第6話 第一章3


「わー。寒―い。なんで夜になってるのー。怖いよー」

 感情を失った目で、葵依は思いつくままの感想を口にする。向かい合って立つ姫華の両腕をしっかりと掴みながら、ぎこちなく周囲を見回した。

「なぜ棒読みなの? それと手を放して。腕が潰れそう」

 姫華の抗議を無視して、葵依は空を見上げる。

 広がるのは満天の星空。

 足元には舗装されたアスファルト。

 手を伸ばせば届く位置にあるのは、ペンキの剥がれた二脚のベンチ。

 その裏にある植え込みは、すっかり枯れてしまっている。

 植え込みの中にはモニュメント時計。

 時刻は午後八時十五分を指していた。

 おそらくはどこかの公園だ。

 けれど葵依が知る限り、寮の近くにこんな場所はない。

 姫華に言われるまま目を閉じて――。一秒か二秒か、とにかく数秒後に目を開いたらこの場所にいた。

 普通なら、そんな短時間では屋外どころか部屋の外へ出るだけで精一杯だろう。

 そしてなによりも、葵依には移動したという感覚がまるでなかった。

 それだけではない。

 半袖のセーラー服から剥き出しになっている二の腕が、凍るように冷えていく。暑さの残る九月初旬とは思えない。特に今日は陽射しが強くて暑かった。

 そもそも時刻は午後七時前だったはずだ。

 葵依の全身から急速に熱が失われていく。

 それは寒さだけが原因ではなかった。

 姫華はうふふと意味ありげに笑うと、自慢げに薄い胸を張ってみせる。

「お察しの通り、ここはわたし達のいた高校の寮ではないわ。そして東京でもないの。なんと高知県よ。しかも『別世界の三年前の十一月』の、ね。凄いでしょ?」

「へー。意味わかんない」

 葵依は姫華の両肩をガシリと掴むと、その身体ごと力一杯に前後へ揺すった。

「意味がわかんないっての! もうなにひとつとして意味がわかんない! どうなってんの? 私をどうする気なの? ねぇ、教えて! 教えてよぉぁぁぁぁぁ!!!!」

「お、おち、落ち着いて。お、折れる。首の骨が折れる! 馬鹿力で折れるぅっ!」

 ガクンガクンと姫華の首が思い切り前後する。

「ひぃぃぃ。お家に帰してぇあぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

「か、帰れるから! おウチ帰れるから離してぇ!」

 悲痛な姫華の叫びに、葵依はようやく我に返った。

「と、とにかくざっとでいいから事情を説明して。いきなりこんなところに連れて来られたって、どうしていいのかわからない」

「せ、せつ、説明している途中で、襲い掛かってきたくせにぃ……」

 姫華はしゃがみ込み、その身体を掻き抱く。

 瞳にいっぱいの涙を溜めて、怯え切った目を葵依へ向けている。

「だ、だからそんな目で私を見ないでって。悪かったわよ。立てる?」

「うう……」

 葵依が差し出した手を姫華が握る。

 葵依はひょいと片手で姫華を引き起こした。

「ひぃぃ。片手で持ち上げられたぁぁぁ」

「それはもういいから。で? どうなっているのよ? ここでなにするの私たち?」

 葵依の問いに、ぐすぐすと鼻を啜りながら姫華が答える。

「私が仕事で使うのは『別世界の過去』へ行く魔法なの。そこで『クライエント』を救う。それが目的」

「はぁ? 『別世界の過去』? 『クライエント』? どっちも初耳なんだけど……そもそもあんたが言う『魔法』ってなんなのよ?」

 姫華が口にする『魔法』について。

 葵依は下手に巻き込まれないよう詳細を訊かずにいたし、そもそも寮で宙に浮かぶベッドを見た後も実際は半信半疑であった。

 だがこの状況では、もはやそんなことを言っていられない。

 姫華が葵依に見せているこれは、手品でも幻でもないのだろう。

「なにと訊かれても……魔法は魔法としか――」

 葵依がガシリと姫華の両肩を掴む。

「揺するよ? 馬鹿力で揺するよ? こんどはきっと折れるよ?」

「ま、待って葵依。わたし頑張るから。そ、そうね。魔法とは――うん。その問いには、同じ問いで返すのが一番早いかもしれないわ。あなたは魔法ってなんだと思う?」

「んーっと。なんでも出来ちゃう凄い力?」

「ほぼ正解よ。なんでも、ではないけれど。魔法では、最高の結果を望めないの」

「最高の結果?」

「ええ。例えば――ちょっとした切り傷や、軽い風邪なら魔法で症状を和らげることはできる。でも命を落とすような怪我や、死へと至る病は治療できない。もちろん死者の蘇生なんてことも無理よ」

「お金を造るとかは?」

「それは普通に犯罪行為でしょ? わたしたちは無法者ではないわ」

 わたしたち、と姫華は言った。

 それはつまり『彼女のような存在が他にも居る』ということなのだろうと葵依は理解する。加えて姫華は部屋で『職場』とも言っていた。彼女の話がすべて本当なのだと仮定するならば、魔法というものが使える人間たちが所属する場所があるということになる。

 だが今の段階でそれを訊くのが、葵依には怖かった。

 そして浮かぶ疑問。

 目の前にいる少女は、自分と同じ人間なのだろうか?

