第10話 第二章1

 目覚まし時計のアラームが起床時間を知らせる前に、川澄葵依は目を覚ました。

 寮の自室は朝日で満ちている。

 昨夜はカーテンを閉め忘れてしまったのだろうかと、葵依は寝ぼけた頭で考えた。

 寮則で睡眠時は窓の施錠とカーテンを閉めるように定められている。

 不審者対策の一環なので、規則を破ると寮母から注意されてしまうのだ。

 ばれていないといいな、と思いながら寝返りをうつと、隣のベッドに見慣れないものがあると気づいた。

 部屋の入り口から見て手前側のベッド。

 いつもはソファ代わりに使っている。

 そこに水色のパジャマが広げて置かれていた。

 フリルと白いポンポンのついた可愛らしいパジャマ。

 あんなものは少女漫画のヒロインが着ているのしか見たことがない。当然ながら葵依の持ち物ではなかった。

 ベッドの上で身を起こすと、葵依は自分の姿と水色のパジャマを見比べる。

 くたびれたTシャツとよれよれの短パン。

 下着姿で生活することを寮則で禁じられているから、仕方なく身につけているものだ。

 女子力、という単語が頭に浮かぶも葵依はそれを振り払う。

 そして夢であれと願うが、先程からちらちらと目の端に映っている存在を否定する術はない。

 勉強机に座って髪を梳いている少女。

 朝日を浴びた黒髪が、いくつもの光の粒子を纏って煌いていた。

 細くて白いうなじに、否応もなく目が惹かれてしまう。制服の袖から覗く華奢な腕には、筋肉や贅肉といった余分なものが一切なかった。

 もしかしたら人間ではなく、妖精とか精霊とか、そういったものなのかもしれない。

 そんな妄想をしながら、葵依はぼんやりと少女の後姿を眺めていた。

「びぎゃっ!?」

 視線を感じたのか、不意に振り返った姫華が引きつった悲鳴を上げる。

「……姫華さぁ、そういう声を出すの止めたほうがいいよ。いろいろ残念な気分になるから」

「あ、葵依がギラついた目でわたしを見ているからでしょ? 起きたのなら、おはようくらい言いなさいよね」

「おはよう」

「あ、おはよう。ごめんなさい。うるさくして起こしてしまった?」

 葵依はヘッドボードの目覚まし時計に目を向ける。

 午前七時五分。

 アラームをセットした五分前だ。

「ううん。平気。それにどうせすぐ起きる時間だから。それより姫華はもう行くの? 初登校でしょ。私達と一緒に行けばいいのに」

「昨日言ったじゃない。朝は職員室へ寄るから早めに出るって」

 そういえば、そんな話をしていたなと葵依は思い出す。

「朝ごはんは? 食べないと寮母さんに怒られるよ」

「昨夜のうちに事情を説明して早めに摂らせてもらったわ。ここのみんなは朝からあんなに美味しいものを食べさせてもらっているのね」

「寮母さんはお料理上手なんだ。おかわりもさせてくれるし、寮則破ると怖いけど、普段はすごく優しいからみんなの人気者だよ」

「でしょうね。新入りのわたしにも、とても親切にしてくれたのよ。そのうえ若くて綺麗なんて素直に憧れるわ」

 姫華に『綺麗』だと言われても、自分なら皮肉だと思ってしまうかもしれない。

 ねぇ、と葵依は言った。

「朝から早々になんだけど、あんたの目的は『クライエント』ってのを救うことなんだよね? それが誰なのか私に教えておいてくれない?」

 姫華は首を横に振った。

「『誰か』まではわからないの。何人いるのかも。わかるのは『クライエントがいる』という部分だけ。対象者を特定するには個別に魔法をかけて調べるしかないのよ」

「意外と融通利かないんだね。魔法って」

「言ったでしょう? 魔法では最高の結果を出せないって。でもこの近辺からクライエントがいなくなれば、そうなったとわたしにはわかる」

「それまではこの部屋に居座るってことね……」

「そうよ。よろしくね」

「ああはい。よろしく」

「――できれば、もうひとつの『目的』も果たしたいところだけれど」

 ひとり言だったのか、どうにか聞き取れるくらいの小ささで姫華がそう呟いた。

「もうひとつの目的?」

 反射的に訊き返してから、葵依はしまったと口をつぐむ。

 これはきっとまた、面倒事に巻き込まれるパターンに違いない。

「ええ」

 そんな葵依の心中をよそに、姫華はじっと彼女を見つめた。

