第11場 SALUT, MA "PROSOPON"

うだるような暖炉の熱と、篭った冬の眠った空気。

アスカは本と本の間から一冊の古い洋書を手に取った。

飴色の革と閉じ紐の浮き出た背表紙。

剥がれた箔押しの表紙をめくる。

黄ばんだ羊皮紙の柔らかさの中央にくっきりと、似つかわしく無い長方形がくりぬかれていた。

中で、蝋燭が火を灯して揺れていた。

(やられた)

この炎は属性術での演出。

モニカの『口付け』を消した時に、属性術を解析したのだろう。

似たような属性術の痕跡をこの本に残した。

これはダミーだ。

──やはりジャックは、トレント班の構成員をよく知っている。

(どこから情報が漏れたのか……)

それよりも、だ。

(カルさんは、どこへ行ったの)

カンパネラ駅の西口近く。

市場の隣の雑貨店街に並ぶ新書専門店。

新しい印刷物の匂いと木の棚の中で、アスカら右手を握りしめた。

役者候補の金髪と、白髪に揺らぐ橙が、脳裏で先の蝋燭の火と重なる。

「……っ」

アスカは踵を返した。


***


街を行く。

この街は、薄いな、と、思った。

色だろうか。

商店街は朝ということもあり人通りはまばらだ。

まだ眠ったままの店を抱える大通りは薄い色で塗り固められていて、花の無い花壇と木枯らしに震える木々は、街の彩度に寒々しさを更に増していくように見えてくる。


雪の中を行く。

さく、と白雪と泥が靴の下で音を立てる。

顔を上げた。

曇天は薄く、空の遠くの方でどこまでも伸びている。

街の遠影と曇天の狭間、山の硬い輪郭が影を落としている。

思わず、ああ、と、声にならないため息が漏れた。

あんな山は今まで知らなかった。

崖と砂塵と枯れ草の、蹄でなくては駆け上がることの出来ないような山は。

その姿に緑の黒々とした山を重ねようとして、思わず下唇が戦慄いた。

ここ一年、露わな山肌しか見ていない。


角を曲がる。

雪と灰色の視界の隙間。

開店前の店の中の暗がりに、色彩が落ちている。

花屋が店を開けて雪をかいていた。

その中に見知った形を見つけて、思わず足を止めた。

「あら、西部地方の方? 」

窓ガラスに映る自分の金髪の向こうで、小さな老婆が顔を出す。

「色んな地方の花があるんですね」

「うちはそれが売りなのさ」

街の中心であるカンパネラ駅が改築されると聞く。

あと数年したら交通網とともに文化の交わる都市になるのだろう。

けれど、今この街はまだ。

少し中心から外れるもののセントラル内で安く泊まれる小さな町。

個性的な街に周りを囲まれたせいで、元からある程度有する交通網の割に、宿屋しか繁栄しなかった。

けれど逆に言えば。

ここは歴とした、宿の街だ。

「お店は結構長く出されてるんですか? 」

「うちは革命のずっと前から続いてるんだよ。世界大戦の時に建物は焼けたけど、それでも此処でやってきたのさ」

花屋の老婆は言った。

世界大戦とはまた、大昔の話をする。

「周りに花屋も無いしね、他の花屋といえば、隣の地区まで行かなきゃならなくてね」


真っ赤な花を包んで貰った。

「お客さんは旅行かな」

「ええ。よくわかりましたね」

荷物も何も持っていないのに。

全ては逗留先に置いてきた。

「わかりますよう。お仕事ですか? この花は贈り物? 」

「いえ。綺麗なのでお土産にでもしようと思って」

「じゃあこれからお帰りになるの」

「はい。仕事が終わったので」

そう口にすると、なんともいえぬ清々しさが胸に去来した。

冬の朝の、今よりあともう少し早い時間。

陽が昇る直前の空気と同じくらいに。

そのあとも老婆と他愛の無い話をした。

ふと、視界の隅を掠めた小さな黄色に視線が吸い込まれた。



泊まっている宿屋の屋上で手を伸ばす。

薄い綿のような寒空と街並を割る峰の影に、買った花を挿してみた。