 ねぇ、と葵依は言った。

「魔法を使うあんたは、どういう存在なの? 人間なの? それとも魔女とか、そういうものなの?」

 言ってから後悔する。これは訊ねてもいいことだったのかと。

 しかし姫華は、事も無げに答えた。

「わたしは人間よ。あなたと同じね。違うのは魔法を使えるということだけ。でもそれを魔女だと言うのなら、わたしは魔女なのだと思う」

 姫華の様子に、葵依はほっとする。

「姫華は、魔女って言われるのイヤ?」

「別にイヤじゃないわ。ちょっと格好良いし。でもわたしたちは自分たちを『魔法使い』と呼んでいるから、すこし違和感はあるわね」

「ふーん。そういうものなんだ。あと……なんだっけ? ナントカ世界とナントカってなに?」

「『別世界』と『クライエント』のこと? クライエントに関しては、いま説明しても理解するのは難しいと思う。もうすこし後で説明するわ」

「じゃあ別世界ってのは? 三年前とか言っていたけど、私たちがいた世界と違うの?」

「その質問に答える前に、わたしから訊ねたいことがあるのだけれど、いいかしら?」

「イヤですけど……私の質問にだけ答えて欲しいんですけど……」

 葵依はこれ以上ないというほど嫌そうな顔をしてみせる。

「そ、そう……困ったわ。訊いてくれないと、説明がとても難しくなってしまうのに」

 どうしよう? と姫華が葵依へちらちら視線を向ける。

「……しかたないなぁ。なにが訊きたいの?」

「あ、ありがとう。ええと、ヨシダアカネさんという子を知っているかしら? あなたと同じ学校のはずなのだけれど」

「吉田さんって、四組の?」

 ありがとう、と安心したように言う姫華に、葵依は言いようのない罪悪感を覚えた。

「そう。その吉田さん。最近ちょっと様子が変だ――とか、そんな話を訊いたことはないかしら?」

「あるよ。もうすぐ引っ越しちゃうとかで元気なくて、あんまり学校に来てないらしい。本人は寮に入りたがっているんだけど、両親が許してくれないとかで」

「わたしたちは、その吉田さんに会いに来ているの。ただし『三年前の吉田さん』にだけれど。彼女は、これから心に傷を負うわ。それは些細なものだったのだけれど、彼女は忘れられず、三年の時を経て傷が大きく広がってしまったのよ。彼女が学校へ来ていないのは、それが原因。『寮に入りたがっているのを両親が許さない』という事実はないわ」

「うん? それは『いま』の吉田さんのこと?」

「そう。『いま』の吉田さんを助けるために、わたしたちは『過去』へ来ているの。つまり、わたしたちは『過去を変えに来ている』のよ」

「か、過去を変える? そんなことをしたらタイムパトロールに捕まっちゃわない?」

「タイムパトロールってなに?」

「なにって漫画の話だけど……」

「どうして急に漫画の話をするの? よくわからないけれど、人の心を救うために過去を変えても、誰かに捕まったりしないわ」

「そうなんだ……」

「ここで葵依の質問に戻るわね。『別世界』というのがなにか、という質問。わたし達のいた世界――それをわたしたち魔法使いは『現世界』と呼んでいるわ。残念だけれど、『現世界の過去』へ行く魔法というのは存在しないのよ。だからわたしたちは『別世界の過去』へ行くしかないわ」

「……わかるような、わからないような」

 葵依が首を捻る。

「葵依。透明なグラスに炭酸飲料を注いだ状態って想像できる?」

「想像できるけど……急になに?」

「グラスに注がれた炭酸飲料は、グラスの底から無数の泡を立ち上らせるでしょ? そのうちの一つがわたし達の暮らす『現世界』で、それ以外の泡がすべて『別世界』。底にある泡が『過去』、上にある泡が『未来』って考えて」

 なるほどと葵依は思う。

「『別世界』はSFとかでよくある『パラレルワールド』とか、『平行世界』って感じの認識でいいのね?」

「そうね。細かいことを言うとパラレルワールドと平行世界は別物らしいけれど、わたしはそのあたりのことに詳しくはないから。次は泡の周りにある液体を想像してみて。すべての世界は液体によって繋がっている。つまり『現世界』とすべての『別世界』は繋がっているのよ。だからどこかの世界で起こった『イレギュラーな出来事』は、その他のすべての世界に影響を与えるわ」

