第2幕 月

第12場 役者

 セドは宿屋の屋上に降り立った。

(役者——カルが飛び降りた宿ってのは、ここのことか)

 つまりここが。

 今回の影灼領域の、記憶主の泊まっていた宿。


 内側への扉を開ける。

 磨りガラスに濾された薄暗い陽の中に、階段が降りていた。

 後ろから付いてきたアスカが、セドの前に出る。

 アスカが階段を駆け下り、身軽に階下へと躍り出る。

 ——一切の音なしに。

(誰もいないようだな)

 アスカの合図にセドは階段を下り始めた。

 石造りの安宿に、男一人分の足の音が高く響いて螺旋する。

 それは奇妙な風景だった。

 呼吸と、足音と、何かの気配。

 階段にはセド一人分の音しか存在しない。

 目の前で人間が動いているというのに、アスカからは全くその気配が感じられない。風か、空気か、そういったものと同じと言われた方がまだしっくりくる。


 宿は三階建て。

 一階は食堂とロビー、フロント。二、三階が宿だ。

 一本の廊下の左右に三つずつ。薄い木の板で仕切られた扉が並んでいる。

 宿の中は静かだった。

 やはり、人の気配は無い。

 いるはずの従業員人形の姿もない。

 今回の影灼領域において、出来る限りの精巧さを保っていたことを考えると不自然である。

 ある意味では敵の本拠地だ。注意するに越したことはない。

 三階の客室回廊に降り立ち、手前の扉をアスカに示す。

 扉を挟むように移動して、セドはまず一つ、扉に手をかけた。


  —— ◆ ——


「……そんなわけで、気がついたら影灼領域に迷い込んでいました」

 コーヒーの香ばしい空気。

 カルは領域に入ってからの一部始終を、トレントと名乗ったフラウトの構成員に話していた。

 呆然としているところをアスカに連れられ、——正確には、年下の小柄な女子に担がれ生身で空を飛ぶように建物の上や隙間をかい潜るという稀有な非・自由落下体験をし——辿り着いたのは駅の隣の時計塔、その一室だった。

 当の少女は長身の男と共に例の宿屋へ調査に行ったそうで、今この場にはいない。

 その男について、カルは一目見て直ぐにその名を察した。

 なんたる偶然か。写真の主、カルのお迎え係。セドだ。

「カンパネラ駅に居たのに、気がついたら領域の中で。ジャックさんが声をかけてくださったので一晩お邪魔しました」

『針探し』については口にしなかった。

 フラウトを謀るつもりなど無い。

 ただ、自分の口からその単語を出すには、一宿一飯の恩がカルの後ろ髪を引いた。


 カルの指をクリップのような器具で挟み、隣で何かを計測していたモニカが声をあげる。

「共鳴指数、検出されたわ」

「どのくらい? 」

 トレントが訊く。

「共鳴指数六十% 」

(共鳴指数? )

 器具に取り付けていた黒い石を取り外す。

 一瞬、魔法陣が瞬いた。

「六十% ねえ」

 そう呟くトレントの顔が渋い。

「それって、どういうことなんですか? 」

「んーと……——」

 トレントが机の上で組んだ指をすり合わせる。

 フラウトの制服の黒い手袋が長い指に皺を寄せた。

「共鳴指数っていうのはね、あなたと、あなたに割り当てられた役の融合率のことよ」

 彼の代わりにモニカが口を開く。

「融合率……ですか」

 どきりとする。

「ジャックはあなたに、記憶の再生は『人形劇のようなもの』……舞台措置は『領域そのもの』でストーリーは『記憶そのもの』、舞台上で話を進めていく『役者』は『領域の作った人形』だと言ったのよね? 」

「はい」

「あながち間違っていないわ。でもね。記憶の中の主要な登場人物に当たる役には、人間を素材に使うの」

 それが、本当の意味での『役者』よ。

 モニカはそう言った。

 人間を、使う。

 その言い方と言葉に、目の前がくらりときた。

「どうして人間が……」

「領域についてはまだわかっていないことが多いから、なんともいえないのだけれど——」

 モニカはそう前置きした。

「フラウトの定説ではね、記憶を物語として捉えた場合、端役にもならないガヤであれば、領域の生成した機械人形でも対応できなくもない。でも、メインの人間はそうはいかない。いくら影灼領域が生成に優れているからといって、複雑なところまで作り込むには骨が折れる」

