第19場 俺はカル、僕は——

訓練を受けているアスカでさえ、あんなことになる。

カルは知らず拳を作った。

汗で指が滑る。


「アスカによれば、彼女の役はね、カルくんの役を追ってカンパネラ駅まで来た人の役らしい」

「追ってきた人? 」

「うん。そして彼らは、どうやらアスカの昔の仕事仲間らしいね」


カルは首を傾げた。

昔とはどういうことだろう。

アスカはもともとフラウトの人間ではなかったのか。


「アスカはね、本来、東部地方に存在属性術団体の出身なんだ」

「存在していた、って。無くなったんですか」

「無くなってはいない。でも、殆ど形を保っていないようなものだ。彼らは数年前にフラウトの傘下に入ったの。壊滅と弱体化——フラウトが定義する『五属性術師団体』の定義すら失った状態でね。カルくん、君の役どころはね、その組織の裏切り者らしい」


裏切り者。

その言葉がナイフのように、自分の中の、どこか柔らかな肉の部分へ静かに刃を入れた。

アスカの瞳がまざまざと蘇る。

拒絶。

今まで、相対したこともない、感情を突きつけられた。

あの取り乱しようは、そういうことだったのだ。

カルは今、アスカにとって、仇敵だ。


「君の名前は? 」

「——俺の名前はカル」


俺はカル。

適正属性は火属性。

属性術は使えない。

影灼領域なんて生涯関係のない人間なんだ。

けれど。


「僕の名前はマモル」


そう、口にした。


アオイと書いてマモルと読みます。なぜなら、僕のコードが『カザシグサ』だから」


それはあまり自然な答弁だった。

カルは今、自分の中にいるマモルという人物について述べたのではない。

カルは、マモルだった。

不思議な感覚と言うには、

あまりにも恐ろしい。

ほの暗い闇が気配だけして、ただそこには何も無い。そういう恐怖。


「役者を降りる事もできる」


トレントは言った。


「ただそれは、君という存在に既に融合しかかっている役というモノを切り離す作業になる。あまりやりたく無い方法だし、苦痛もある」


それはそうだろうと思った。

何度も言うようだが、完全に二人の人格が分かれて存在しているのであればいい。

繋がっている場所を切ればいい。

けれどこれはそんなものじゃない。

二つの人格が、互いに融合しているのだ。

混ざり合ったものを分離させるというのだ。

それは魂を攪拌して、分離させて、それぞれの性質ごとに抽出していく事に等しいように、今のカルには思える。


「役をこのまま続ける場合と比べたら危険は少ない。例えば——そうはならないようにするけど、もし万が一記憶が再生された時、裏切り者の記憶なんてモノが、どんなものか知れたものじゃ無いからね」


裏切り者と、彼を追う組織の使い。

ああ、彼は死んだんだな。

そう思った。

なんの根拠もない。自分の中のマモルが語りかけてきたわけでもない。

裏切り者は死ぬ。

その方程式が、今のカルの胸には、しっくりときた。


「俺は、——」

「まあ、迷ってちょうだい」


トレントが、カルの言葉を遮るように立ち上がった。


「さてと、現実時刻は二十時だ。ご飯を食べて睡眠をとろう。胃が受け付けないかもしれないし、寝付けないかもしれないけど。何よりこの空間で生き延びる極意は通常の精神と肉体を保つことにある。食べて寝なくちゃだめだよ」

「トレントさん、続けます。俺、役者を続けます」


カルは机から離れるトレントを追うように立ち上がった。


「確かに、確かに役を降りることもできると言いますが、それってつまり、交代した人が領域を納得させなきゃいけないってことですよね。それって、そんなことできるんですか」

「……それをやるのが俺たちだよ、カルくん」

「だとしても、でも、」

「責任を感じてるなら筋違いだよ。カルくんに責任はない」


カルは唇を噛んだ。

そうじゃない。

そうじゃないんだ。


「——お役に立ちたいんです。それに、俺は、多分俺は、この役をやらなくてはいけないんです」

「……」


素直な言葉を吐露した。

トレントが机に腰をもたれ掛けて、ふうむと妙な声を出した。


「そうまで思われていると、役を剥がすのも厄介だなあ」


トレントはあくまでも、自分のことを『役者』として扱っているのだろうと、その口ぶりから考えた。

確かに、簡単に剥がせないところまできているからこそ、「自分でなくては」などと思うのかもしれない。

けれど。

ジャックの言葉が頭の中の壁を打つほどに脳裏を反響している。

昔の記憶。

雨の匂いと。

そして、

火の匂いが混じる。

知らず、組んだ指に力を入れた。ぶるりと体が震える。

雨の匂いは、カルの記憶だ。

そして火の匂いは、マモルの記憶だ。

——頭にすら浮かべることも嫌な記憶が、重なって、視える。

トレントが、ついでとでも言いたげに訊いた。


「……カルくんさ、俺たちに何か、言えないことでもあったりする? 」

「………」

「訊いても答えないだろうから聞かないよ」と少し悪戯げに口角を上げる。

「俺にできるのは今回の領域でそれが致命的な情報じゃないことを祈るだけだ。とにかく夕飯にしよう。俺たちも交代で寝ないといけない」


トレントがカンテラに火を灯す。

朝日の差し込む部屋が暗くなった。



すぅ、すぅ、と小さな寝息が聞こえる。

扉の向こうでは時折、物音と低い声が聞こえた。

真っ暗な部屋で、カルは寝袋の中でじっと目を凝らしていた。

瞼を閉じるまでもなく、暗闇は目に観た光を映すキャンバスになる。


めくるめく色鮮やかさで今日という一日が再生される。

セドの背中で力一杯に苦しむ肢体と、その瞳。

アスカの目。

カルは自分の腕を握った。

——悪意。

それは悪意だった。

直接的で、身包み剥がれた露わさで、どこまでもまっすぐで純粋な、それは悪意だった。


吐いた息が熱い。

暗闇の中で踊る遠い赤と闇が空気を暖める。

それでも冬の寒さは床に忍んでカルを足先を冷やす。

窓の向こうで、静かな雪の音がしている。

冷たい匂いがする。触れれば凍るような、突き刺すような冷たさ。

水の匂いだ。


——いやだな。


そう思った。

遠い昔、からずっと——。

カルの中では、雨が降っている。

土から匂い立つ夏の匂いがする。

紫陽花が群衆の向こうで舞っている。

自分の手のひらは小さくて、何もできない。

パチ、と音がして、真っ赤な薪が身じろぎする。

カルは寝袋の中で自分の体躯を腕に抱いた。


昔。

すごく小さな頃の話だ。

——カルは、影灼領域に吸い込まれたことがある。


けれどその時の記憶はあの時、唯一知っている自分の心に仕舞っておくことにしたのだ。

記憶の水底に沈めて、朽ちても残ることを知りながら、鉛をつけて。

だから、その過去は、だけにも言ってはいけないのだ。


そんなことを考えていたから、久方ぶりにあその時のことを夢に見た。

むかしむかし、幼き日の、沈んだ記憶。

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