第12話 第二章3
「葵依、ちょっと」
昼休み開始のチャイムが鳴り、教師が教室を出ると同時に姫華は葵依の肘を引っ張った。
「なに? 寮母さんからお弁当貰うの忘れた?」
「違うわ。二人だけで話せる場所ってある?」
「トイレの個室でいい?」
「イヤよ。もっと別の場所を考えて」
「じゃあ第一部室棟に繋がる渡り廊下へ行こうか。お昼にあそこへ行く子ってほとんどいないから」
「いいわ。急いで」
姫華が葵依の背中を押す。
「ええっ? なんで急ぐのさ?」
「葵依ちゃん、西行寺さん、一緒にお昼食べない?」
朝から休み時間ごとに姫華を取り巻いていた三人が、可愛らしいお弁当袋を手に葵依と姫華に声をかけてきた。
「ご、ごめんなさい。せっかく誘ってくれて悪いのだけれど、葵依と用事があって……」
しどろもどろに姫華が答える。
急いでいたのは、これが理由かと葵依は思う。
「ごめんねキョーコちゃん。寮のことで私と姫華は職員室へ行かなくちゃいけないの」
「あらら残念。じゃあまた今度一緒に食べよーね」
心底残念そうな三人に申し訳ないと思いながら、葵依は姫華の手を引いて教室を出た。
「……なにも嘘をつくことないじゃない」
廊下を歩きながら、不満そうに姫華が言う。
「嘘じゃないって。寮母さんにこれを頼まれていたから」
葵依はセーラー服の胸ポケットから折りたたまれた用紙を取り出し、それを広げて姫華に見せた。
彼女の寮部屋使用に関する届出で、寮母の確認印が昨日の日付で押してある。
「朝のうちに出すよう言われていたのを忘れちゃって。姫華が実際に寮で暮らし始めてからでないと、この届出は出せないらしいよ」
姫華は届出にざっと目を通すと、表情を曇らせて俯いた。
「……ごめんなさい。あなたを嘘つき呼ばわりしてしまったわ」
「いいよ別に。あんた、けっこう素直に謝るよね」
「いまのは、わたしがいけないのだもの。当然よ」
悪い人間ではないのだろう。葵依は姫華をそう評価している。
けれど彼女のすべてを信じるには、あまりにも情報と過ごした時間が少ない。
流石に、ここまでのすべてが姫華の演技だとは思わないが、それでもその可能性を払拭する決め手はない。
姫華はまだ、すべてを話してはいない。葵依の直感がそう告げている。
だからこそ、彼女に心を許すわけにはいかない。
でもこうも思う。自分は、いつまで姫華を警戒すればいいのだろうかと。
今朝、いってらっしゃいと言われて、耳まで真っ赤にしていた少女。
その姿を思い出すと、どうしてか胸が苦しくなる。
彼女がこれまでどういう生活を送ってきたのか、それを聞いてもいいのだろうか。
第一部室棟へ続く渡り廊下へ行く前に、葵依と姫華は一階の職員室へ寄ってトーコ先生に届出を渡した。
仲良くするんですよ、と言うトーコ先生にわかりましたと答えて、ふたりは中央階段から三階の渡り廊下へと向かう。
渡り廊下の中央部まで進み、周囲に人の姿がないことを確認してから葵依と姫華は足を止めた。
渡り廊下の左右の窓からは、それぞれ中庭と校庭が見下ろせる。
校庭に出ている生徒はいなかったが、中庭はベンチと三段だけある階段に座って、お昼ご飯を食べている生徒たちで賑わっていた。
「ここならどう?」
そう問う葵依に、姫華は足元に置かれた消火器を見下ろしながら答える。
「ねぇ葵依。先に一つ聞いておきたいのだけれど。どうして渡り廊下の真ん中に、ぽつんと消火器が置かれているのかしら?」
「あ、やっぱり気になるよね。先生に聞いたら、消防法がどうたらで置かなくちゃいけないんだってさ」
「そうなの……。なんだか不自然で気になってしまって。――話を戻すわ。昨日の件なのだけれど、魔法省から回答がきたの」