「なら、人間を使ってしまえ、と? 」

「そういうことね。でも人間を使う場合は人形と違って、その人をその役に仕立て上げなきゃでしょう。その時に、影灼領域の生成力が作用するの」

「生成力、ですか」

 街一つ、精巧な人形——人間と見紛う自動人形を作るほどの、生成力。

「影灼領域には『生成する』っていう特質がある。これは体質みたいなものね」

 ジャックの言っていた結界的構築定義と言うやつか。

「じゃあ、領域は人間を役者に仕立て上げる時ですら、……」

「身も蓋もなくいえば、そういうことだわ」

 自分で口にして、寒気がした。

 要は人格の上書きだ。

 もしくは変形。

「影灼領域はね、人間を役にようとするの」

「似せる? 」

「そう。『役』が割り当てられる役者になる、と言ったって、要は『他人になる』ということでしょう」

 他人を他人に仕立て上げる。

 口調、性格、言動、嗜好、そう言った『人格』を構成するすべてを真似させる——つまり、似せていく。

 最早、洗脳に近い。

「他人に——なるんですね」

 カルは追いつかない心で、ぼんやりとつぶやいた。

「……そうね。本来、領域内で『役者』になった一般人に、このことは言わないのだけど」

 それはそうだろう。

 抵抗できず他人に成り替わるなど。

 あまりにも。

 怖い。


「——カルくんは、領域に入ってきてから、前の自分と変わったな、って思うことはない? 」

「変わる……」

「例えば自分の嗜好、趣味、行動——好きな飲み物や普段の癖」

 カルは領域に入ってから今までの行動を思い返した。

 目を落とした白いコーヒーカップの中で、底の知れぬ黒が水面に金糸の髪を写している。

 ブラックコーヒーを好んでいたはずの口の中に横たわる甘みが、この中に砂糖が入っていることを報せていた。

 そして今、この舌は、むしろ更なる甘みを欲している。

 ——一面の雪景色に迷い込んだばかりの頃。

 寒空の下のテラスで、カルはジャックに砂糖を勧められた。

『砂糖は? 』

『大丈夫です。甘いコーヒーはあまり得意ではないので』

 それは、真実であったはずなのに。

 影灼領域に入るまでは。

 なら、この舌にある甘さへの執着は。

 カル自分ではなく。

 自分カルの中に入り込んだ、自分誰かの嗜好。


「カルくんは今、影灼領域に役者として選ばれている。だから今のカルくんには、割り当てられた『役』の——記憶であるとか、人生であるとか、そういうものがカルくんの中に流れ込んできている状態なのね」

