第4話 第一章1


 神前美菜がふと顔を上げると、周囲から人の姿が消えていた。

 放課後の図書室。部屋の明かりはついたままだ。窓から校庭を見下ろすが、そこにも部活動をしている生徒たちの姿はない。

 日が傾きかけている。美菜は足元に置いた鞄からスマートフォンを取り出した。

 液晶画面に表示された時間は十八時二十一分。最終下校時刻が近づいていた。

 短くなってきた陽に秋の訪れを感じつつ、美菜は出入口近くにある貸出カウンターへ目を向ける。もう帰ってしまったのだろうか。そこに貸出担当の図書委員はいなかった。

 美菜は机の上に置いた漫画本を鞄へとしまう。漫画を読むのに熱中していて、帰宅を促す図書委員の声かけに気づかなかったのかもしれない。

 悪いことをしてしまったなと思うと同時に、最近はこういうことがよくあるなとも考える。実家の両親が送ってくる漫画が、面白すぎるのがいけないのだと責任転嫁をする。

 そもそも漫画好きの両親から生まれたのだから、自分が漫画好きなのも当然だと美菜は思う。今日だって寮へ戻るまで我慢できずに図書室へ来てしまった。それだけ好きだなんて、自分でもちょっと変だと思う。きっと両親の遺伝子によるものに違いない。

 寮が学校のすぐ近くにないのもいけない。徒歩で十五分という微妙に遠い場所にあるから、帰りに図書室へ寄るという選択をしてしまうのだ。

 図書室はいい。教室よりも静かだし、誰かに話しかけられることもない。

 うんうん、と美菜は満足顔で頷いた。自分の行動に納得ができたからだ。

 でも、と美菜は小首をかしげる。


 ――前からこうだったかな?


 スマートフォンがピロリン、と可愛らしい音を奏でる。画面を見るとメッセージアプリからの通知があった。

『部活で帰りがすこし遅くなりそう。寮母さんに言っておいて』

 メッセージは同じ寮で暮らす友人からだった。

『わかった。無理しないでね』

 美菜がメッセージを送り返す。

 そうだ、と思い立ち、美菜は別の友人とのトーク画面を開く。

『部活終わった? よかったら一緒に帰らない?』

 そうメッセージを送ると、すぐに既読がついた。

『ちょうどいまシャワー浴びたとこ。校門待ち合わせでいい? 五分くらいで行けそう』

 良いタイミングだったようだ。

『うん。ゆっくりでいいからね』

 美菜は座っていた椅子をしっかりと机の下へ戻してから図書室を出た。

「あ、鍵かけなくていいのかな? ……よくないよね」

 自問自答した美菜は、職員室へと向かう。

 まだ残っていた担任教師に事情を説明して図書室の鍵を借りると、そのまま図書室へととんぼ返りして戸締りをする。再び職員室へ戻り、担任に鍵を手渡した。

「ありがとう。気をつけて帰るようにね」

 背の低い中年の女教師はニコニコと笑っている。

「はい。さようなら。先生」

 その女教師よりも、さらに背の低い美菜が笑顔で言った。

 担任教師はいつもニコニコしているので、生徒たちもみんな釣られてしまうのだ。

 美菜は小走りで校門へと向かう。きっともう、待ち合わせた友人は校門にいるだろう。彼女はそういう娘だ。

「ごめんね葵依ちゃん。待たせちゃった?」

 案の定、友人である川澄葵依はすでに校門で美菜を待っていた。

「ううん。きたばっかりだよ。今日は暑いね。……美菜ちゃん大丈夫? 息切れしてるけど」

 切れ長の葵依の目が、心配げに細められる。

 美菜は額の汗を拭った。

「うん。大丈夫。ちょっと寄り道したから走ってきたの」

「そうなんだ。休む?」

「平気だよ」

「本当?」

「本当」

 美菜は笑ってみせる。

「そっか。葉月ちゃんは?」

「部活で遅くなるって。次の大会に向けてがんばってるみたい」

「バスケ部は強豪だからねぇ。校庭の隅っこを借りてるうちのバレーボール部とは大違いだ」

 えへへー、と葵依が白い歯を見せる。彼女はよく日焼けしているので、ことさら歯の白さが目立つようだった。身長は高校生女子の平均よりすこし高い百六十五センチで、髪は祖父譲りの赤毛だ。加えて部活動でしっかり身体を鍛えているので、筋肉質でもある。

