第16場 再会は煽惑の蜜

「なんだこれは……! 」


アリスが震えている。

目の前では賑やかな音楽とともに、豪奢な枠の中で小さな人形たちが踊っていた。

アリスの周りには同じような外見年齢の子供たちが群がっている。

紙芝居屋ならぬ、小さな人形劇場だ。


「おいカル! ちょっと見ていくぞ! いやっ……こ、これは仕事だぞ! こういう物にもだ、ほれ、記憶を再生するという、なんだ、概念的なアレがだな! 」


そうまくしたてて、アリスは胸を張った。


「なんかそーいうのがあるんだっ! 」

「夢と同じで? 」

「そのとーりだ! 」


いいこと言った!!

と言わんばかりにビシッと親指を立てると、アリスはぴゅーっとそちらへすっ飛んで行った。

すっかり魅入ってしまっている。

その姿は外見年齢の年相応というべきか。

そもそも精霊に歳はあるのだろうか。

謎である。


カルは人形劇に夢中になるアリスの後ろ姿を眺めながら、ふと、人形劇のおもちゃ屋の隣、薬局の煉瓦造りの建物につま先を変えた。

薬局と、そのまた隣のパン屋との狭間。

ひょこりと顔を出すと、じめじめとした暗がりに苔が生えている。


「……」


カルは狭い路地に入った。

さくり、さくり、ほとんど荒らされていない白雪を踏みしめる。

路地の突き当たりで、煙草の煙が雪の匂いの上に螺旋を描いていた。


「こんなところにいらしたんですね。ジャックさん」


にっこりと。

煉瓦の塀の上に腰を下ろした紳士が、煙草を挟んだ手を上げた。


「やあカル君。元気にしてるかい」

「おかげさまで」


首をすくめた。

一日ぶりのジャックだ。

カルにはジャックと別れた時の記憶が無い。

彼からしてみれば、突如失踪した人間との再会であるはずなのだが、あまりにも彼の態度に変わりが無いものだから、カルも普段通りでいるしかない。

違うというのなら、ジャックの指先に挟まれたそれだ。


「煙草、吸われるんですね」

「いや? 俺はそこまで好きってわけじゃない」


ジャックは指に挟んだ紙巻を示した。


「ただこれは、焚いていたくなる」

「焚く……? 」


ジャックは白い煙草のソフトパックをこちらに見せた。


「死んだ友達の飲んでたヤツでね」

「はあ」


それはそれで、カルはなんとも言えない気持ちになった。

死んだ友達へ想いを馳せるきっかけを、煙草の煙に託しているのだろうか。

ジャックはカルの反応を見て愉しそうに笑っている。


「どうだい? カル君」


煙草が差し出される。

白い箱から飛び出た明るい茶色のフィルターに、指を伸ばす。


「結構です」


きゅ、と煙草を押し戻した。


「おや、残念だ」


さして残念そうでなくジャックは煙草を胸にしまった。


「ちなみに今頃、セドも飲んでいるんじゃないかな、この煙草銘柄

「セドさんが? 」


そういえば彼らは知り合いだったか、と思い出す。

知り合いであれば、愛飲する煙草の銘柄も知るようになるのだろうか。

そしてジャックは言った。


「それで、どうだい?

「気付いてたんですね。俺が『役者』になったって」

「当たり前さ」


煙の向こうで笑っている。


「俺は……共鳴指数が六十を越えました。記憶の再生も、近いんじゃないでしょうか」

「そうだといいな。でも領域はまだ

「閉じていない? 」

「影灼領域は、記憶の再生への準備ができるとゲートを閉める習性がある。劇が開幕したら客席の扉を閉めるだろう。あれと似ているね」


ならば、まだ影灼領域は再生の準備が整っていないということだ。


「他に何か必要なんでしょう。舞台も整って、役者もここに居るのに」

「舞台がまだ舞台が完成していないか、観客が入りきっていないか。それとも役者が揃っていないか……。とにかく、まだ上演できる状態じゃないんだろう」


これ以上、役者がいると言うのか。

それこそ冗談だと笑いたくなる。

(——役者)

ふとカルは顔を上げた。


「そういえばジャックさん、俺、疑問に思っていたことがあるんです」

「なんだい」

「どうして俺が役者に選ばれたんでしょう。俺でなくても、他にも人はいくらでもいたはずですよね」

「何故そう思う」

「トレントさんから聞きました。この影灼領域に吸い込まれた一般人は俺だけじゃなかったって」


「そうだな……この俺とたまたま会った人間が、君だったからさ」

「——」


煙の向こうで笑っている。


「カル君、あんたの役に関して、あんたほどのハマり役はいないさ。自信を持つがいい」

それは自信を持つことなのだろうか。

そもそも、何の根拠で『ハマリ役』などと云えよう。


「だから、俺を、役者から引き離せなくなるまで育てたというのですか? 」

「そういうことさ」


「いつからです。いつから、俺が役者になるとわかったんですか」

「さて——」

「最初からですか」

「あんたが領域に入ってきたのが最初というのなら、最初からだ」


ジャックがけろりとして宣う。

カルは思わず額に手を当てた。


「それはまた…人が悪いではないですか……」

「悪いものか。だって俺は観劇が趣味なんだから」

「それならしょうがないですね」

「そういうことだ」


「役者は、領域の中に居るだけで、役に性格が近くなっていくと聞きました。それって、どういうことなんでしょう。俺にはまだ、実感がわかないんです」

「人によるだろうな。だってカル君——役者になるというのはつまり、なんだよ」


変身。

一つの単語が、カルの記憶の中から芋づる式にいろいろな言葉を釣り上げる。


「——俺は、再生が終われば元の俺に戻るんでしょうか」


カルの言葉が、煙草の先の灰と崩れて雪を汚す。


「人というものが『変わる』と云うのは、とても普通のことだ。そして簡単なことだ。だから変わらないものはないし、そして変わっているものもない」


そう言っていつもの通り、ジャックは煙に巻く。


「そういう意味では、君は心配しなくていいんじゃないかな」

「そういうものでしょうか」

「こだわるね」

「いえ別に——」

「心の芯から共鳴した相手への思慕……という夢から覚めなくなってしまうのが怖いのかい」


自分が果たして領域の望み通り『役』になったとき、その他人の人格から元のカルという人格にちゃんと戻れるのか。

それが不安ではないのかと聞いているのだろう。

不安だ、と言おうとして、カルは口をつぐんだ。

モニカはちゃんと戻れると言ったじゃないか。


ふふ、とジャックが笑った。


「ねえカル君」


煙草の煙の曇りガラスの向こうで、橙色の灯が微笑んだ。


「あんた、前にも領域に来たことがあるね? それも、そうだな。その時あんた、役者にでもなったんじゃないか」

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