第8話 第一章5

 川澄葵依はゆっくりと瞼を開ける。

 目の前にあるのは、西行寺姫華の顔だった。間近で見ても、やはり美しい娘だと思う。白磁の肌には一切の凹凸も汚れもない。不公平だよ、と言いたくなった。

 周囲を見渡すまでもなく、視界の隅に入る情報だけで、寮の自室へ戻ってきているのだと葵依にはわかった。

 足元に敷かれた使い古しのタオル。その上で革靴を履いているふたりの女子高校生が向かい合っていた。

「またこれかい……」

 葵依が力なく呟いた。立ち位置こそ多少は異なっているのかもしれないが、出発前と同様の、なんとも形容しがたい姿でいる自分に疲労感を覚える。

「どうかした?」

「どうもしない」

 姫華の問いへぞんざいに答えると、葵依は靴を脱いでベッドへとうつ伏せに倒れ込む。

 そして『三年前の十一月』という世界へ行って、自分がなにをしたのか反芻してみた。

「――ねぇ姫華。あんた私に幻覚を見せていたんじゃないでしょうね?」

「そんな恐ろしげな魔法、わたしは使ったことないわ。……それよりも葵依。あなた以前に魔法使いと会ったことがあるのではなくて?」

「なにそれ? なんでさ?」

 葵依はごろりと転がって仰向けになると、自分の隣をぽんぽんと叩き、所在無げに立っている姫華に座るよう促す。

 姫華はそれに従い、葵依の隣へすこし距離を置いて腰を下ろした。

「あなた、とても冷静だったから。魔法を見たのが初めてだなんて思えないわ」

「ぜんぜん! さっぱり! 冷静じゃなかったけど!? めっちゃパニくってましたけど! ちょー怖かったんですけど!」

 葵依は天井に向かって思いの丈をぶつける。姫華がびくりと身体を震わせた。

「そ、そうなの? でもわたしが昔に魔法を見せた子と、反応がまったく違ったから」

 姫華が怯えた目を向けている。

「なに? 泣かせちゃった?」

 葵依が声のトーンを抑える。姫華を怖がらせるつもりはなかった。

「泣かせた、というか、喚かせた、というか、泣き喚めかせた、というか……半狂乱という言葉を、初めてこの目で見た気分だったわ……」

 姫華の表情が陰る。心の傷にでもなっているのではないかと思うほどに、暗い声を出していた。

「あ、ああ、そう……まあ普通はそうなるんじゃない? 私だって、あんたが美菜ちゃんをパートナーにするとか言い出さなかったら、どうなってたかわからないもの」

「改めて訊くけれど、葵依は『わたしたちが過去でなにをしたか』をきちんと把握できている?」

「きちんとかはわからないけど、要はトラウマスイッチの解除でしょ?」

「あなたねぇ……わたしの大切なお仕事を、ちょっとした遊びみたいな例えにしないでくれない?」

「しらないよそんなの」

「わたしたちは吉田さんの後悔の原因を『別世界の過去』で取り除いたの。でも、わたしたちの世界――『現世界』の吉田さんは、あの日の夜、公園にハナコちゃんが来なかったことを、まだ知らない。彼女はいま、それを『夢でみている』わ」

「夢?」

「そう。『夢』。この『夢』というワードを良く覚えておいて。このさき、なんども出てくる重要な言葉だから」

 葵依が頷くのを見て、姫華が続ける。

「わたしたちが起こした別世界での出来事。それを吉田さんが夢でみるの。とても強く、夢でみる。そうすると彼女は『もしかしたら、そうだったのかもしれない。きっと、そうだったんだ』と思うようになるわ。それは別世界の吉田さんの過去と、現世界の吉田さんに繋がりがあるから」

 炭酸飲料に例えた世界の繋がり。葵依はそれを思い出し、姫華の話の続きを待つ。

「ふたつの世界は――すべての世界は、夢で繋がっているの。どこかの世界での経験が、夢を通じて他の世界へ良い影響を与える。目の前の誰かを助けるために、別の世界にあるその誰かの過去へ行って、きっかけとなった苦しみを取り除く」

 姫華はすぅと息を吐き、すこしの溜めを作る。

「――それがわたしの『仕事』で、わたしの『魔法』よ」

「ふーん。そうなんだー」

 どうだ。すごいでしょう? そんな表情で薄い胸を張る姫華へ、葵依は気のない返事をした。

「あ、あれ? 気のせいかしら? あまり興味がないみたいだけれど?」

 拍子抜けしたように姫華が言う。

「そりゃねぇ。だって私、たいしたことしてないし。基本的にいただけだし。あんたは中学生女子を騙しただけだし、私は脅迫しただけだし。ああダメ。なんだか罪悪感が芽生えてきた」