艶やかな張りのある厚い葉に、手のひらほどの丹い花。

椿だ。

——なんて懐かしい。

こうべを垂れた丹い華の花弁の御簾の影で、山吹色のかんばせが恥ずかしげにうつむいている。

コーヒーをすする。

香ばしさと甘みが舌に渡る。少し砂糖が足りないと思った。

丹い花を置いて、黄色い花を取り出した。

属性術の応用された包装で、透明な泡沫の中に黄色い花が咲いている。

まるで箱庭だ。

「さて、と」

コーヒーを飲み干して立ち上がる。

「残りあと二つ、か」

伸びをして街を見下ろす。

薄もやの中に銀世界の街並みが広がっている。

次はどこに行こうか。

どうせまだ時間があるのだし、暇なのだ、観光にでも行ってしまおうか。

端へ足をかけると、



***


 ふわ、と体が浮いた気がした。

「——あれ」

 そのまま時が停止した。

 白い雪の街並みと、遠くの山並み。

 曇天が空の遠くで広がっている。

 ——あ。

 ——墜落する。

 そう思った。

 天はどこまでも遠い。

 街並みはひとときも足を止めず目の前を過ぎ去っていく。


 ——どうして隣の建物まで飛べると思ったんだろう。


 と、呑気に考えた。

 落ちていく。

 落ちていく。

 曇天の空に浮遊して。

 北の町並みに。

 墜落する——。


「見つけた———っ! 」


 ガクンと体の節々がばらけたような衝撃がした。

 パラパラと薄暗い足元の向こうに雪が落ちていく。

(え———……)

 首に力を込めて天を仰いだ。

「やっと捕まえましたっ……! 」

 ぱた、と。

 鷲羽のような雪が一つ。

 カルの頬に着陸した。

「カルさん。あなたはすでに役者になってしまっていたのですね。この、影灼領域の」

(役、者……?)

 真っ黒な烏が雪の後光を含んでいた。

 落ち行くカルの手を掴んだ、黒い鳥。

 瞳は黄昏の色。

(女の子——?)


 ふわ、とカルの体が浮く。

「う、わ!? 」

 胃の腑が重力を無視するような寒気に襲われる。

 どさり。

 カルは屋上に落とされた。やや乱暴に。

「いてて……」

「あなたの同伴者はどちらに」

「へ? 」

 見上げると、カルの目の前に少女が立っていた。

 射干玉の黒髪が雪風に舞い上がる。

 白い制服。

(——フラウトか! )


 カルは訳が分からず繰り返した。

「あの、同伴者って……? 」

 途端。

 少女の顔が不意に歪んだ。

「ジャックという男のことです! 」

「うわっ?! 」

 ぐいと胸元を掴まれる。

 苦しい。

 少女の顔が近くにある。痛みに歪んだ、少女の顔が。


「あなたを役者に、ジャックと云う夢売りはどこにいるのかと聞いてるのです! 」


 遠くで烏が羽ばたいた。

「——」

 白い息が重なる。

 どちらのものともしれぬ呼気が朝の寒気に消える。

 自分の金髪がチラチラと彼女の瞳の中を瞬くのを、働かない頭でカルは眺めている。

 少女の瞳は、黄昏を溶かして閉じ込めたような琥珀色。

 吸い込まれそうな夜の色。

「ジャックが、俺を、……仕立て上げ、た……? 」

 何を馬鹿なことを言っているんだ。

 ジャックは行き場のない自分を匿ってくれた。

『まあ役者といっても、今回の彼らは人形劇の操り人形——もはや『小道具』に等しいのだけど』

『俺たちはね、彼ら人形のことを『役者』と言っている』

 ここは影灼領域。

 記憶を再生する場所。

『領域というからには、ここは結界の一種だ。記憶を設計図に、建物を立て、街を作り、人を動かす』

 人の記憶を再生する。

 役者とはそのための装置。

『……俺たちも、動かされることに? 』

『ふむ。——なんで俺らが』

『人を動かすって』

 笑い飛ばしたジャック。

 ——彼はあの後。

 カルの懸念を。

 役者になるかもしれないって懸念を、否定しただろうか?


