫華が美菜を病院へ連れて行くという話になっていた。
病院へ行っても美菜の症状は改善しない。しかしそれを葉月には言えないし、姫華にとっては美菜とふたりだけでゆっくりと話が出来る良い機会だった。
そしてすぐに姫華は思う。
自分はあまりにも考えなしだったのかもしれない、と。
教室を出て昇降口を降り、校門を抜け、病院での診察を終え、こうして寮への帰路の道程も中程を過ぎているが、姫華は美菜に話しかけることが出来ずにいた。
思えば、こうして誰かとふたりきりで帰るなどという経験が姫華には殆どなかった。
なんでもいいから喋ろうと考えるほどに焦ってしまい、なにを話せばいいのかがまったく思いつかなくなる。
葵依には詳しく話さなかったが、姫華はクライエントに対してのみ効力のある魔法を常時その身に展開していた。
その魔法の発動により、姫華は自分の力を必要としている人間の存在を、おおまかに感知することができる。
そしてクライエントにあたりをつけ、更にもうひとつ魔法を使う。
そばで観察をし、或いは会話を交わすことで、なにが対象の心を蝕んでいるのか。
それを知るための魔法を。
姫華は普段、クライエントと直に接することはなかった。
会話をすればより深く相手を知ることはできるが、問題の解決には観察だけで事足りていた。
けれど美菜には一点だけ、やはりどうしても腑に落ちない部分がある。
姫華のこれまでの経験を踏まえて考えるに、美菜の現状での症状があまりにも軽い。
理由に当たりはついている。
美菜を支えている『なにか』だ。
だが、そんなことが起こりえるのかと疑問は残る。
だからこそ、姫華は美菜と直接的に会話することを選んだ。
「……姫華さんは、私のことを葉月ちゃんと葵依ちゃんから聞いているんだよね?」
「うひっ? う、うん。猫のことね。聞いたわ。猫が近づくと熱が出るのよね」
どうしようか悶々としていたところ、予想に反して美菜のほうから口火を切ってくれた。
これはチャンスとばかりに、姫華は続けて口を開く。
「でも勘違いしないで。葵依も葉月さんも、わたしを使って美菜さんからなにかを聞き出そうとしているわけではないから」
「うん。それはわかってる。ふたりはそんなこと絶対にしないもの」
美菜はぼそぼそと小声で喋っている。
明らかに先程までと様子が異なっていた。
姫華は慎重に言葉を選ぶ。
「……ふたりを信頼しているのね」
「うん。信頼してる」
「だったら、もっと頼ってもいいではなくて?」
「頼ってるよ。でも怖くて」
「怖い? なにが?」
姫華は訊ねる。けれど彼女にはわかっていた。
美菜が発熱してしまう原因。その根底がなんであったのかを、葵依と葉月に知られるのが怖いのだ。
前を向いたまま、美菜が口を開く。
「――そんなことないって、頭ではわかっているの。でも万が一にも、その……ふたりに笑われたりしたらどうしようって。そう考えると、すごく怖い」
「過去に打ち明けた誰かに、笑われたり、『叱られたり』したのね?」
「……うん」
姫華は口にしてからはっとする。
『叱られた』というキーワードは、まだ美菜の口からは聞いていない。
しかし幸運にも、美菜はそのことに気づいていないようだった。
「葵依と葉月さんが、あなたを笑いものにする姿って、想像できる?」
美菜はちいさく首を横に振った。
「でも、どうしても、ふたりに話そうと思えない。たぶん私、葉月ちゃんと葵依ちゃんのこと、心からは信用していないのだと思う。私の心が汚いから、他の誰かも同じだって思ってしまう」
「――そのこと、ふたりには話した?」
「話していない。そんなこと言えるわけない。私なんかを気にかけてくれるんだよ。自分たちの時間を犠牲にして。そんなふたりに、あんなに優しいふたりに、私は昨日、とても酷いことを……」
ぼそぼそと抑揚のない声で美菜は話し続ける。
美菜はつい先程、葵依と葉月を信頼していると認めた。
だが直後に信用していないと言う。
そしていまは、ふたりを気遣い感謝と等しい言葉を口にした。
他にもある。昨日は独りになりたいと言いながら、部屋に葉月宛の手紙を残していた。
『ありがとう』の一言だったが、それを見た葉月が自分を探すと容易に想像できたはずだ。
彼女の思考は矛盾を繰り返している。
だがそのことが、美菜自身にはわかっていない。
疑いようもなく、意識の混濁が始まっている。
美菜は確実に『喰われて』いる。
「……姫華さん、ごめんね。会ったばかりで、こんな話をして。忘れてくれていいから」
そう言って、美菜は姫華に笑顔を向けた。
否、向けようとしたのだろう。
姫華の背筋が凍る。
美菜の顔には、一切の表情がなかった。
姫華は美菜の願いを知る。
美菜はいまの話を、葵依と葉月に聞かせて欲しいのだ。
ふたりを信用していないと。葵依と葉月が自分を裏切ると思っていると。
それを姫華の口から伝えようとしている。
その話を聞けば、葵依と葉月が自分から離れると美菜は考えているのだ。
そうして独りになって、終わろうとしている。
美菜は、終わろうとしている。
『喰われ終わろう』としている。
そういう段階まで、美菜は来ていた。
けれどそれは、唐突に起こったものではない。
とうの昔に訪れていたはずの『終わり』だった。彼女はすでに終わっていたはずだった。
それを抑えていたものが、支えていたものが、拠りどころであったものがなにであったのか。
――その支えを崩したのがなんであったのか。
魔法を使わずとも、姫華は正しく理解した。
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