「で、でも解決したわ。結果が伴えば手段は問われないのよ」

「なにその仁侠映画みたいな台詞。言ってて恥ずかしくないの? ますますイメージ悪いし」

 そもそも、と葵依が続ける。

「私たちが別世界? ってのの過去へ行かなかったら、吉田さんはどうなってたのよ? いまはすこし引きこもり気味みたいだけど」

「最終的には『いなくなって』しまうわ。あなた、ニュースって観る?」

「観るけど……いなくなるって、なに?」

 姫華の言葉に、葵依は言い知れぬ不安を覚えた。

「言葉の通りよ。最近、東京近郊で若い人たちが失踪している事件があるでしょう? その人たちはみんな、吉田さんと同じ『クライエント』よ」

『クライエント』

 過去の世界で、姫華が『別世界』と同列に語った単語だ。

「さっきも訊いたけど、クライエントってなに?」

「わたしたちが魔法で救う対象者のことよ。いまのあなたがきちんと理解できるまで説明するのには、すごく時間がかかってしまうけど、どうする?」

「知りたいけど、そういうことならとりあえず後回しに――え? もしかして、失踪していた人たちを見つけたのって、姫華だったの?」

 葵依の眼差しが、尊敬のそれへと変わった。

「あ、それはツムギさんとレイさんっていう、わたしの先輩」

「あんたじゃないのかよ! ドヤ顔してるから、あんたがやったのかと思ったよ。他人の手柄で、危うくあんたを見直すところだったじゃない」

「ど、どや? そんなよくわからない顔していないわ。それにわたしはずっと九州にいたのよ。関東の件にまで手が回るわけないでしょ」

「へえへえ。どうせ九州でも中学生女子を騙して回っていたんでしょ?」

「そんなことしていないわ。悪い人みたいに言わないで」

「あんたの説明って、ヘタクソな上に気が散るんだけど。もっと要点だけまとめてできないの?」

「あなたが色々と訊いてくるからでしょう? わたしのせいじゃないわ」

「はいはい。いなくなるって言うからなにかと思えば、家出するってことなのね」

「そんな簡単な話じゃ――」

「それより『敵』ってなによ? あんた安全だって言っていたじゃない。私のことも騙すつもりだったの? 吉田さんみたいに」

「ち、違う。あなたに危険がないのは本当よ」

「それって私にはなくても、あんたにはあるってこと?」

「ゼロではない、というレベルよ。回避する方法もあるのだから」

「でもあんたが万が一にも敵ってのにやられたら、私も過去から戻れなくなるんじゃないの?」

「縁起でもないこと言わないで。仮にそうなったとしても、『魔法省』の人たちが助けにいくわ」

「マホウショウ?」

 また新しい単語が出てきた。葵依はとっさに訊き返してしまう。

「内閣府直下の機関よ」

「内角? 内角高めとか、低めとかの? 野球の話? なんで野球?」

「野球の話なんてしていないわ。内閣府に魔法省という機関があるの。わたしはそこに所属している魔法使いなの」

「内閣府魔法省」

 口に出した葵依の頬が、見る間に赤く染まってゆく。

 そして恥ずかしそうに、照れ臭そうに、言い難そうに唇を開く。

「――あのさぁ姫華。もうちょっと設定作りがんばれなかった?」

「設定?」

「内閣府直下の正義の組織だとか言いたいんでしょ? 最近は漫画でもそういうのなくなってきてるよ。リアリティが無さ過ぎるというか、子供騙しが過ぎるというか。ほら見て私の腕。鳥肌が」 

「わ、わたしの職場を恥ずかしいものみたいに言わないで。みんな誇りを持ってやっているのよ」

「でもさぁ。――ふふっ。いくらなんでも内閣府はないわぁ。うふふふっ。魔法省なんて訊いたこともないし」

「一般に対しては機密事項だもの。当然よ。魔法の存在が公になったら大騒ぎになるでしょう? どうしてそんなに疑うの?」

「えー? だってさー」

 半笑いだった葵依の顔から、すっと笑みが消える。

「――もしそれが本当だったら、マジでヤベーことに片足突っ込んじゃってるじゃん私。国が相手とか、私も美菜ちゃんも逃げ道ないじゃん。そんな現実受け止められないじゃん」

「きゅ、急に真顔にならないで。ゾッとするわ。心配しなくても、基本的にはあなたの意思が尊重されるから」

 葵依はベッドの上で上半身を起こすと、覆い被さるように姫華の両肩を掴んだ。

「本当? 本当に本当?」

「んひゃっ! ほ、本当よ」

 葵依は姫華から手を離し、ホッと安堵する。

「ああ、良かった。――それで『敵』ってのは結局なんなの? 実体がないとか言っていたけど」

 わからないの、と姫華が言った。

「人なのか、それ以外のなにかなのか。まるでわからない。わかっているのは、わたしたち魔法使いだけが対抗できるということ」

「そんなわけのわからないものと戦ってるのに、よく危険が無いとか言えるわね」

 葵依が疑いの眼差しを向ける。

「戦う、なんて対等なものではないわ。退治する方法が見つかっていないから、わたしたちは回避するだけしかできない。でも敵の動きには、いくつもの法則があるの。例えば『物理的な攻撃をしてこない』とか、『魔法使い以外の人間が変えた過去に、敵は手出しができない』とかね」

 なるほど、と葵依は思う。だから姫華は葵依の変えた過去が、更に変えられることはないと知っていたのだ。

 でも、と葵依が言う。

「あんたの変えた過去が戻ったとき言ってたよね? 『こんなこと初めて』だって。それって全部の――法則? ってのがわかってないってことだよね?」

「ええ。新しい法則はいまでもごく稀に見つかるの。今回の件は魔法省へ報告して、調査してもらうわ。きっととても褒められるわ、わたし」

 姫華は胸の前で両手を組んで、うっとりとした顔をする。

「――ホクホク顔のところ申し訳ないんだけど、ひとつ訊いていい?」

「いいわよ。なに?」

「あんたの話を単純に解釈すると『魔法使いじゃない私が変えた過去』を『敵が更に変える』っていう新しい法則も、可能性としてはあったってことにならない?」

「…………あ」

「やっぱり……」

「あ、安心して。今回に関しては大丈夫だから。さっきも言ったように、現世界の吉田さんはすでに夢を見て――」

 コンコン、と部屋の扉がノックされる。

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