第18場 変わる貌
——夢を見た。
俺は知らない。
山の春の梅の匂いも、生も死も燻した火の大地も。
その代わりに。
雨の匂いは知っている。
天を蹴る泥と地を貫く嘶きが矢のように飛び交って、それは人の形をしていた。
——雨の中に、幼い子供がいた。
浄化の雨の隙間を縫って真っ赤な血飛沫が額を濡らす。
ふと気づくと日常の角のほの暗い闇から、じっとこちらを見つめてる少年が。
荒れた砂漠のような太陽の黄金色を頭にいだき、くすんだ空色が口を開く。
あの日。記憶の箱を覗かないと約束した。
しかし蓋はあの時からずっと口を開けている。
「画を書いたのはこの俺だ」
呪詛を撒きながら。
降り行く雨の水滴は赫く燃えていた。
額を濡らす赤は熱に揺れる。
阿鼻叫喚が永遠にめくるめく地獄絵図。
里が燃えている。
周りが雨に燃えている。
忘れたい俺だけの記憶が死んでいく。
やめて。
——やめて。
逝かないで!
***
荒々しく扉が開かれた。
「!」
カルはがばりと起き上がった。
(夢……)
どくどくと心臓が脈を打っている。
——どこまでが自分の記憶で、どこからが彼の記憶なのだろう。
「セド! アスカの様子は! 」
トレントの切羽詰まった声に引き戻される。
フラウトの基地。
横になっていたソファから扉の方を覗き見た。
基地に入ってきたセドが腕で目元を拭い、「クソっ」と悪態をついて乱暴に眼鏡を外す。
ブーツと服は雪泥に凍み、鷹羽のような髪に霜が降り、肩にはアスカを担いでいる。
(……アスカ! )
彼女の姿を目に捉えた瞬間、カルの意識が覚醒した。
——カルはカフェで目を覚ました。
覚ましたというより、我に返った。
アリスによれば、カルはまた『ゲネプロ』の状態になっていたのだという。
確かにその記憶はあった。
そして、ある一言をカルが発した後、目の前からアスカが消え去った。
(梅を伐った……だったっけ)
あれは何を表していたのだろう。
ゲネプロ中は意味がわかっていたような気がするのだが、今になってみると夢の中の出来事のようで、どうも曖昧模糊として掴めない。
文字通りアスカは消えた。
影灼領域の中にいるのは確かなのに、どこにいるかわからない。
しかしアリスがそれを伝えた瞬間、トレントら三人の顔から血の気が引いた。
トレントは直ぐに彼女の捜索を始めた。
『アスカが役者になった上に——暴走した可能性がある! 』
それが数十分前のことである。
今であれば、彼らが真っ青になった理由にも納得ができる気がした。
セドに担がれ運ばれてきたアスカの状態は異常だ。
ぐったりとされるがままかと思えば、突然何かに抗うように暴れ出す。
モニカがテキパキとアスカの体に器具を取り付けていく。
「拒否反応は出てる? 」
「違う。多分、共鳴過多だ」
「わかったわ」
拒否反応? 共鳴過多?
先ほどトレントは彼女を『暴走している』と言ったか。
「共鳴指数五、七、八——エラー、境界消失」
(エラー……? どういうこと? )
あの器具でカルが共鳴指数を調べた時は、ちゃんと数値が出たはずだ。
カルも立ち上がり、声をかけようと手を伸ばした。
「アス……」
その時。
びくりとアスカの太ももが痙攣した。
瞳が、合う。
「————!! 」
脳髄を殴られたような勝解がカルを襲った。
ひどく掠れた唸りがカルを跳ね退ける。
咆哮。
これは威嚇だ。
聞いたこともない声だった。
触れたこともない気迫だった。
それよりも。
その瞳と、その全身で。
彼女は。
カルを拒絶していた。
「今は近寄っちゃだめだ! 」
アリスの声に我に帰る。
小さな影がカルの袖を掴んでいる。すがりつくに近い。
「アリス……? 」
「だめだ……だめなんだ……」
アリスの肩は震えている。
——一体、彼女の身に何が起こったというんだ。
何もわからないカルの目の前で、あまりに重要な出来事が淡々と流れていく。
「ペルソナ混濁、メタモルフォース、状態確認、固定せず変動中」
モニカが器具を操るのを聞きながら、アスカを担いだセドがカルの前を通り過ぎていく。
「何より境界分離と安定だ、けどその前に」
バキ、ボキ、と嫌な音がする。
「こいつの場合は拘束と鎮静が先だぜ。この際どんな術式でも構わねェ。精神維持なんざこいつ次第——」
ガシャンとセドの背から金属音がした。
床に手錠が落ちた。
ぎょっとセドが焦りと怯えに近い顔に歪む。
間髪入れず、セドがアスカの腿に指で何かをなぞった。
短い術式が光ったかと思うと、びくりとアスカの背が跳ね、沈む。
「セド。下準備はしてある! 」
トレントが隣の部屋の扉を開いた。
「麻酔は? 」
「こいつに効くかよ」
「薬類は投与不可、物理的拘束も無理。属性術の領域でどうにかしましょう」
だらりとセドのマントに白い腕が垂れている。
猿轡から、たらり、と赤が滴る。
扉の隙間から、黄昏色の目が爛々と、カルを射抜いた。
***
一時的に記憶を再現することを『ゲネプロ』という。
例えば、カルがアスカと出会った時。
花屋で赤と黄色の花を買い、ホテルの屋上に行った。
あれがそうだ。
トクトクとポットへ落ちていくコーヒーを見つめながら、カルはアリスと二人、ただぼんやりとしていた。
キィと扉が開いて振り返ると、トレントが部屋に入ってきた。
「お待たせ」
椅子に腰を落ち着ける。
はめていた黒手袋を外して、彼はぐったりと肘をついた。
「アリス。大丈夫だとは思うけど、アスカとの共感覚は遮断してるよね」
カフェでカルは再びゲネプロを行った。
