第5話 第一章2
「ど、どう? これは『魔法』よ。凄いでしょう? 好きになれそうかしら?」
部屋へ入ると、聞き覚えの無い上擦った声で、矢継ぎ早に質問が飛んできた。
なんのことかと、部屋を見渡す。
「……ひゃっ!?」
思わず声が出た。
――自室の手前側に置かれていたはずの『ベッド』。
それが『空中』に浮かんでいる。
川澄葵依は手に持っていた鞄と、美菜に貰ったばかりのイモチップスをどさどさと足元へ取り落としてしまった。
なにが起こっているのか即座に判別できない。葵依は両手でゴシゴシ瞼を擦ると、もう一度ベッドを見た。
ベッドはやはり『宙に浮いて』いる。
混乱する頭に浮かんだ単語は『手品』と『夢』。
出来れば後者であって欲しい。
――いや、別に前者でもいいのか?
魔法とか言っていた気もするけど……。
川澄葵依は遠くなっていく意識の中で、どうにか状況を理解しようと試みる。
あの、と室内にいた長い黒髪の少女がおずおずと訊ねた。
「あ、あなた、誰?」
少女からの間の抜けた質問で、葵依はすこし冷静さを取り戻す。
「――いやそれ私の台詞。ここ私の部屋だし」
葵依は浮かんでいるベッドを指差した。
「とりあえずそれ、降ろせる?」
「あ、はい」
少女が頷くと、ベッドは音もなく床へと舞い降りた。
葵依は少女から距離を取りつつ、ベッドへ腰掛ける。
「いまのもう一回やって」
「え?」
「もう一回、やって」
「は、はい」
すう、と垂直にベッドが五十センチほど浮かび上がる。
葵依はベッドから降りると、その下を覗き込んだ。ベッドを押し上げるような器具はない。ベッドの上を見渡すも、吊り上げているような糸もない。
「――降ろして、ベッド」
「はい」
先程と同様に、ベッドが音もなく着地する。
あの、と少女は胸の前で指を組むと、その黒目がちな瞳を忙しなくうろうろと動かした。
「ど、どう? 魔法って凄いでしょう? 好きになれそうかしら?」
そして同じ質問を繰り返す。
葵依は口元を押さえると、床に膝をついた。
「……怖すぎて吐きそう。なにこれ夢?」
「ゆ、夢じゃないわ。それに魔法は怖くないのよ。大丈夫? 背中さする?」
「と、とりあえず近寄らないで」
「え、はい……」
葵依の傍へ行こうとしていた少女は、悲しそうな顔をして足を止めた。
この少女はいったい何者なのだろうと、葵依はその姿を盗み見る。
少女の腰に届く黒髪は蛍光灯の明かりを反射して、濡れているのかと思わせるほどに光沢を放っていた。その豊かな黒髪が、少女の華奢な身体となめらかな白磁の肌をよりいっそうに際立たせる。睫毛の長い円い瞳は潤み、葵依になにかを求めているかのようだった。
高くはないが形の良い上品な鼻筋に、艶やかに膨らんだ唇。女同士ではあるが、その唇に思わず手を伸ばしたくなる誘惑に駆られた。
しかしあまりにも色素の薄いその肌は、触れるだけで少女の存在を汚してしまいそうな錯覚に陥らせる。
まるで絵画から抜け出してきたような、そんな儚い印象を与える美しい少女だった。
思わず見惚れてしまう。
これほど美しい人間を、葵依はこれまで見たことがなかった。
少女は葵依と同じセーラー服を着ている。だが学校で彼女を見た記憶はない。
少女は胸ポケットから一枚の写真を取り出すと、それを葵依と見比べた。
そして、「あの……」と三回目の言葉を口にする。
「あなた、短期間で随分と成長したようだけれど、なにか秘訣とかあるのかしら? もしあるのなら、教えて欲しいのだけれど」
「成長? 私が?」
葵依は震える膝を押さえつつ、どうにかベッドへ腰掛ける。
「ええ。この写真といまのあなた、まるで別人だもの」
「それっていつの写真? ちょっと見せてくれる?」
葵依が少女へ手を伸ばす。少女の話にすこしだけ興味が湧いた。
「う、うん」
葵依に「近寄るな」と言われた少女はしばし迷ってから、写真を自身の手のひらへ乗せる。写真はふわりと浮かぶと、葵依のスカートの上へと飛んでいった。