「昨日の件って、『姫華が変えた吉田さんの過去』を『敵が変えた』あれのこと?」
「ええ。すこし言い難いのだけれど……」
姫華は両手の指先を胸の前で組んで、もじもじとしている。心なしか頬も赤い。
もしいま姫華から愛の告白を受けたら、きっと後先考えずに受け入れてしまうなと葵依は考える。もちろん、自分が男子高校生だったらだが。
姫華がちらりと葵依を上目遣いで見た。
「……怒らないでね?」
「あー。なんとなくわかった。過去に前例があったって話でしょ?」
「すごいわ。どうしてわかったの?」
姫華が目を丸くする。
「誰でもわかるよ……。で? 具体的には?」
「『魔法使いがパートナーと初めて別世界の過去へ行った』ときに限り『魔法使いが改変した過去を、敵が一度だけ覆す』という法則があったの。本来はパートナーができたことを魔法省へ報告してから、最初の仕事を行うのが決まりなのだけれど――」
「あんたはそれを教わっていなかったのね。行き当たりばったりで私を過去へ連れて行ったから」
「はい……すみませんでした……」
姫華が肩を落とす。
「いいよもう。怒ってもいないし」
「こんにちはー。転入生って、あなたのことよね?」
「わぁ!」
「うぎゃあ!」
予期せずかけられた声に、葵依と姫華は悲鳴を上げてしまう。
反射的に声のした方へ顔を向けると、驚き顔で口元を押さえている少女がいた。
「あ、い、一之瀬さん?」
「う、うん。ごめんなさい。驚かせてしまったみたいで」
一之瀬と呼ばれた少女は葵依よりも少しだけ背が低く、やわらかで、やや癖のある黒髪を背中まで伸ばしていた。身体つきは細身だが、丸く膨らんだ胸元のおかげで見る者に温柔な印象を与える。
太めの眉にほんのり下がった目元、小さな鼻とほっそりとした顎は素朴でありながらも完璧なバランスを保っていた。
姫華の美しさとは系統の違う、可愛らしさが顕現したかのような少女だ。
こちらこそ、と葵依が言った。
「変な声だして驚かせちゃって」
「ううん。驚かせたのは私だよ。転入生の西行寺さん、だよね? 本当にごめんなさい」
「あ、えと、ええ。あ、いいえ。平気です。へーきへーき」
話を聞かれたかもと考えているのか、ギクシャクと答える姫華は早くも様子がおかしくなっていた。
「ふたりが話しているのが見えたから、挨拶したいなと思って声かけちゃった」
一之瀬は屈んで、姫華の顔を覗き込む。
「――本当。噂通りのすっごい美少女。私は一之瀬歩乃海です。よろしくね、西行寺さん」
歩乃海が握手しようと手を差し出すと、姫華はさっと葵依の背中に隠れた。
「ちょ、姫華。なにしてるの? 失礼でしょ?」
「だ、だって……」
姫華は葵依のセーラー服の背中を両手でしっかりと握って離さない。
「ほら、ちゃんと自己紹介しなさい。教室では普通に話せていたじゃない。どうしちゃったのよ?」
うう、と呻き声を出しながら、姫華は歩乃海の手を握った。
「さい、西行寺姫華です」
「あの、なんかごめんね。私、西行寺さんを怖がらせているみたい」
困り顔で笑う歩乃海に、葵依が呆れた顔を見せる。
「気にしないで。この子、ちょっと人見知りみたいでさ。こら姫華。私の背中と一之瀬さんの手を離しなさい」
姫華は歩乃海の手を離すと、そのまま葵依の背中を再び握った。
「まったくもうなんなのあんたは……。一之瀬さん。姫華を悪く思わないであげてね。次に会うときは、慣れてもうちょっとマシになっていると思うから」
うん、と頷くと歩乃海は柔らかな笑顔を浮かべて屈み、再び姫華と目線を合わせる。
「西行寺さん。よかったら、私と仲良くしてね」
