第17場 僕は君で、君は僕
コーヒーの匂いと煙草の煙。
アスカは奥の二人席に腰掛けた。
食器の音と穏やかな会話の中にカフェの扉が鳴る。
入ってきたのはカルだった。
彼は迷いなくアスカの向かいの席に座った。
「コーヒーを一つ」
ウエイターにそう言って、待ち人の手が机に置かれる。
骨張った指と爪は黒いインクの跡に蒼く染まり、節には胼胝ができている。
古紙に晒され少しずつ削られた皮膚は乾いて白く、硬くなっている。
——カルの手ではない。
アスカは瞳を瞬いた。
インクの跡も、胼胝も、アスカの目には彼の手の特徴として確かに映っている。
しかしこの特徴はカルのものではない。
カルの手に上書きされた、
——ならば、この手の持ち主は。
「久しぶりだね。元気にしてた」
カルから発せられた声に、
驚いた。
(カルさんじゃ、ないわ)
目の前にいるのは確かにカルだ。
しかし彼は既に、アスカを前にして太陽のような笑顔は浮かべない。
彼は既に。
——役と同化してしまっている。
アスカは乾いた喉を潤して、なんでも無さそうに話を合わせた。
「そうね。最近どう? 」
「俺はこの前、太陽の社に行ってきたよ」
——太陽の社!
アスカは確信した。
カルがなった役は、そして記憶の主は、確実にアスカのことを知っている。
太陽の社。
それは梅ヶ丘の寺のことを示す。
アスカのもといた組織、『天狗党』を含む、東部の属性術師——特に組織間の『繋ぎ役』を勤める者同士が使う、暗号の一つ。
彼は。カルの役は、東部の属性術団体の属性術師だ。
アスカは表面上は落ち着き払って先を促した。
「太陽の社ね。なんのために? 」
「ほら、あそこって三本足の鴉を飼ってたろ」
すっかりカルの口調ではない。
この影灼領域の記憶の主は、少し砕けた物言いをするようだ。
——三本足の鴉。
(三つの宝具の話だわ)
三本足の鴉、すなわち八咫烏のことだ。
八咫烏とは神の遣いで王を導いた先ぶれの神霊。つまり『
そして梅ヶ丘の表の顔である寺には、『ミサキ墓』という変なものがある。
それで、八咫烏は太陽の化身と言われているから、梅ヶ丘の団体のことを、太陽の社と言ったのだ。
「あれね、いなくなっちゃったんだ」
「いなくなった? 」
カルの——否。
彼の役の言葉を、アスカは繰り返した。
奥義がいなくなる?
(梅ヶ丘の奥義——三つの宝物は、焼失したのよね)
そのことを言っているのか。
だが影灼領域は、当時、宝物の一つである刀が北八三区にあったことを、アスカたち領域対策部の面前に示したばかりだ。
(……待って。だとしてもおかしいわよ)
だって、この人物はその刀が北八三区にあることを知っていたはずだ。
梅ヶ丘の属性術師団体の、
それなのに『いなくなった』などと宣うとは、おかしいではないか。
(どういうこと?
矛盾している。
考え込むアスカを他所に、「それでさ」と彼は続ける。
「埋めてきて欲しいって言われてさ、六つの墓を建ててきた」
六つの墓。
一体何を指すのか。
そこまで考えて、アスカはコーヒーを啜る手を止めた。
——違和感を覚えた。
アスカが口を閉ざしているにもかかわらず、どうしてこうも、カルは一人でに喋るのだろう。
『カフェに来て』と連絡を入れ、アリスにカルを連れてこさせたのは理由がある。
フラウトに来る前。
アスカの元居た組織では、外部との通信はカフェで行っていた。
組織に連絡を取りたい者は、アスカら
だからこそ、東部地方の元同業がカフェでアスカを目にすれば、何かしらの刺激になると思ったのだ。
要するに、やっていることはジャックと一緒。
カルの中から、『役』を引き出そうとしている。
彼を役に近づけようとしている。
アスカは口を開いた。
「話の途中で申し訳ないけど、私には何の花が似合うかしら」
一瞬、カルの瞳がブレた。
「向日葵、畑、にっ……隠してきたんだ」
まるで壊れたレコードのような声。
アスカはカルの瞳を見て瞠目した。
——これは。
途切れた会話が元に戻る。
ふ、とカルの額に穏やかな微笑みが浮かんだ。
「うん、贈り物にしようと思ってる」
——これは、単に役と同化しているわけじゃない。
(ゲネプロだ! )
カルの後ろでカフェの扉が開く。
息を切らせたアリスが肩で息をしていた。
「アス——」
カルとアスカの雰囲気に、ただらぬものを感じたのか。
叫びかけて、アリスが自分で口を塞いだ。
目配せをする。
アリスは心得たと示す代わりに喫茶店の隅に身を寄せ、じっとこちらを伺った。
「あの子も、もう直ぐ成人だからね」
カルは変わらず会話を付けている。
これは『ゲネプロ』。
つまり、記憶主はこのカフェで、誰かと会話をしたのだ。
(相手は……相手は誰だっていうの)
アスカの頬が硬直している。
——だって、
——
青い瞳は慈愛に満ちている。
「もうすぐ春か。きっと梅が綺麗なんだろう? 」
梅?
突然の閑話休題。
しかし次の言葉がカルから流れてこない。
顔を上げると、アスカの方を見てきた。
「え——私? 」
思わずアスカの口からこぼれ出た。
「僕の前にいるのは君だろう」
会話が成立している。
よく見ると、カルの瞳は少し正気を帯びている。
——ゲネプロは終わったということか。
(でも役との同化具合は変わらないわね……)
そもそも、カルは自分のことを『僕』とは言わない。
カルの一人称は俺。
でも記憶主の一人称は僕だったのだろう。
コーヒーに砂糖を入れてティースプーンで溶かしていく。
舌に浸せばほんのりと人肌に緩い。
それしても梅が綺麗、とは何のことか。
(うちの梅のことかしら——)
まあなんでもいい。
答えはひとつだ。
「今は桜が見頃ね。梅は焼き枯れたの」
梅とは先代頭領のこと。桜は現頭領のこと。
先代頭領は、山火事の一件で命を落とした。
カルはそっか、とのんびり言った。
「違いない。僕が伐ったのだから」
え?
ぱたぱた、と、喉にしぶきが飛んだ。
アスカの視界が、晴れた。
机の上の男の手には、カルの手にあるペン蛸など無かった。
もっと浅黒い手のひら。
——そこにいるのは、誰?
殴られた視界の、熱に滲む色彩に。
逆光で笑む男は金ではなく、はたして黒だった。
「それに約束の品は届いてるはずだよ。梅の樹の根に置いてきた」
熱がまぶたを潤して、
叩きつけられた視界に落ちてきた。
アスカの目の前に居るのは、黒髪の短髪、フロックコートに山高帽。
手には指輪が左に二つ。
銀縁の眼鏡の奥は、琥珀を溶かしたような夕焼け色の瞳。
「そうだろ、アスカ。僕の大切な後継者——」
声が遠い。
水の中で話しているように潜っていく。
瞼の裏は赤かった。
いつまでも夜の闇は赫く爛れて、見えない舌が肌をなめては芯を妬く。
僕は君で、君は僕。
——嗚呼。
私はこの男を知っていたのだ。
この影灼領域は、
私はずっと、自分の故郷を焼いた男の記憶の中にいたのだ。
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