第9話 第一章6

「ん? 美菜ちゃんかな? どうぞー」

 ノックへの返事をしてから、葵依は姫華へと視線を向けた。

 あれ? 姫華って寮の人たちに見られてもいいのかな? そう考えるも、いまさらどうにもならない。

「ちょっすー」

 挨拶と共に扉の隙間から覗くのは、同じ寮で暮らす高見葉月のよく日焼けした顔だった。

 わお、と葉月が驚きの声を上げる。

「本当にすっごい美人さんだ。あたしはタカミハヅキだよ。葉月って呼んで。よろしくね」

「さ、西行寺姫華です。よろしくお願いします」

 姫華は立ち上がると、礼儀正しくお辞儀した。

「あれ? 葉月ちゃん、姫華のこと知ってるの?」

 葵依の問いに、葉月は白い歯を見せて笑う。

「いまさっき寮母さんから訊いたんよ。急に入寮する子が決まったって。寮母さん慌ててたよ」

 はきはきと葉月が言う。すこし独特な言葉で、快活に喋るのが彼女の特徴だ。

「え? あんた、この寮で暮らすの?」

「ええ」

 姫華は頷いて返すと、葵依との間を開けて座りなおした。

 Tシャツ短パン姿の葉月は、ありがとうと言って二人の間に座る。

 葉月は肩上の長さの黒髪を、小さなポニーテールにしていた。

 本当はもっと髪を伸ばしたいのだが、バスケットボール部の練習には邪魔なので現在の長さで妥協しているのだ。

 背丈は葵依と姫華の中間くらいで、三人が並んで座ると頭の高さがなだらかな丘のようだった。

 部活終わりにシャワーを浴びたのだろう。葉月からは、ほのかに石鹸の香りがする。

 緊張しているのか、姫華はぴんと背筋を伸ばしている。

 アオちゃん、と葉月が言った。

「今日の帰りなんだけど、美菜に変わったことあったかな?」

「美菜ちゃん? ――別に普通だったけど」

 美菜と一緒に寮へ戻ったのは今日の放課後だ。随分と前の出来事のような気がするなと葵依は感じる。色々なことがあったから時間の感覚がおかしくなっているみたいだ。内容自体は濃かったのか薄かったのかわからないけれど。

「美菜ってば、また急に熱を出しちってさ。いま寝てるんだ」

 葉月が、自身の短パンの裾を握る。

「え? また?」

 葵依が訊き返す。

 うん、と葉月が頷く。

「葵ちゃんには言ってなかったかもだけど、こないだ美菜が熱を出したとき、直前にちこっと変なことがあったんよ」

「変なこと?」

「そ。ふたりで散歩してたら、ちっこい猫があたしらに懐いてきてね。あたしは撫でて遊んであげたんだけど、美菜が怖がってさ。そのあとに熱出して」

「あ! 猫! そうだ。今日は帰りに猫と会った。美菜ちゃんが猫苦手だって知らなくて驚いたんだった」

「あー。やっぱね。こないだと同じような熱の出かたしてたから、もしかしてって思ってたんよ」

「猫アレルギーとかで熱が出てたのかもねぇ。ここのところ続いてたから心配だったもんね」

「あ、あの……」

 おずおずと姫華が訊ねる。

「美菜さんは、いつ頃から熱を出すように?」

 うーんと、と葉月が首を捻る。

「学年上がってすこし経ってからだから、三ヶ月前くらいかな」

「そうだね。そのくらいだと思う」

 同意する葵依に、姫華が続けて問う。

「病院へは?」

「葉月ちゃんが毎回連れて行ってる。でも一晩経つとたいてい熱が下がってるから、疲れからくる風邪じゃないかって」

 とりあえず、と葉月が言った。

「明日も学校帰りに病院行ってみるね。猫アレルギーの検査とかも、頼めばしてくれるんかなぁ?」

「調べてみる?」

 葵依がスカートのポケットからスマートフォンを取り出した。

「いいよいいよ。あたしが後でやっとく。――でも変なんよね」

 葉月は自身の顎を掻く。

「美菜ってば、入学した頃は普通に猫と遊んでた気がするんよ。猫アレルギーって急になるんかなぁ?」

「うーん。どうなんだろ? 姫華知ってる?」

 姫華は首を横に振った。

 腕時計に目を落とした葉月が、「おっと」と呟く。

「ちこっと話し込んじゃったね。あたしは部屋へ戻るよ。美菜が目を覚ましたときに、ひとりきりだと可哀想だからさ。葵ちゃんも姫ちゃんも、よかったら後で顔を出してよ。あの子も喜ぶだろうから」