カツン、と足元で乾いた音がした。
なんの音かと、三人の視線が集中する。
足元には、上蓋に白馬の刻印があるゴテゴテとしたコンパクトが落ちていた。
あれ? と葵依は考える。
そのコンパクトに、どこか見覚えがある気がしたからだ。
「屈んだ拍子にスカートから落ちたみたい」
そう言いながら、歩乃海はしゃがんでコンパクトを拾い上げる。
僅かに開かれたコンパクトの口から、ひび割れた鏡面が見えた。
葵依と姫華が、声にならない悲鳴を上げる。
「ご、ごごご、ごめ、ごめん、ごめんなさ――」
瞬間的に涙目になった姫華が、葵依の陰から歩乃海の持つコンパクトへ手を伸ばす。
「え? ああ、違うのよ。これは最初から割れているの」
姫華の手から隠すように、歩乃海はコンパクトを胸元で抱いた。
「ほ、本当?」
青い顔で葵依が訊ねる。
「ええ。鏡は割れてしまっているけれど、大切なものだからいつも持ち歩いているの。それより、このことはみんなには内緒にしてね。こんなもの持っているなんて知られたら、変な子だと思われるかもしれないし、恥ずかしいから」
歩乃海は人差し指を唇に当て、チャーミングに微笑んだ。
「う、うん。誰にも言わないよ」
葵依が答え、姫華はブンブンと首を縦に振る。
「ありがとう。約束ね。それじゃあ、教室で友達が待っているから私はこれで」
微笑んだまま、歩乃海は小さく手を振る。
釣られるように葵依が手を振り返すと、歩乃海は何度も振り返って手を振りながら渡り廊下を後にした。
歩乃海の姿が見えなくなっても、葵依と姫華はしばらく無言でたたずんでいた。
「――葵依、わたし決めたわ」
突然、確固たる決意をこめた声音で姫華が言った。
「はあ? なにを?」
「わたし、初めてのお友達は一之瀬歩乃海さんがいい。あんな可愛くて性格の良さそうな子、初めて見たもの」
「あー。その話、まだ続いていたのね。良いんじゃん? 一之瀬さんは眉目秀麗、学業優秀。生徒にも先生にも信頼されている才女だから、間違いなく自慢の友達になるよ。ちなみに葉月ちゃんと同じ三組です」
自分はやはり友達にカウントされていないのだな、と思うも葵依は姫華に合わせてやる。
「そ、そうなの? 初めての友達にはハードルが高すぎるかしら……」
「ハードルなんかないって。ところで、いつまで私の背中に隠れているつもり?」
「あ、ごめんなさい。――あら? なにかしら?」
姫華はしゃがみ込むと、廊下の一点を見詰めた。
どうしたのかと、葵依も姫華の隣でしゃがむ。
これ、と姫華が指を差す。
「もしかして一之瀬さんの?」
葵依の目に、五ミリ四方の小さな鏡の破片が映る。
さきほどコンパクトを落としたときに飛び出したのだろう。
「たぶんそうだね。鏡の破片だ」
葵依の言葉に頷くと、姫華は白いハンカチをポケットから取り出す。そして鏡に直接触れないように、それを優しく包み込む。
「どうしよう葵依。一之瀬さんを追いかけて返した方がいいかしら? それとも、こんなちいさな破片を返したら変に思われてしまう?」
「大切なものだって言っていたから、返しても変に思われたりしないんじゃないかな。でもあんた。一之瀬さんにちゃんと返せる? 説明できる?」
「う……。緊張して話せないかもしれないわ」
「それじゃ落ち着いたら返しに行こう。私たちもそろそろ戻ってお弁当を食べないと。寮母さん、お弁当を残すと怖いんだから」
「ええ……」
姫華は鏡の破片を包んだハンカチに目を落とす。
微かに綻ぶその口元が、葵依には無意識の笑顔にしか見えなかった。
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