 熱のこもった瞳に、葵依はドキリとする。

 もう何度同じことを思っただろうか。それでもやはり、この少女は美しいという想いを抱かずにいられない。

 姫華がゆっくりと口を開く。

「――お友達が欲しいの。わたし、お友達が一人もいないから」

「……はぁ、そうですか」

 葵依には、それ以外の言葉を思いつけなかった。

 なに言ってるんだコイツ。

 いまの自分はそんな顔をしているのだろうと葵依は思う。

「友達って、その――フレンドのこと?」

「なぜ英語で言うの?」

「……なんでだろうね」

 姫華の顔はいたって真面目だ。

 えーっと、と葵依は話を続ける。

「『友達が欲しい』ってのは、あんたの仕事と関係があるって認識でいいの?」

「違うわ。仕事とは関係ない。せっかく女子高に通うのだから『はじめてのお友達』を作りたいの」

「はじめて? あんたいま十七だって言ってなかった?」

「ええ。あなたと同じ十七歳よ。この寮では同級生でないとルームメイトになれないと聞いたわ」

「十七歳なのに、これまで友達がひとりも?」

「なによ。これまでお友達がひとりもいなかった十七歳がいてはいけないの?」

「いけなくはないけど、それって姫華がそう思い込んでいるだけじゃない? 学校通うのが初めてってわけじゃないんでしょ? そうしたら自然と出来ない?」

「……そんなこと言われても、わたしには出来なかったのだもの」

 葵依の問いに、姫華はふるふると力なく首を横に振った。

 友達がいない、という姫華の言葉に、葵依は違和感を覚える。

 葵依はここで姫華と出会ってからまだ僅かしか経っていないが、少女が色々な意味で特異だというのはすでにわかっている。

 けれど友達が出来ないほど性格に難があるとは思えなかった。

 魔法使いであることが他者に秘密であるのなら、魔法を使って誰かを脅したりなどもしなかっただろうし、実際に葵依へ対してもそんな素振りはなかった。記憶を消す云々は別としてだが。

 隣室の高見葉月と昨日に会ったときも、多少の緊張はあったようだが姫華による問題行動のようなものはなかった。おそらく葉月はすでに姫華を友人だと認識しているだろう。

 故に、姫華が言うように『友達がいない』という話がどうにもしっくりとこない。

 そこから推察するに『友達が欲しい』というのは、なにかを隠すためのブラフなのではないかと勘繰ってしまう。

 それとも少女の容姿に原因があるのだろうか。

 美しすぎてみんなが敬遠してしまうなんて、物語ではありがちな設定でもある。

 つんつんと肩を突かれる。

 視線を向けると、いつの間にか隣に座っている姫華が不機嫌そうな目で見ていた。

「葵依。あなたさっきから、ちょこちょこなにか考え込んでいるみたいだけど――」

「ん? ああ、ごめんごめん。そうだ。友達って私じゃ駄目? 相応しくない?」

「……初めてのお友達が不良って、わたしには難易度が高いわ。フレンドフィーとか払うのイヤだし」

「フレンドフィー? 友達料金ってこと? なにそれ? 初めて聞いた」

「普通の子が不良と仲良くするには、必要なものなのでしょ?」

「だから私は不良じゃないってのに」

 姫華が葵依の顔を覗き込む。

 真意を推し量るように、じっと見つめる。

 葵依の鼓動が一つ大きく跳ねた。

 こうして姫華に見詰められるたび、つい緊張してしまう。

 相応しいかどうかで判断するのなら、これほど美しい少女と釣り合う美貌を自分は持ち合わせていないと葵依は思う。

 本気? と姫華が聞いた。

「本気で、わたしとお友達になってくれるの? こうしてわたしと話しているのが面倒臭くなったとかではなくて? 嘘をついてもわかるのよ?」

「確かにちょっと面倒臭くはなっているけど、一緒の部屋で暮らすのならいずれそうなると思うし。……なに? 姫華と友達になると呪われるとか、そういう超常現象的なデメリットでもあるの?」

「……別に、そんなものはないわ」

 癖なのだろうか。

 姫華は胸の前で指を組むと、ちらちら上目遣いの目線を葵依へ向ける。

 可愛らしい仕草だなぁと葵依は思う。

 これ、私が男の子だったらコロっ落とされちゃうかもしれないなんて考える。

 けれど、なぜこんなにも念押しのようなことをするのだろうか?