 逆にいえば。

『役者』になれば、記憶の登場人物が、どんな嗜好を持ち、どんな性格で、どんな人物なのか。

 ひいては影灼領域が再生する記憶はどんなものなのか知ることができる。

「さっき、カルくんが宿から飛び降りたわよね」

「あ——はい」

 いつの間にか花を手にして、宿の屋上から飛び降りようとした一連の行動。

 アスカに助けられる直前まで、カルには無意識の行動であり、つまり、日常で街を歩くのとそう変わらぬ感覚だったのだ。

 そういえば、モニカはまさにその通りと頷いた。

「あれはまさに、記憶の内容そのものね」

「記憶の……」

「私たちの言葉で『ゲネプロ』と云うの。役者となった人が起こす通常の反応なのよ」

 ゲネプロ。

 劇本番再生へのリハーサルということか。

「私たちは普段、領域でわざと役者になるの。そうすれば手っ取り早く領域の情報を集められるから」

「た……大変ですね。あのゲネプロを毎回やるなんて」

 モニカが笑った。

「実はね、ゲネプロは初心者が起こす反応なの。私たちは訓練しているから自分で抑制できる」

 なるほど。


「俺は今の所、あまり、『自分が役者になった変わった』なんて自覚はないのですが——」

 唇が戦慄く。

「俺は、

 モニカはにこりと笑った。

「もちろんよ。領域が崩壊すれば何もかも元通りよ」

「——……そう、ですか」

「私たちなんて、領域に入れば毎回のように『役者』になっているのだもの。だってそうしなければ、情報が得られないから」

 フラウトの領域対策部。そう名乗った彼らは、班長のトレントを除き、フラウトの制服を脱いで私服を着込んでいた。

「でも私たち、無事でしょ? 大丈夫だから、安心なさい」

 ほっとした。

(ジャックさんの話を勘ぐりすぎてたな)

 仮装、そして変身。

 外見だけを飾り立てる仮装と違い、変身とは身も心も変わることをいう。

 それをつい、影灼領域と結びつけてしまった。

 だから自分ではない誰かに仮装するのではなく、変身してしまったら。

 もう昔の自分には戻れない。

(『役者』になるってのは、そういうことじゃないんだ。現にフラウトの人たちは役者になっても元の自分に戻ってる)

 だいたい、あの話は哲学の話だったんだ。

 机上の空論、科学の文学だ。


「それに何かあっても大丈夫よ。万全を期して、一般人が役者になった時はケアを受けられるように、フラウトが手配を行う事になってるの。人によってはテンパっちゃって怪我とかする人もいるのよねぇ。領域は災害としてカウントされるから保険が効くわよ」

「さ、災害……保険……」

 カルは先ほどトレントから貰った名刺を思い出す。

 領域対策部は災害対策課にあるらしい。


 しかし領域の情報を得るために役者になるとは。

 お仕事も大変だ。カルは胸中で呟く。

「情報を得る——……あっ、そうか、あなたたちも『針探し』を」

 言っしまってから口を押さえる。

 時すでに遅し。

 くす、とモニカが微笑んだ。

「そう。ジャックと目的は違うでしょうけど」

 カルの肩の力が抜ける。

 どうやらジャックたちが『刻憶針』を探していることはバレているらしい。

「俺たちが刻憶針を探すのはね、一言で言ってしまえば安全のためなんだ」

 トレントがコーヒーをすする。

「最悪を起こさないための防止策、と言ったほうがいいかな。影灼領域の記憶の内容は、大概は毒にも薬にもならないような他愛もないものだけど、全ての記憶がそうと決まったわけじゃない。記憶の内容によっては危険な領域もあるからね。どうせなら再生なんかさせない方が安心でしょ」

「刻憶針を探して、領域を解体する。それがフラウトの領域対策部の仕事なのよ」

 刻憶針を探すには、影灼領域の大元である記憶の内容を知るのが先決だ。

 ジャックはそう言った。

「刻憶針を探すために、俺たちは役者になるんだ」

「そうして情報を集めて、領域のことを知っていくの」

 ——うん? てことは……。


 トレントとモニカの話に、カルはふと妙な胸騒ぎを感じた。

「そのために、カルくん」

「はいっ? 」

 改まって自分の名前を呼ばれ、カルは背筋を正した。

「君の力が借りたいんだ」

「えっ」

 いや、えっ、ではないだろう。カルは自分に心の中でツッコミを入れた。

 話しの流れで予想はつく。つくが。

「お、俺がですか」

「うん」

 自分を指差す。指先が震えている。するとトレントが神妙な顔つきになった。

「突然言われても、という気持ちはわかる。特に今回は、まあ、ここに来るまでの状況が状況だったしね」

 ちょっと待て。ちょっと待て。

 カルは頭の中で叫び出し脱兎のごとく部屋の扉から走り出したい気持ちに駆られた。

「あの、あの……」

「——ゆっくりでいいよ。突然現れて協力してなんて言われたって、びっくりしちゃうでしょ」

「そ、それはいいんです。そんなのは」

「え」

 思い切って顔をあげると、虚をつかれたようなトレントの顔があった。

「俺が言いたいのは——そんな大役が……俺に、務まるんでしょうか……」

 というか、務まるんでしょうか、ではない。

 務まるはずがない。

 無理だろう。

 ——逃げたくなった。

「俺……一般人ですよ? 本当に。確かにフラウトの準構成員ではありますけど、五星院の学生ですよ? いや五星院ですけど、ほら、結局五星院なんて実技系じゃないじゃないですか。どこの門下にも所属してないし、いや所属してるやつもいますし俺も書類上はラファンデイル門下ですけど、実技訓練してないから術式基盤も整備されてないですし、だから一般人と同じレベルでしか共鳴しかできないし」