葵依の背中が怖気立つ。やはり先程ベッドが浮かんでいたのは、見間違いなどではなかったようだ。カタカタと小刻みに揺れる指先で写真をつまみ上げた。
そこに写っていたのは、隣室の神前美菜だった。
「……これ美菜ちゃんだ」
「そうよ。あなたでしょう?」
「違う。私は川澄葵依。美菜ちゃんは隣の部屋の子」
「え?」
少女は葵依の顔をまじまじと見る。額から滲み出た汗が、つぅと頬を伝った。
「あ、あの。ちょ、ちょっと職場へ電話をしてもいいかしら?」
胸の前で組んだ少女の指先が、彼女の動揺を表すかのようにくねくねと動いている。
職場とはなんのことだろう。アルバイト先のことだろうか。そんなことを考えながら、葵依は「どうぞ」と言った。
「あ、ありがとう」
少女は慌ててスカートからスマートフォンを取り出し、電話をかけた。
「も、もしもし。西行寺です。対策一課調査班の方と話をしたいのですが。――はい。お願いします。――あ、もしもし、西行寺です。お聞きしたいことが――え? 足元へカタログを落としたこと? ち、違います。そのことで怒って電話をしているのではないです。――本当です。怒ってないです。わたしこそ、あのときはすみませんでした。それで、その、神前美菜さんの件なんですけど。――はい。パートナー候補の。それで、部屋で待っていたら、違う女の人が入ってきて――」
少女が絶句する。なにごとかと、葵依は様子を窺う。
「――え? ま、まち、間違えた? それって調査ミスってことですか? ――え? え? そ、そんなことってあるんですか? ――パートナー調査は慣れてない? わたし、魔法をその人に見せてしまったのですけれど、どうすれば――が、がんばって? え? がんばってって言われても――ま、待って! 切らないでくだ――」
スマートフォンを持っていた少女の手が、だらりと力なく落ちる。
そして、精気の抜けた目で葵依を見た。
「……どうしましょう。出だしの一歩目から躓いてしまったわ。どうすればいいの?」
「私に訊かれても困るんだけど……」
「どうりで写真と実物が似つかないわけだわ。『もしかしたら別人かもしれない』と思ったわたしは、やはり正しかったのね」
「思ったというか、口に出していたじゃない。『あなた誰?』って。それに私を美菜ちゃんの成長した姿だと思い込む時点で、相当どうかしてるんだけど?」
「提案があるの」
精気の抜けた目のまま、少女が言う。
「とりあえず、その目怖いからやめて」
「やり直したいから、あなたはわたしと出会っていない、という風に記憶を改竄して欲しいのだけれど」
「無茶苦茶言わないで。そんなことできるわけないでしょ」
「そうなると『消す』しかないのだけれど……」
「け、消す? 私を始末するってこと?」
「し、始末?」
少女は自身の身体を掻き抱き、怯えた目を葵依へと向けた。
「あ、あなたはなんて恐ろしいことを言うの? 消すのは記憶よ。わたしとあなたが会ってからここまでの記憶を、ちょいっと消すということよ」
「イヤよ! そんな『ちょいっとコンビニ行ってくる』みたいなノリで記憶を消されてたまるもんか」
葵依はだんだんと腹が立ってきた。ベッドから立ち上がると、ツカツカと少女へ詰め寄る。
「ひぇっ、な、なに?」
「あんたさっきパートナーがどうとか電話で言っていたけど、美菜ちゃんに変なことさせる気じゃないでしょうね?」
「も、もちろんよ。変なことじゃないわ。わたしのお仕事を手伝ってもらうだけ――」
「させる気じゃない! なによ仕事って!」
葵依が少女の二の腕を掴むと、少女はその場にへたり込んだ。
あわわわわ、と妙な言葉が少女の口からは漏れている。
葵依は驚いて手を離す。
「ご、ごめん。痛かった?」
「い、痛くはないわ。でもこ、怖くて……」
少女は涙目で床にへたり込んでいる。
少し捲くれたスカートから、白くて細い太腿がちらりと覗いていた。
「怖い思いをしているのは、私の方なんだけど……」
