2
土曜日、つまり翌日、私は昼過ぎに起きて、寝間着のままだらしなく過ごしていると玄関が開く音がした。誰かが来るなんていう予定はなかったはずだから、翔伍かその家族のはずだ。
匍匐前進で移動して玄関を見ると、浅黄さんが真ん中に居て、私から見て右に翔伍と、左側に先輩。それぞれだいたい丁度いい大きさの鞄を持っている。
「あれ、菫起きてるじゃん。なんだよ、寝込みを襲ってやろうと思ったのに」
「寝込みを襲うって……」
寝込みを襲うなどと物騒なことを言ったのは翔伍、ツッコミは浅黄さん。
そして何故だか知らないけれど、水泳に行こうと言われた。いや、別に構わないけれども、何故一応海に近いこの街でなぜプールなのか。
しかし私の心の叫びが伝わることはなく、半ば引き摺られるようにして市営プールに連れて行かれる。連れて行かれると言っても自転車なので殆ど私の意思で動いているのだけれど。
なんだかよくわからないけれどプールに到着。
「あ、そうそう、そろそろ菫って呼ぶね!」
更衣室に入ってすぐに浅黄さんはそんなことを言った。じゃあ私も、と言いたいけれどどうせ声は殆ど出さないのだから、別にかわらないと思う。でも、浅黄さんっていうよりも優莉って簡単に言ったほうが思考に時間がかからなくていいのでは……?
――ということで、私も優莉と呼びます。
私と優莉は奥のほうのロッカーに荷物を入れて、そこで着替えることにした。着替える途中ものすごい平たい何かが見えたけれど私は何も見ていないことにしようと思う。服を着ればそこそこに見えるし、うん。ふと気づくと優莉は私の胸部を凝視していた。平たく言えばおっぱいを凝視していた。別に平たく言っただけであって優莉が平たいとか言ってない。
「……ねえ、菫ってさ、パッドじゃなくてその大きさなの」
ワントーン低い声でそんなことを言ってきた。殺されそう。
逃げるように更衣室を抜けて、プールサイドに座る。後ろから殺気が伝わってきて、横に優莉が座る。少ししてから翔伍と先輩が座る。
「何故ここにみんなで来たのか、教えてあげよう」
先輩が徐に呟いた。横を見ると優莉がパッドを少し正していた。ここまで堂々と直すのなら別にパッドはいらないと思うのだけれど。そこまでモテたいのだろうか。胸ばかり気にする男の人と付き合うのはどうなのか……。
「僕たちがここへ来た理由はずばり、昨日のことだ。いたろう、あの、なんだっけ」
「坂本」
「ああそうだ、坂本だ。あれを上手くやり過ごすために、一芝居打とうと思ってね。奴は今日ここへ来ることになっているらしい。というわけで何をするかと言うと、恋人ごっこをする。」
何言ってんだコイツ。
「ちょっと、菫には協力してほしいんだ。幼馴染だし、いろいろとやりやすい。昔風呂にも一緒に入ったしな」
その情報は全然要らないと思う。
「たしか胸の間にほくろがあったよな」
その情報はもっと要らないと思う。横を見ると優莉がちょっと引いている。
しかし、いろいろと良くしてもらっている翔伍、そして私の好きな翔伍の頼みとあらば受けよう、恋人役とか最高じゃない。
「わかった」
と一言。今日初めて声を出した。
「おお! 本当か! ありがとう! じゃあ、先輩に脚本を貰ってくれ。といっても菫に台詞はない。動きだけしてくれればいいんだ」
ということらしいので脚本を受け取ってみたのだが、なんだこれ。
『後ろから抱きついてプールで運ばれる』
『胸を腕に押し付けて上目遣い』
なんだこれ。百歩譲ってプールを運ばれるのはいいとしよう。二つ目なんだ。というか、よくない。最初の二つから既にめっちゃ不純なのだが。しかも脚本っていうか箇条書きだし。せめてあの、なんかよくわからないけれどちゃんと脚本っぽく書いてくれればいいのに……。
というか、最近何か脚本みたいなのを書いているかと思ったらこれの脚本だったのだろうか。しかし、先輩が最近書いていた脚本はもっとしっかりしたものだった。
それとも、私には台詞がないからとりあえず動きだけ書き出しとけみたいなそういうノリで出来上がったのだろうか。なんかちょっと悔しいけれど、まあ、話さなくて済むのなら、それでいいけれど……。
「とりあえず、背負うぞ」
翔伍はそういって私の太ももに手を掛け――
いやまてまてまてまてまて、うん、あの、落ちついて、落ち着いて翔伍!