「あー落ち着いて」

 濁流のように流れ出す言葉の波を喉の奥で堰き留める。

「そういうのはこっちの仕事なんだから、カルくんは気にしなくて大丈夫。でも、協力してくれる、ってことでいいのかな? 」

「それは、はい」

 なぜそんなことを改まって何度も聞くのだろう。

 カルは当然のことを聞かれて戸惑いすら覚えた。

 しかし何故か、目の前のトレントという男はそれでは納得しないというか、戸惑っているというか、むしろどうしたらいいかわからないような顔をしていた。

 なんだか心配になってきた。

「俺、なんか、こう、色々と理解してなさそうですか……? 」

「そういうわけではないけど」

 パッと机の上に水盤が表示される。

『トレントは』

 と、凛としたアスカの声が挟まれた。

『どうして簡単に我々を信用することができたのか、と言いたいんです』

「ちょっ、アスカ!? 」

『カルさんには悪く思いますが、カルさんの立場からしたら夢売りに騙されたようなものでしょう。その直後に見知らぬ他人が、それも直前まで自分を匿っていた人間はあなたを騙していた……なんて言い出す人間が、自分たちに協力しろと声をかければ、警戒もしたくはなるだろうと。トレントはそう危惧しているのでしょう』

 アスカはどこ吹く風とスパスパ言葉で捌いて見せる。

 がっくりとトレントがうなだれた。

 なんだ、そんなことだったのか。

 心配されていたのだ。

「一応、公的機関だから、というのもありますけど……」

 カルはどういえばいいかわからず、一つ一つ言葉を選ぶように言った。

「だからと言って、お役所だから信頼してる、とかそういうわけでもなく。俺は、この領域のことは全然知らないんです。ですから、どんな場合でも、俺よりわかっている方がいるなら、その方に従うのが一番いいんだろうと、俺は思っているんですけど……」

 微妙な空気が流れた。

(あれ、俺なんか間違えた!? )


 その空気を壊したのはセドだった。

『おい、悪ィけどいいか』

 水盤の中、アスカを押し出してセドの顔が映される。

『宿に入って調べてンのはいいんだけどな、全部の部屋に鍵がかかってて入れねえ』

「泊まっていた部屋の目星は? 」

『無理だな。どれも属性力は似たようなモンだ。試しに建物の解析と、扉の解析をしてるが時間はかかるぜ。壊して突入してもいいんなら、話は早いけどな? 』

「穏便に行ってください。——了解だよ。セドはそのまま解析をお願い。あと、アスカを借りたいんだけど」

『わかりました。今行きます』


 そう言って通信が切れてから、息つく暇もなくアスカは姿を現した。

「さてと。早速で申し訳ないんだけれど、カルくんには情報収集に行ってもらいたい」

「情報収集、ですか」

「うん。でも身構えなくても大丈夫。アスカと、それからアリスをつけるから。実質的な仕事は彼女たちがやってくれる」

「アリス……? 」

 知らない名前に首をかしげると、トレントに「そのうち来る」と言われ、さらに謎が深まった。

「アスカも私服に着替えたほうがいいんじゃない? 」

「わかりました」

 モニカの言葉に頷き、アスカが隣の部屋へ移動した。

「あ、アスカちょっといい? 業務連絡」

 アスカを追いかけてトレントも姿を消す。

 パタンとドアが閉まってから、カルはモニカを振り返った。

「……あの、アリスってどなたです? 」

「かわいい女の子よ」

 モニカがにっこり笑う。

 そういうことではない。

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