 対して美菜はぱっと見が大人しそうなうえ、どちらかと言えば色白で、背も百五十センチに満たない痩せ型。

 そんな対照的なふたりは、入寮以来の友人だった。

 それにしても、と葵依が言う。

「珍しいよね。美菜ちゃんがこんな時間まで学校にいるなんて」

「図書室で漫画読んでたらこんな時間になっちゃって。実は最近よくあるの」

 駅へ向かって並んで歩きながら、美菜がぺろっと舌を出す。

「漫画って、こないだ実家から送ってきたってやつ?」

 興味津々と葵依が訊ねた。

「そう。良かったらこんど読んでみて。いまは葉月ちゃんが読み始めたからその後になっちゃうけれど」

「ありがとう。のんびり待ってる。葉月ちゃん、漫画読むのゆっくりだからねぇ」

「なんかじっくり絵を見ちゃうんだって。こないだもね――」

 踏み切りを渡って駅を越えて、ふたりは寮のある住宅街へと入っていく。

 T字路を右手に曲がったところで、ふたりの足元を影が横切った。

「きゃっ!」

「わっ」

 美菜と葵依が驚いて声を上げる。なにが通ったのかと影が走った先を見ると、まだちいさな三毛猫がこちらを振り返っていた。

 ふう、と葵依が胸を撫で下ろす。

「なんだ子猫かぁ。危なく踏んじゃうところだったよ」

「……うん。びっくりしたねー」

 美菜は鞄を胸の前で抱えている。

「みゅー」

 子猫は可愛らしく鳴くと、尻尾をぴんと立てた。

「こいつめぇ、よくも驚かせてくれたなー」

 葵依が子猫へとにじり寄る。「お詫びにモフモフさせろー」

 子猫はコロンと横になると、撫でてとばかりにお腹を見せる。近所で可愛がられているのか、まるで警戒心がないようだ。

「こいつめこいつめー」

 ひゃっほーと歓喜の声を上げながら、葵依がしゃがんで子猫を撫で回す。

「美菜ちゃんもおいでよ。この子ったらモフり放題よー」

 遠巻きにして見ていた美菜へ、葵依が声をかけた。

「う、ううん。やめておく。私、猫が苦手で」

 申し訳なさそうに美菜が言う。

「あれ? そうだったっけ?」

 葵依は喉をゴロゴロ鳴らしている子猫を撫でる手を止めた。そして「うむむ」と唸る。

 名残惜しいがしかたない。仮に美菜が猫アレルギーなのだとしたら、自分ひとりだけ楽しむわけにもいかないなと葵依は立ち上がる。

 そんな葵依を美菜が慌てて止めた。

「いいのいいの。葵依ちゃんは気にせず子猫と遊んであげて」

「もう充分に堪能したよー。帰ろう」

 葵依は美菜へ笑顔を向け、子猫にばいばいと手を振った。

「……ごめんね。せっかく可愛い猫ちゃんだったのに」

「私こそごめん。猫のこと知らなくて」

「葵依ちゃんは悪くないわ。言ってなかった私のせいだから」

 一年半も一緒にいるのに、まだお互いに知らないことがあるんだねぇ、とふたりはしみじみと語りながら、コンクリート造りの寮へと入っていく。

 玄関で革靴を靴箱へしまい、スリッパに履き替えてから正面の壁にかけられているホワイトボードの前へ立つ。そこには寮で暮らす全員の氏名が書かれた、表裏が白と赤になっているマグネットが貼られていた。学校などへ出かけるときはマグネットの表側を赤に、帰宅時には白にするというのが寮の決まりとなっている。

 ふたりはそれぞれにマグネットを白に変えてから、板張りの廊下を歩いて二階へと上がった。

 そうそう、と美菜が手を叩く。

「実家からおイモのチップスが大量に届いたの。良かったら持っていかない? 昨日お部屋へ届けに行ったのだけれど、明かりが消えていたからノックせずに戻ったの」

「いいの? 欲しい欲しい。ありがとう。昨日は早く寝ちゃったんだ」

「じゃあ、私のお部屋に寄っていってね」

 美菜はスカートのポケットから鍵を取り出し、部屋の扉を開ける。むわっとした熱気にふたりで「わあ」と顔を逸らしてクーラーをつけた。

 扉側から室内を見ると、右手側には木製のベッドがふたつ並んでいて、その奥に洗面所がある。左手側手前には衣類ダンスがついた書棚と勉強机。大型の液晶テレビを挟んで、同じくタンスと勉強机があった。寮の部屋はすべてこの間取りとなっている。

 奥の書棚には溢れんばかりの漫画本が並べられていた。美菜の実家から送られてきたものと、彼女が好みで買い集めたものだ。

 葵依がこの部屋を訪れると、美菜はいつも漫画を読んでいる。

 美菜は鞄を奥側のベッドへ乗せると、リモコンでテレビの電源を入れた。

 そしてはたと葵依を見る。

「ごめん。テレビつけるのいつもの癖で」

「いいよ。あ、またこのニュース」

『都内で失踪の女子中学生。一週間ぶりに発見』とテレビ画面の右上に大きなテロップが出ていた。

 ニュースキャスターが神妙な面持ちで原稿を読み上げる。

『東京都内で行方不明となっていた十四歳の少女が、本日未明に新宿の路上で無事保護されました。少女は失踪していた一週間の記憶がないと話しており、これで同様の事件は十一件目となります。他の保護された少年少女たちと同様に目立った外傷などはなく、警察による一刻も早い真相の解明が待たれます。では、スタジオの――』

 怖いねぇ、と葵依が言った。

「最近はこれ関連のニュースばっかり」

「ね。誘拐かもしれないらしいし、私たちも気をつけましょう」

 十代から二十代の男女ばかりが都内で行方不明となり、失踪後十日以内にその間の記憶を失った状態で発見される。そんな事件が立て続けに起こっていた。

 美菜はベッドの横に置いてある大きな段ボール箱の蓋を開ける。

「葵依ちゃん。どのくらい持っていく? とりあえず十袋くらいにする?」

「うーん。あるとあるだけ食べちゃいそうだから、ふたつで」

「それだけでいいの? 遠慮していない?」

「してないよ。じゃあ私、部屋へ戻って着替えるね」

 葵依はイモチップスを受け取ると、部屋の出入口へと向かう。

「うん。またお夕飯のときにね」

 美菜は部屋の外まで葵依のうしろを着いていき、彼女が隣室の扉を開けるまで見送った。

 あとでね、と美菜と葵依は手を振り合って、それぞれの部屋へと入っていく。

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