相変わらず心の声は伝わらず翔伍は普通に私を背負ってプールに入っていく。実は私、水が苦手だったりして。逃げようにも、全然逃げられなかったりして。
「あっ! おいテメェ! 何してやがんだ!」
どうやらやってきたらしい。坂本とかいう奴が。ざばーんと水の音。そして少し遅れて波がくる。思っていたより強い波でちょっとだけ振り落とされそうになったが、なんとか耐えて振り向く。
ものすごい形相で水の中をあるく坂本とかいう奴。いやもうそれだったら泳げよと思うのだけれど何故か泳がない。歩いている。
「来たか……」
翔伍がぼそっと呟いた。
「ああってめぇ翔伍の体にベタベタ触りやがってこの野郎!」
ちらーっと振りあがるこぶしが見えた。今度は翔伍も気づいてなさそうだし当たりそう。
案の定その拳は私の背中に当たり、私はそこそこ深いプールに落とされた。そこそこ深いと言っても私が立てば全然目は出るような深さなのだけれど、なんだろう、全然浮けん。こういうときは静かに止まっているとたぶん私くらいなら浮くのだろうけれど、身体が勝手にバタバタしている。あかん、これ、溺れそう。というか、溺れてるじゃん、これ。
でも、ゴーグルをしているからなんとなく男二人が何をしているのかは分かる。今更だけれど背中が痛い。殴られて既に殆ど空気は無いのに肺の空気はどんどん水中に出ていく。でももう少し水中に居ても大丈夫そうではある。男二人はとうとう取っ組み合いを始めたようだ。私も助けてくれると有難いのだけれど。でもやっぱり心の声は伝わらなくって、そもそも水中だから声を出しても伝わらないじゃないか。そろそろ身体が動かなくなってきて息苦しくなって、それで空気が無くなった身体は見事に浮くことはなくぺたーっとプールの底に横たわってしまった。
息苦しくて水を飲んでしまった。なんか、死にそう。なんだ、ただただ息苦しさに拍車をかけただけだったようだ。意識が遠のいていく。
水面から手が伸びて、私の腕を掴んで、ぐーっと身体が持ち上がった。ギリギリ意識が無くなる前に水から顔が出た。翔伍が私を抱きかかえるようにしているようだけれど、思いっきり胸のあたりで腕を回しているのがとても気になる。まあ、いいか。空気がおいしい。どうやら水中に入ってからそれほど時間は経っていなかったらしい。
「翔伍、お前もこんな女の味方かよ!?」
こんな女で悪かったですね。
「まあ少なくとも、平気で人に暴力なんか振るう奴の味方にはならないな。」
おお、やっぱり学校一のイケメンと言われるだけあるらしい。うん、好き。
ふと目をやるとプールサイドでは先輩と優莉がイチャイチャしていた。文字通り、イチャイチャしていた。先輩がパッドを指差して笑っている。少しくらい助けてくれてもいいと思うのだが。しかし、まさかあそこがデキていたとは。見なかったことにしよう。
「なんだ、こんな口開けばクソみたいなこと言いやがるクソ女、殴って何が悪いんだよ」
おっと、言ってくれるじゃないか。とはいっても、私はあの一度しかまだ口を開いていないわけで、分母が1で分子が1なら当然百パーセント。まあ、当然のことである。
「それに、絶対こんな女なんかよりも俺のほうがいい! 俺と付き合え!」
それについては私は何も言わないけれど、タイミングというものがあるだろう。自分に対して怒っている人に告白とはまた大胆なことをやってくれる。私もこのタイミングで告白したらオーケーしてくれそうだからしてみたけれど、全然声は出そうにないので、やっぱりやめておくことにする。
「悪いな、暴力をぽんぽん振る奴はお断りだぜ」
翔伍はきっぱりと断って、私のアンダーバスト的なところを持ってプールを歩いた。翔伍の腕に私の胸が乗っているけれど、これは、スルーで、いいだろうか。
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