 葉月は揃えた両足を上げると、それを勢いよく下ろして跳ねるように立ち上がった。

「姫ちゃん、初対面なのに変な話ししちってごめんね。改めて、これからよろしく」

「あ、よ、よろしくお願いします」

 葉月が差し出した手を、姫華が握る。

「んじゃ、ふたりともまたね」

 葉月は部屋の扉の前まで行くと、振り返って手を振った。

 葵依がひらひらと手を振り返す。それに釣られるように姫華が手を振ると、葉月はひとつ微笑んでから部屋を出て行った。

 葉月の去って行った後の扉をぽーっと見ながら、姫華がひとつ息を吐いた。

「……色々質問攻めにされるかと思ったけれど、葉月さんは淑女なのね」

「美菜ちゃんのことが心配で余裕がなかっただけだと思うよ。そうは見えなかったかもだけど。――それで、さっきのはどういうこと?」

「? なんの話?」

「あんたこの寮で暮らすなんて一言も言ってなかったじゃない。まさかとは思うけど、この部屋に住むの?」

「ええ。この寮でふたり部屋をひとりで使っているのは葵依だけなのでしょう? 話の流れから察するに、美菜さんのルームメイトは葉月さんなのよね? わたしは美菜さんがひとりだと訊かされていたのだけれど」

 葵依の学年は入寮希望者が奇数だったため、彼女だけ寮部屋を一人で使っていた。事前調査をしたという姫華の職場の人間は、たまたま美菜がこの部屋にひとりでいるところを見たのだろうと葵依は考える。葵依、美菜、葉月の三人は互いの部屋を頻繁に行き来しているからだ。

 どうしよう、と葵依は困惑する。こんなわけのわからない自称魔法使いと同室なんて、うまくやっていける自信がない。

 姫華はどうなのだろうかと視線を送ると、彼女は胸の前で両手の指を組み、ちらちらと上目遣いでこちらを盗み見ていた。

「……なに? なにか言いたいことでもあるの?」

「葵依は本当に不良ではないの? この部屋に悪い仲間がたむろしたり、わたしを使い走りにして、お酒や煙草を買いに行かせたりしない?」

「しないよ。不良じゃないし。悪い仲間とかいないし。そもそもこの寮って、入寮している生徒以外は原則立ち入り禁止だから」

「そうなの? よかった……」

 でも、と姫華が続ける。

「あなた本当は不良なのよね?」

「なに? 不良だったほうがよかったの?」

「ち、違うわ。もしみんなに隠しているのなら、弱みを握れると思って」

「うーわー。最低ねあんた。――そんなことより、ちょっと真面目な話をしたいんだけど」

 言葉通り、葵依は真剣な眼差しを姫華へと向ける。それを受けた姫華は、ベッドに座り直して姿勢を正した。

「姫華の仕事って、いつも今回みたいな感じ?」

「ええ。すこしイレギュラーなことが起こってしまったけれどね。むしろわたしも初めての経験だったわ。普段は対処方法自体も容易だし、大きな怪我をするような危険もないの」