 姫華の言う『イレギュラーな出来事』。

 それがこれから自分達のやろうとしている『過去を変える』ということなのだろう。

「つまり別世界の過去で吉田さんを助けると、私達の世界の吉田さんも間接的に助けられるってこと?」

「まあ。あなたって、意外と飲み込みがいいのね。ちょっと驚いたわ」

「正直に言って、理屈はよくわからないけど、でもそれがあんたの魔法なのね? ここは三年前の十一月の高知で、私達が暮らしていたのとは別の世界。ここで吉田さんの過去を変えれば、私たちと同級生で四組の吉田さんが元気になるってことでしょ?」

「ええ。そうよ」

「それで、吉田さんが負う心の傷ってどんなの? あんまりエグいのは勘弁なんだけど」

 簡単に説明するわね、と姫華が言った。

「三年前の今日、この公園で五人の女子中学生が集まる約束をしていたの。そのうちの四人はすでに友達で、残るひとりはこれからそうなっていくはずだった」

「はずだった?」

「……いえ。正確にはそう願っていただけで、四人はその子を利用するのが目的だったし、最後は傷つけて関係を終わらせるつもりだったの」

「なにそれサイテー」

 葵依は腹立たしげに言葉を続ける。

「わかったよ姫華。その残るひとりってのが吉田さんで、私たちは悪い四人をこう――ギュッと捻ればいいんだね?」

「ひ、捻る? よくわからないけれど、腕力に訴えてはダメ。それとあなたは勘違いをしているわ。吉田さんは『四人のうちのひとり』よ。友人関係でないのは別の子で――そうね。仮に『ハナコちゃん』と呼称しましょう」

 ええっ! と葵依は驚きの声を上げる。

「吉田さんって、そういう感じの子だったの? あんまり話したことないから知らなかった。……あ、もしかして、吉田さんはその――ハナコちゃん? なんでハナコちゃん? まあいいわ。そのハナコちゃんに意地悪していたことを後悔しているとか?」

「葵依は勘もいいのね。見かけによらず」

「ん? 見かけによらず?」

「おおむねその通りよ。五人は今日、この公園に集まってハナコちゃんと友人になる、という約束をしていたの。それで夜の八時半に来るようハナコちゃんを呼び出したのだけれど、四人は最初から『行かない』と決めていた。けれど吉田さんだけは、約束の場所へ行って謝ろうとしていたのよ。実際に家も出たわ。でも、結果的には行けなかった」

「どうして?」

「彼女の家と公園の間に派出所があるの。公園へ行くには、どうしても派出所の前を通らなくてはならない。けれど、自分のような中学生がこんな遅くに出歩いていたら補導されてしまうかもしれない。そう考えて吉田さんは引き返してしまった」

 葵依は眉間に皺を寄せる。

「そんなの、ただの言い訳としか思えないんだけど」

「そうかもしれない。でも真実を話して謝罪するのは、とても勇気がいることだと思う。特に彼女は引越しが決まっていて、それがハナコちゃんと会える最後の機会でもあったから」

「引越し? 中学のときも? 引越しは高校の話じゃないの?」

「父親の仕事の都合で、吉田さんはたびたび転居していたのよ」

「だったら電話とかメッセージアプリとかで謝ればいいじゃない」

「言ったでしょう? 彼女たちはまだ『友人関係ではなかった』のよ。連絡先の交換なんてしていなかったわ」

「だからって……」

 けれど、と葵依は考える。

 もし自分が吉田さんと同じ立場になったとしたら?

 安易な逃げ道が目の前に提示されていたら、そこへ入り込んでしまうのは仕方ないのかもしれない。誰かを仲間はずれにした経験のない葵依には、うまく想像できなかった。

 ひとつ教えて、と葵依が言った。

「吉田さんたちは、ハナコちゃんのことを露骨に仲間はずれにしていたの?」

「いいえ。とても仲良くしてくれていたわ。表面上は、ということだったみたいだけれど」

「うーん……」

 葵依は胸の前で腕を組んで唸った。

 後悔するくらいならちゃんと謝っておけば良かったのに、とか、なんで三年も経った後になって急に引き篭もるのか、とか、吉田さんを助けるのはなんだか加害者側に肩入れしている気がする、とか、様々な想いが葵依の胸中を過ぎる。

 しかしもっとも心中を占めているのは、葵依自身が置かれているこの状況についてだった。はっきり言って、葵依は混乱していた。

『三年前の別世界』などという訳のわからない場所へ突然に連れて来られて、過去を改竄すると目の前の自称魔法使いがのたまっている。事情を知らない者には冷静そうに見えるかもしれないが、葵依の思考力はすでに許容量を超えていた。

 だから一番に訊かなくていけないことに、考えが至らない。

『ここで吉田さんを救わないと、彼女がどうなってしまうのか』ということに。


 わかった、と葵依が言った。

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