プールの日の翌日、つまり日曜日は何事も無く過ぎ、そして月曜日、授業は滞りなく行われ、部活の時間となった。

「菫! 部活行こう! そういえばさ、菫、眼鏡外してみてよ」

 プールで外していたような気がするけれど……。いやでも、ゴーグルをしていたから、どっちにしても眼鏡をかけていたようなものなのか。

 私は右手で縁を掴んで眼鏡を外した。

「えーっ、めっちゃかわいじゃん! コンタクトにしなよ!」

 コンタクトはものすごく痛そうだから嫌だ。私は首を横に振る。

「そっかー、眼鏡無いほうがかわいいと思うんだけどなあ」

 そういえばかわいいとか言われたの初めてかもしれない。かもしれないというか、初めてだ。

 全然関係ないけれど腹が痛い。プールはギリギリ通過、日曜日に始まりました。

 ゆっくり歩いて部室へ行くと、何故か翔伍が先輩と話し込んでいた。声は小さくて全然聞こえない。BGMにはやっぱり伊福部昭の盆踊が……。

「こんにちはー!」

 よほど集中していたのか、優莉が挨拶をするまで二人は私たちに気づいていなかったらしい。二人そろってビクっと飛び上がった。少しその様子がおかしくて笑ってしまった。

「あれ、菫が笑ってるところ、初めて見たかも」

 優莉がそんなことを言う。私はそんなに仏頂面なのだろうか。

「あ、菫が笑うのなんて5年にいっぺんとかそんなもんだから今の光景しかと目に焼き付けとけよ、マジで、俺も、久々に、見た」

 これは翔伍。五年にいっぺんって……もう少し笑ってるし……一人のときは……。

 ああ、そういえばそうかもしれない。人前で笑うことって殆どないかもしれない。

「まあでも、菫は菫なりにちゃんとコミュニケーション取ってるしな」

 翔伍、その通り、私は頑張って意思疎通をしようとしている。いや、まあ声を出せば簡単に終わるんだけれども。でもなんとなく、声は全然出なくて、どうしようもなくて。

 と、最近多い突然に開かれる部室のドア、見ずとも誰かは大体わかるけれど。

「おい! お前だお前! そこのお前! なんとか言えやボケクズ!」

 振り返れば、まあその指先は私を向いていて、顔を見れば当然のように坂本とか言う奴。文芸部室は静まりかえり、何しに来たんだこいつ、みたいな雰囲気が漂う。

 まあなんとなく分かるのはこいつが私を殴ろうとしていること。そんな結構前に流行った『勿論抵抗するで、拳で』みたいなポーズはしないで頂きたい。この間も結構痛かった。何も言わなかっただけで、かなり効いていた。だから、本当、殴るのだけは勘弁してほしい。

「まあまあ、待てよ。落ち着けって。」

翔伍や先輩がそうなだめる。しかし全く落ち着く様子はない。むしろ坂本とかいう奴は憤るばかりで大好きな翔伍の言葉さえ耳に入っていないらしい。

「うるせえ黙れ、俺はコイツをッ!」

 優莉はあわあわしているばかりで何もしていない、と思ったら先輩に耳打ちをされてどこかへ走っていった。きっと先生でも呼びにいくんだろう。

「おい、いい加減にしろ!」

 翔伍は私の前に立ちふさがり坂本とかいう奴の腕を捻り上げた。ひっ、と弱々しい声を上げて坂本とかいう奴は後ずさり、

「しょ、翔伍、またお前はそんなクソ女の味方するのかよッ!」

 ずっと思っていたけれど、クソ女って別に私はそんな言われるほどのことはしていないような気がするのだけれど。むしろいろいろと害悪だったのはそっちのほうだと思うのだけれど。

「クソ女だ? お前は見る目がないなぁ。」

 なんだかよくわからないけれど翔伍は私の腰に手を回し始めた。私を守るためだったとしてもあとでセクハラで訴えてやろうか。

「あ? クソ女じゃねぇか! お前は黙って俺と付き合ってればいいんだよ!」

「ハハ、お前、本当見る目が無いんだな。俺は、こういう奴だぜ」

 翔伍はおもむろに私の胸を揉み始め……は?

「えっちょま」

 殴ろうとしている男、その前で女の乳を揉む男、若干の抵抗を見せる私。何これ、完全に強姦されてる感じなのでは。

――もう少しの辛抱だ、我慢してくれ……ッ!

 翔伍がそう小声でささやいてくるが、いや、あの、我慢ってあの。

「えっ、お前、えっ、そういう、えっ」

 ……。

「そういうことだ、分かったらとっとと消えな」

 坂本はクソーっ、と昭和アニメの悪役みたいな声を上げて走り去っていった。そして私の胸は漸く翔伍の手から開放される。開放されるといってもどうせ抑えているのだけれど。

 そして怒涛の土下座タイム。翔伍による土下座タイム。イケメンの土下座タイム。

「いや本当マジゴメン、マジゴメン、本当、マジ、ゴメン、なんでもする、本当なんでもするから許して」

 いやむしろ感謝するのは私のほうなのだけれど……。方法がなんであれ、私を守ってくれたのは確かだし。

「何したら許してくれる?」

 いやそもそもだから怒ってすらいないのだけれど。

 仏頂面か、この顔がいけないのか。もっとニコニコすればいいのだろうか。

「笑みが! 笑みが不敵すぎる! 何! 何すればいいの!」

 どうやら逆効果だったらしい。あまり慣れないことはするものじゃない。

 ん、なんでもする、ということは私と付き合ってと言えばもしかして付き合ってくれるのではなかろうか。

 実際のところどうなのかは私にはわからないけれど、でも、やっぱり少し気になる。胸を揉まれたとは言え、それは私を守るためにしてくれた行動だし、うーん、やっぱりかっこいい。もうちょっとマシな行動もあったのかもしれないけれどやっぱりかっこいい。人を幸せにできるひとはかっこいい人だと思う。乳は揉まれたけど。

「えーっと、で、どうしたら許してくれるんだ……?」

 いっそ、いってやろうか。私と付き合ってくれたら許す、と。

「あれ、これどういう状況?」

 先生たちを引き連れてきた優莉が素っ頓狂な声を上げた。私もそう思う。なんで私は翔伍に土下座されているの。

 でも、このチャンス、逃すわけにはいかない。

「じゃ、じゃあッ」

 思い切ってやろうじゃないか。そうだ、どうせ高校生活はまだまだあるし、別に今ここで失恋したってあまり変わらないじゃないか。翔伍と会う回数が少し減るくらいで。

 チャンスはそうそう訪れないはずだ。ましてや私は殆ど話さないのだし、二人きりになることもまず無いだろう。

 だったら、人が居てもいい、今、今すぐにでも、気持ちを伝えて、それで、失恋してもいいから――


「翔伍…………好き……!」

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