 友達になろうというだけなのに。

 ――ひたり、と葵依の額になにかが触れた。

 なんだろう? 葵依は姫華へ視線を向ける。

 変わらず胸の前で指を組んだまま、少女は目を伏せていた。

 葵依は自身の額に触れてみる。なにもない。額から手を離す。

 額に触れる感触が消えていない。

「……ちょっと姫華さんや。あんた私に魔法使ってるでしょ? なんのつもりか知らないけど、やめてくんない? おでこが気持ち悪いんだけど」

「……え?」

 葵依はベッドから立ち上がると、自分の勉強机に置いてある鏡を覗き込んだ。色々な角度から額を眺めるも、触れられている感触があるだけで目に見える異変はない。

 故に葵依は気づかない。全身を強張らせ、その背中を凝視している姫華に。

 見開かれた少女の瞳に浮かぶのは、明らかな動揺だった。

 額を擦っている葵依へ、信じがたいものを見るような視線を向けている。

 思考が停止しているのか、或いはどうすべきかを必死で考えているのか。

 姫華はただただ、葵依から目を逸らせずにいた。

 葵依が姫華へと向き直る。

「ちょっといい加減にしてくれない? なんのいやがらせよこれ?」

「――あ、そ、そうよ。驚いた?」

 姫華は胸の前で組んでいた指を解く。同時に葵依の額に触れられていた感覚も消える。

 葵依は確かめるように額を撫でてから姫華を睨む。

「は? なに? 私を驚かせたかったの? いまの流れでやるのはおかしくない?」

「な、なによ。魔法使いが魔法を使ったらいけないっていうの?」

「じゃあ私はバレーボール部だから、姫華をボール代わりにスパイク練習をするけどいい?」

「ひぇぇぇぇ。やめてぇ」

 姫華はうつ伏せに倒れこんでベッドへしがみついた。

 葵依に向けられた背がカタカタと小刻みに震える。

「ちょ、冗談。冗談だから。それにそんなことできるわけないし」

 大丈夫だよー、となだめるように姫華の背へ触れた。

 はたと葵依が思い出す。

「あんた学校は? 職員室に寄るんでしょ?」

「いけない。遅れてしまうわ」

 姫華は机の脇に置いてあった通学鞄を手に取った。

「じゃあわたしは行くけど、二度寝してはダメよ」

「大丈夫。寝たりしないよ。万が一の時は、葉月ちゃんが起こしに来てくれるから」

「あなたねぇ……。小さな子供じゃないのだから、自分で起きなさい」

「断っても起こしに来てくれるんだもん。私だけひとり部屋だったから、気にしてくれているんだと思う」

 葵依が大きな欠伸をする。

 姫華はそれを呆れ顔で見ていた。

「女の子が人前で欠伸だなんて……。まぁいいわ。明日からは私が起こすから」

「はいママ」

「誰がママよ。口うるさくて悪かったわね。っと、時間がないのだったわ」

 姫華は踵を返すと、小走りで扉へと向かう。

「いってらっしゃい。気をつけてね」

 その背に向かって葵依が言った。

 ぴたりと姫華の足が止まる。

 ドアノブに手をかけたまま、少女は動かない。

 しばらくその背中を眺めるも、姫華は部屋を出る様子がない。

「姫華? どうかした?」

「あ、えっと、あの、その」

 しどろもどろに姫華が言葉を羅列する。顔は扉へ向けたままだ。

「んん? 本当にどうしたのよ?」

 姫華の様子がおかしい。

 葵依はベッドを降りて、背中を向けたままの姫華に近寄る。

「来ないで。お願い」

 俯いた姫華が、強い口調で言った。

「むっ。失礼ね。心配してあげてるのに」

「ご、ごめん。はじ、初めてだったから、お、おど、驚いちゃって」

 姫華は胸に手を当てている。息を整えているように見えた。

「初めて? なに? なんの話をしているの?」

「……いってらっしゃいって」

「はい?」

 意味がわからず葵依が眉根を寄せる。

 気づいたのはその直後だ。

 豊かな髪から覗く姫華の耳が、真っ赤に染まっていた。

「うえっ? 姫華、まさかあんた泣いてる?」

「泣いてない。――でへへ」

 横顔から見える姫華の口角が上がっていた。

「笑ってるのかよ。なんで笑ってるんだよ?」

 しかもだらしない声まで出して、と思うが口にはしない。

 これはどういう状況なのかと葵依は困惑する。

 笑いどころなんてあっただろうか?

 葵依、と姫華が口を開く。

「ありがとう。いってきます」

「お? おーう。いってらっしゃい」

 なんと言ってやればいいのかわからず、葵依はおかしな返事をしてしまう。

 姫華は扉を開けて部屋を出た。

 結局一度も少女は振り向かず仕舞いだった。

「……なんなの、いったい」

 ぼそりと葵依は独り言を呟く。

 いってらっしゃいが初めてって、どういうことなのだろうか。

 そのことについて考えてみるも、葵依にはうまく想像ができなかった。

 それよりもなによりも、どうしてか鼓動が早鐘を打っている。

 顔が熱くてたまらない。

 胸に渦巻くこの感情がなんであるのか、葵依にはわからない。

 強いて言うならば、彼女の言動が理解できないことによる罪悪感だろうか。

 支えてあげなくてはいけないのかもしれない。魔法使いのパートナーとしてだけではなく。

 ただの予感のようなものだが、葵依にはそう思えた。

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