葵依は少女へ手を差し出すと、「立てる?」と訊ねた。
しかし少女はその手を取らずに、じっと見つめている。
そしてまた「あの」と言った。
「もしかしてあなたは、ふ、ふふ、『不良』というものなのかしら?」
「不良? 私が?」
少女の問いに葵依は面食らう。そんなことを言われたのは初めてだった。
「ち、違うの? でもあなた髪の毛を赤く染めているし、日焼けをしているし、背も高いし、なにか筋肉質だし。そういう人は不良なのでしょう? 怖い……」
「赤毛なのはお祖父ちゃんからの遺伝で、日焼けして筋肉がついているのは外で部活をするからだよ。それに背だって、言うほど高くはないでしょ?」
葵依の祖父はフィンランド人で、彼の毛髪は孫である葵依に遺伝していた。
肩に届くふんわりとした癖のある頭髪は、明るい茶というより赤に近い。
そして少女が指摘したように、葵依は高校二年生の少女としてはやや長身だ。
日焼けをした引き締まった身体と切れ長の目が、相手に威圧的な印象を与えてしまう。
けれどそれが誤解であることを、葵依の傍にいる者達はすぐに知ることとなる。
化粧っけのない瑞々しい肌にたっぷりとした睫毛。
瞬間的に目を惹くような派手な美しさはないが、祖父譲りのすっと通った鼻筋。
なにより切れ長でありながらも、性格をそのまま現しているかのようなその優しげな目元が、相対する者に安心感を与えてくれる。
女子高という限定された空間でさえなければ、彼女に魅了される者は多かっただろう。
もっとも現在通っている高校においても、少なからず葵依のファンはいるのだが、それは彼女の知るところではない。
ところで、と葵依が言った。
「私はさっきから手を差し出したままなのだけれど、これは引っ込めたほうがいい?」
掴んだら投げ飛ばされるとでも思っているのか、少女はさっきから葵依の手を胡散臭そうに眺めていた。
「……別に投げ飛ばしたりしないけど」
「うえっ!?」
少女は驚きの表情と共に、素っ頓狂な声を上げる。
先程からこの子は、ちょいちょい残念な声を出しているなぁと葵依は思った。
もしかして、と少女が言う。
「あ、あなたも魔法を? わたしの心を読んだの?」
「まさか。……この話、床に座ったまま続ける? お腹冷えるよ。パンツ見えそうだし」
うう、と呻き声を上げながら、少女は恐々と葵依の手を握る。
葵依はひょいと少女を引き起こした。
華奢な少女は見た目通りに軽い。
身長は百五十センチくらいだろうか。
美菜ちゃんよりも少しだけ背が高いかな、と葵依は思う。
「ひいぃぃ。片手で持ち上げられたわ……」
少女は恐怖に満ちた目を葵依に向け、まるで猛獣を前にした小動物のように震える。
「お願いだから、そんな目で私を見ないで。それよりも、訊きたいことがたくさんあるんだけどいいよね?」
葵依がベッドへ座るよう促すと、意外にも少女は素直に従ってくれた。葵依もその隣に並んで座る。
訊きたいことと、訊きたくないことがあるな、と葵依は考える。
訊きたいのは少女が何者でなにをしにきたのか。
訊きたくないのは少女が言っている『魔法』とはなんであるのか。これを訊いてしまうと、否応なしに巻き込まれてしまう。そんな予感があった。
とりあえずは無難な――比較的そうだと思える質問をすることにした。
「まずは――さっき言っていた『仕事』ってなに? どんなことをするの?」
ぐすぐすと鼻を啜る少女に葵依は訊ねた。
なんだか尋問でもしているような気分だ。
「手伝ってくれるの?」
少女はズズっと鼻を啜る。
「なんでそうなるのよ。嫌に決まってるでしょ。内容だけ教えて」
「ええと……とても端的に言うと『人の心を救う仕事』かしら」
「さっぱりわからない。具体的に教えて」
「うーんと……魔法を使って、その人の心が救える場所へ行って、心を救うの」
「説明がヘタクソすぎない? 一ミリも内容が想像できないんだけど」
呆れ顔の葵依に、少女は耳まで赤くなる。