 姫華の言うように予期せぬ『敵の出現』はあったが、確かにそれはこちらを危機的状況に陥れるものではなかった。

「これまでで、一番『危なかった』経験を訊かせてくれる?」

「たぶん今日よ」

 葵依の問いに、姫華は真っ直ぐな眼差しで即答する。

 信じてもいいのかもしれない。葵依はそう考える。とはいえ、姫華を手放しで信用するだけの根拠は現時点でひとつもないのも確かだ。

 葵依は逡巡する。

 姫華は口を開かず、葵依が答えを出すのを待っているようだった。

「……もう何回か、お試しで『別世界の過去』ってのに私を連れて行ってよ。それで問題がなさそうなら、パートナーのこと私からも美菜ちゃんに話してみる。ただし美菜ちゃんをパートナーにした後も、私たちふたりが完全に危険はないって判断するまで、私も同行するのが条件。これ以上の譲歩はないよ」

 考え抜いた末、葵依がそう結論を出す。

 しかし姫華は「え?」と気の抜けた声を出した。

「葵依がわたしのパートナーになってくれるのではないの?」

「は? なにそれ? そんな話ひと言もしてないけど? それに美菜ちゃんをパートナーにしに来たんでしょあんたは?」

「そうだけど、魔法をあなたに見られてしまったから……。魔法使いひとりにつき、パートナーはひとりしか認められていないのよ」

「だからそれを美菜ちゃんにするんでしょ?」

「さっきも言ったけれど、魔法の存在は一般人には秘密なの。葵依はわたしの魔法を見たし、体験もしたわよね?」

 ね? と念を押すように姫華は可愛らしく小首を傾げた。

「いや待ってよ。自分の部屋に入ったら強制的に見せられたんだよ私は。浮いてるベッドを。いやいや待って待って。なんかすっごくイヤな予感がするんだけど。もしかして、あんたのパートナー候補って、いまは私になっているの?」

「ええ。そうよ」

「もし断ったら?」

「あなたの記憶を消して、神前美菜さんにパートナーをお願いするわ」

「ちょ、それ脅迫じゃない! 美菜ちゃんを盾にするなんて! だいたいなによ? 記憶を消すって? なんでそんなことされなきゃいけないのさ?」

 そういえば、初対面のときにも姫華はそんな話をしていた。葵依は変に冷静に、そのことを思い出していた。

「一般人に魔法を見せてはいけないと説明したばかりなのだけれど……」

 困り顔で姫華が言う。

「わ、私の物分りが悪いみたいな顔すんな!」

「心配いらないわ。わたしと葵依が出会ってからの記憶を魔法でぜんぶ消すだけだから」

「サイコパスかあんたは! そんなことされてたまるもんか! 間違って余計な記憶まで消されたら、私の性格が変わっちゃうかもしれないじゃない!」

 葵依はベッドから勢いよく降りると、姫華の前で仁王立ちをする。

「だ、大丈夫よ。わたしは失敗なんてしないから」

 姫華は見下ろしてくる葵依に震えながら、怯えた声でそう返す。

「落ちこぼれの言葉なんて信用できないよ!」

「おち、落ちこぼれ? わたしは落ちこぼれなんかじゃないわ」

「じゃあなんで、あんただけパートナーができないのさ?」

「そ、それとこれとは話が別よ。わたしにパートナーができないのは、きっと人格的に問題があるからで――」

「なお悪いわ! ――待って待って。ホント待って。それじゃあなに? 私があんたの魔法を見た時点で『記憶を消される』か『パートナーになる』かの二択になっていたってこと?」

 葵依の問いに、姫華はポンと両手を打ち合わせた。

「まあ本当。気付かなかった」

 葵依はベッドへうつ伏せに倒れ込む。

「うっわもう最悪。魔法使い最悪。滅びろ魔法使い」

「ま、魔法使いを悪く言わないでちょうだい。問題があるとしたら、それはわたし個人にであって、魔法使いは悪くないの」

「その開き直るのマジでやめて。性質が悪いし、反論する気力が削がれるから」

「じゃ、じゃあ、わたしはどうすればいいの?」

「それを訊きたいのは、私の方だっての……」

 葵依のお腹がグーと鳴って、空腹を知らせる。

「……お腹空いたの? 床に落ちているお芋チップス、持ってきてあげましょうか?」

「うっさいよ……持ってきてよ……」

 なにもこんなときに鳴らなくてもいいじゃない。

 葵依はそんなことを考えながら、イモチップスの袋を姫華から受け取った。

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