完全に役と同化していたのだが、意識は明瞭だった。
そしてカルが我に返った時、アスカはカルの前から姿を消した。
アスカを追うためにアリスが彼女の視界に侵入していた、というところまでは、カルはぼんやりと、夢と現の境界で耳にした気がする。
「当たり前だ。汝は——あんなものには耐えられぬ……」
きっぱり言ってからアリスがしゅんとうなだれる。
アリスはアスカの片割れだ、とだけ、カルはトレントから聞いていた。
共有出来るものは視界だけではないのかもしれない。
暫く沈黙が降りて、時計の針だけが規則正しく騒いでいた。
「汝は休む」
そう言って、アリスは部屋を出て行った。
「あの、アスカは」
「ああ」
カルが訊けば、トレントは椅子の背にもたれた。
ぼんやりとした瞳にはいつもの光は無く、混乱に濁っている。
「とりあえずは落ち着いたよ」
言いながら、尻ポッケから箱を出してタバコを一本咥える。目が醒めるような赤に黒い帯の走るボックスは端がひしゃげている。
「あー……ごめん、煙草吸っていい? 」
「どうぞ」
トレントが白いジャケットの裏からライターを取り出す。蒼い火が吸われて、煙草の先がじわりと身を焦がす。
新しいカップを出し、コーヒーを注いでトレントの前に置いた。
なぜカルが豆や諸々の在り処を知っているのか、と疑問を呈する余裕もないようだ。
「……」
時計の針が進む。
煙草の煙とコーヒー。扉の向こう、隣の部屋から時折漏れる、単語を聞き取ることのできない声の起伏。
「君にね、なにを、どう言ったらいいか考えていた」
紫煙の向こうでトレントがぼやく。
「何せ役者になった一般人に説明なんて、初めてだ」
「初めて? 領域には人が吸い込まれるのでは無いのですか」
咥えているというより、薄い唇に引っかかっている。
そんな煙草の落ちそうな灰にハラハラして、カルはセドの使っていた灰皿をトレントの近くに寄せた。
「大抵はね、俺らが領域に入った時点で、一般人から構成員へ役者を映すんだよ。そういう仕組みにしているんだ」
そこまで言って、トレントがやっと灰を落とした。
煙草を指に挟んでコーヒーに口をつける。
「君の役は他の人に移らなかったでしょ。よほど相性がいいのか——」
「……」
白い煙がふわふわと頼りない螺旋を描く。
「説明が初めてというのはそういうこと……一般人が役者になることはあっても、役が移動すれば問題はないし。もしくはこっちの話なんか分かんなくなってるくらいに、その役にハマってるか。そのどっちかだからね」
説明の必要も余裕もないのだろう。
「なら、俺は」
「多分、その一歩手前ってとこかな。共鳴指数が六十まで進んだら、領域も役者を離したがらなくなる。せっかく育てた人間を、仕事もさせずに手放したくはないでしょ」
「だから、あんな説明をしたんですか? 」
「……あれは、嘘では無いよ」
「でも」
「言葉の上では嘘では無い。でも、あの言葉を正しく解釈できる人間はおそらく少ない」
「トレントさん」
紅の瞳がカルを捉えて先を促す。
「役者というのは、どこまで役になりきるものなのですか? 俺は、なんだか、なりきった途端、俺は俺じゃ無くなる気がするんです」
だから今、俺は。
——どこまでが僕なのか、その境界が見えないんです。
「アスカは役者になった」
暫して唐突にトレントが口を開いた。
「今回の役者は君とアスカ、この二人みたいだ。その証拠に影灼領域のゲートが閉じた」
開幕の準備は整ったのだ。
「さっきのアスカ、ものすごく苦しそうでした」
「彼女のは『共鳴過多』だ。彼女にあてられた役と、アスカ自身の何かが共鳴しすぎてしまったんだろうね。役に振り回されてる。混乱した末の自失、忘我、そんなところだね。だから——アスカは君の前から姿を消した」
「それは……」
どういう意味だろう。
「君を守るためだ」
「俺を? 」
「君に対して何をしでかすか、わかったものじゃなかったんだろうなそれで咄嗟に君から離れた」
「——」
それはつまり。
トレントの言わんとするところを汲んで、カルは自分の腕を撫でた。
アスカの役は、カルを襲わんとする理由を持っている。
「役者は揃った。領域はこれから記憶の再生に向かってまっしぐらに準備を進めるよ。カルくん、君の役との共鳴も更に加速する」
空のコーヒーカップを撫でた。
「これからもっと、自分が自分のまま、違う誰かになっていく。——知らない他人が自分の体を使っているのなら、自分の意思と関係なく体が動くのなら、まだ諦めがつくんだ。でも影灼領域の役ってのはそうじゃない。いつの間にか自分って人間が変わっていくんだ。ここまでが自分、ここからが他人、という境界がなくなってくる。そして段々、自分いうものがわからなくなってくる。——怖いよ」
それは、とトレントが言葉を切った。
多重人格とは違う。
「だって、他人だと思っていた者に、自分がなっていくんだ。本来の自分じゃこんなことはしない——そのはずなのに、いつの間にか自分の意思も考えも嗜好も変わっている。自分がなくなる怖さがあるはずなのに、それすら感じなくなる。だって自分は自分だという自覚だけは、揺らぐことがないから」
「……」
「それが役者。そして俺たち領域対策部の執行員は、それでも『自分』を保つための訓練をしている」
アスカもだ。
その彼女が、あそこまで取り乱すということは、尋常ではない。
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