「し、しかたないでしょ。人に仕事内容を説明したことがないのだから。――実際に体験してもらえればわかりやすいのだけれど……どう?」
少女が可愛らしく小首を傾げた。
「どう? どうってなに? 私に体験しろって?」
「ええ」
「嫌だってさっき言ったよね? パートナーがどうとかもまだ答えてもらってないし。そんなので話になるわけないでしょ」
「ぱ、パートナーに関しては答えたはずよ。わたしのお仕事を手伝ってもらうの」
「だからその仕事がわからないんだって。だいたいその仕事ってあんたひとりじゃできないの?」
「で、できるわ。でも職場でパートナーを持つように言われているから……」
「なにそのふわっとした理由。そんなので納得させられると思ってるの? それに職場ってなによ? どこにあるのよ?」
「し、新宿」
「近い。近いよ。ここから近い。すっごい嘘っぽい」
「そ、そんなこと言われても……」
少女の瞳に涙がせり上がっていく。
「ぱ、パートナーを持たないと上司のひとから意地悪を言われたり、怒られたりするし……どうしてだって訊かれても答えられないし……パートナーいないのもう、わたしだけだし……」
「ああ……」
葵依は思わず声を漏らす。
わかった。わかってしまった。
落ちこぼれているのね、この子。
葵依は、唇を噛んで涙を堪えている少女を改めて見る。
要領が悪そうで、説明がヘタクソで、パートナーの調査ミスとかされていて、おまけになんだか運も無さそうだ。
そう思うと急に気の毒になってきた。
きっとこの子の話を訊いたら、心優しい美菜は同情してパートナーの話を受けてしまうだろう。そうなったら、なにもかも手遅れになってしまうかもしれない。だったら前もって、その『仕事』というものがどんな内容で危険がないのかを知っておくのは必要かもしれない。
葵依は少女に気づかれないよう、ちいさく溜息をついた。
「名前は?」
「え?」
「あんたの名前。私まだ訊いてないけど」
少女は慌てて姿勢を正した。
「し、失礼したわ。名乗りもしないで。わたしは西行寺姫華です。高校二年生です」
「サイギョージヒメカ? 芸名? アイドルとかなの? それとも財閥のご令嬢とか?」
「正真正銘の本名よ。サイギョウジって言いづらいでしょうから、ヒメカと呼んでくれて結構よ」
「おっけ。私は川澄葵依。同じ学年みたいだし、アオイって呼んで。――それで、危険とかはないんでしょうね?」
「仕事のこと? それなら、あなたに危険はないわ。……え? い、一緒に来てくれるの?」
涙目だった姫華の瞳が、キラキラと輝いていく。
「パートナーうんぬんを了承したわけじゃないからね」
「わ、わかったわ。すぐに行きましょう。さっそく準備を」
姫華はすくっと立ち上がると、室内を見渡した。
「葵依。外履きと、靴を履いたまま乗っかってもいい新聞紙みたいなものはある?」
「捨てる予定のタオルなら。それでいい?」
「ええ。あなたとわたしが乗れる大きさがあれば」
葵依は端のほつれた白いタオルをタンスから引っ張り出すと、それを床に敷いた。そして予備のランニングシューズをタオルへ乗せる。
「……姫華。それいつの間に?」
姫華はすでに革靴を履いてタオルに乗っていた。
「魔法で出したのよ。驚いた?」
ほんのすこし得意げに、姫華が言う。
「はいはい。驚いた驚いた。私も同じようにすればいい?」
「ええ。わたしと向かい合ってちょうだい」
葵依は言われた通りにタオルへ乗って、姫華と向かい合う。
「……なにこのシュールな儀式。部屋で靴履いて、タオルの上で自称魔法使いと向かい合うとか。私、前世でどんな罪を犯したの?」
「どんな罪を犯したの?」
真面目な顔で姫華が訊ねる。
「私が訊きたいんだけど……この後はどうすればいい?」
目をつぶって、と姫華が言った。
「これから『三年前の十一月』へ飛ぶわ」
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