 身を打つほどの沈黙という張り詰めた狂騒の後。

「まさか、ご存知無い……? 」

 ぽつりと滲む少女の声。

 雪景色に一滴垂れた墨のように。

「あなたはここをご存知ですか」

「知ってる……」

 影灼領域。

 記憶の再現をする場所。

「ならその再現の方法は」

「知ってる——知ってるよ。属性要素で作られた舞台と、その中で作られた人形を役者に仕立てて、誰かの記憶を人形劇みたいに……」

 腹からぶちまけておいて、カルの首は折れた。

「人形劇、みたいに……」


 はらはらと、柔らかな立花が降っている。

 雪の上に、二人分の薄い影が垂れ込める。

 可憐な死神少女の宣告と共に。

「街の人々は、あれは役者ではありません。あれは人形。小道具の一つです」

 知ってるさ。

「記憶が人間のものである限り、登場人物役者は人間でなくては務まりません。ですから影灼領域は、領域に入ってきた人間を利用します。領域の中に適切な人間がいなければ、ゲート近くを通りすがった人間を領域に引きずり込みます。ちょうど、今回のあなたのように。そして人間を役者に仕立て上げます。どのような強引な手を使っても」

 知ってる。だって教えてもらったから。

「五星院に所属するあなたならお伝えするまでも無いかもしれませんが、属性術とは自然への干渉——世界の根元の要素への分配と摘出、そのメカニズムとコントロールです」

 この世界を、本当は俺は知っている。

「領域とは結界。結界とは範囲の制定と支配。影灼領域は役者にすると決めた人間を、その役へと近づけていきます。記憶を再生するために、その役を演じる人間に。——今、あなたは、この屋上に来るまでの記憶がありますか? 」

「———」

 答えはわかりきっている。

 無い。

「なぜ自分がここへ来たのか、そして何故飛び降りるような真似をしたのか。理由がわからないでしょう。何故ならあなたは、あなたに割り当てられた役の通りの行動をしたにすぎないから。あなたは影灼領域に動かされていたようなもの」

 そう。それも。

 俺は——。

「あなたは今回の影灼領域に、役者として選ばれました。そして今、私はあなたが某かの役と既に融合しつつあるのをこの目で確認いたしました」

 あなたは、カルではない。

 あなたは、影灼領域の。

 記憶の中の。

 誰かだ。


『なんだか、まるで影灼領域みたいな話ですね』

『姿を変える人形に、仮面劇か。確かに影灼領域に似ていないこともない。だとしたら——ああ、そうか、なのかな』

『何がですか? 』

『テーマさ。モチーフとして影灼領域が使われ——そうだな、いるんだろう』


『仮装とは仮の姿であって、変身とは、カル君、そのモノが違うモノに変わるってことさ』


 ジャックのあの話は、演劇の話じゃなかったのだ。

 影灼領域で、人間が役者となることを言っていたのだ。

 じゃあ。

 影灼領域で役者になるってのは。

 仮装と変身。

 どっちのことだというんだ。

 俺は誰の仮面を被ったというのだ。

 俺は今、誰の顔をしているのだ。


 俺は。

 誰だ?


「あなたは私たちフラウトにとって、保護対象です」

 少女の茶色いブーツが近づいてくる。

「自己紹介が遅れました。私はフラウト構成員、アスカと申します。以後お見知り置きを」

 腕に添えられた小さな手のひらは、雪の温度に似ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る