第10場 法螺吹きの休日

 煎りたてのコーヒーと葉巻の煙。

 カウンター席でスーツを着込んだ初老の男性の甘い香りのする煙をくぐって、カルは雑誌を片手に扉の近くの席へ腰を下ろした。

「今度の新聞はどこのものを持ってきたの? 」

「北部地方のものです」

 ジャックに示した新聞はカクカクしたスラヴの模様。

 読んでいると、『人形』という文字が目に飛び込んできた。

 新築した劇場のこけら落とし公演についての記事だ。

 なんでも、様々な操り人形マネキンと属性術——特に生成術を駆使した劇だったらしい。

 生成物の人形たちが生きた粘土のように面を替え姿を変えるアヴァンギャルドな演出は、新時代の幕開けとも云え、新たな劇場の初演作品にふさわしいものであった。と記者は語る。

 しかし現代の観客の目には先取りしすぎた味覚であったらしく、非難轟々拍手喝采、その有様は賛否両論の坩堝といった様相であったようだ。

「生きた粘土のように姿を変える……。不気味の谷と、その制作工程をたらい回しにされたようなものでしょうか」

「それは、ただの悪夢かもしれないな」

 ジャックはガレットを薄めのコーヒーで流し込んだ。

 新聞には、この演出のために幾人かの、土属性持ちを中心とした五属性術師たちが駆り出されたとある。

「なんだか、まるで影灼領域みたいな話ですね」

 様々な役に姿を変える、生成物の人形たち。

「何の劇だったんだい。歌劇、舞踏劇、それとも演劇かい」

「演劇ですかね。読む限りでは仮面劇といったところでしょうか」

「ふうん。姿を変える人形に、仮面劇か。確かに影灼領域に似ていないこともない」

 ジャックが何やらふむふむと頷いている。

「だとしたら——ああ、そうか、なのかな」

「何がですか? 」

「テーマさ。モチーフとして影灼領域が使われ——そうだな、いるんだろう」

「はぁ……そういうものですか」

 聞いただけでテーマやモチーフがわかるものなのか。

 自分はたとえ観劇したとしてもわからないだろうとカルは思う。

 それよりは、キャラクターが恋をしただの、あちらが横恋慕して刺しただの、そういう表の話の筋を目が追ってしまう。

「そういうものさ。仮面といえば変身だからね」

「変身ですか? 仮装じゃなくて? 」

 仮面といえば顔に被るものだ。

 それは確かに、仮面を被って服も着替えれば立派な仮装だろう。

 けれど、仮面が変身に繋がるとはどういうことだろう。

 ——変身っていうと、もっと大層な仮装に思える。

 身も心も変わる、みたいなイメージ。

 と、ジャックが、ふふふ、と嗤った。

「仮装じゃ無い。変身さ」

「はあ……。どう違うのでしょうか」

「全く違う。仮装とは仮の姿であって、変身とは、カル君、そのモノが違うモノに変わるってことさ」

 仮装とは仮の姿。

 そりゃそうだ。

 舞台の役者が熊に仮装したところで、彼が人間であることに変わりはない。

「……演劇の話ですよ? 」

「同じことさ。そしてもっと根本的な話だ」

 唇が柔く三日月に笑う。

 カルは一瞬、別のものを見た気がして瞬いた。

 アルルカンか、プルチネッラか、そもそもピエロなのか。

 ジャックがピエロになったのかと錯覚した。

「仮面というのは何のための道具だ? 変身さ。変身だよカル君」

 とても愉快そうに言葉が弾んでいる。

「役を表す記号ではなく? 」

「多いにあるね」

 ジャックはカルの言葉にに頷いた。

 役者側は、熊の役をするには熊の仮面を被る。

 観客側は、舞台に熊の仮面をかけた役者が出てきたら彼を熊だと考える。

「役を端的にデフォルメした完結な容。誰もが見たら語られてもいないキャラクターの性質を識る形。確かにそれが仮面だ」

 仮面は記号だ。

 何かを端的に表すための。

「——でもそれは仮面のデザイン象りの話だ。仮面が役の記号である理由でしかない。それはキャラクターの『表象』の話だ」

 熊役の仮面が、熊の形をしている理由でしかない。

「仮面の最もたる効能はね、そのデザインによって、それが表すモノに成ることにあるんだよ」

 ああ。

 彼の言いたいことがわかった。

 彼はつまり、役者が熊の仮面をかぶった時点で、と言いたいのだ。

「つまり仮面とは変身への道具だ」

 カルは黙って聞いてる。

 ジャックは至極楽しそうだ。

「太古の昔から、世界は音楽と踊り、そして仮面でできている。なぜって、仮面は自分では無いものになるからね。自分というモノは仮面をつければ変貌したんだ。怒りの仮面をつければその人は怒りの化身となった。哀しみの仮面をつければ、そのヒトは哀しみの権化となった。仮面というのはね、本来、仮の顔ではないのさ。その人の顔そのもの。変身とは、人が皮を被って『そのように見せる』ことではなくて、『そう見える』からその人がその人になる、そういう事なんだよ」

「他人にそう見られているうちに、自分も変身したと勘違いすると? 」

「勘違いじゃない。だって、自分の認識と他人の認識は相互干渉的、同時に起こるものだから」

「言葉の論理じゃ無いですか」

「そうさ。言葉の上での変身だ。けれど言ったろう、俺は演劇の話をしているんじゃない。もっと根本的な話だ。そして人間にとって根本的な話だ」

 ゆる、ゆる、と葉巻の煙が窓へ吸い込まれていく。

「先ほどジャックさんは、仮装と変身は違うとおっしゃいましたね」

 それはどういう意味なのか。

「仮装とはね、つまり人間が人間のまま、他のモノのガワを被るってことだ。中身が人間のまま、外見だけが違うもの。仮の姿を装うから仮装という」

「なら変身は? 人間ではなくなるとでも云うのですか」

「そうさ」

 ことも無げにジャックが答えた。

「例えばギリシア神話のゼウスは、白鳥だの牡牛だの、様々な姿に形を変える。彼が白鳥である時、それはゼウスが白鳥の姿をしているんじゃない。。そしてその白鳥もゼウスでしかない」

 どんな見た目、姿をしていようとも。

 ゼウスはゼウスでしかない。

「なら、人間の姿でさえ、仮の姿と云うことになりますよ」

「その通りさ。そも、原型が無いとも言える」

 ゼウスはヒトと同じカタチをしていて、牛や白鳥に変身したのではない。

 そもそもヒトの姿とて、元の姿——ゼウスの真の姿ではないのかもしれないとしたら。

カタチの問題だ。変身とはそういうものだ」

 元型が無いとしたら。

 ゼウスというものは概念だとでもいうしか無い。

「ですがそれは神様の話でしょう。そして神話の話でしょう」

「だが変身とはそういうものだ。そして仮面とはそういうものだ」

「なら、俺が今熊の仮面を被ったら、俺は熊になりますか。たとえ成ったとしましょう、それでも俺は人間ですよ。着ぐるみでも着てなりきってみたところで、人間である俺が虫やら木の実やら、時には人間を食って生きるなんてのはどだい無理な話じゃないですか」

 俺は熊、俺は熊と唱えて幾星霜、実際に俺は熊だと思うようになったとしても、結局は人間の胃の腑と心の臓を持っているに過ぎないでは無いか。

「それは熊にとは言えないだろう。それは仮装でしか無い。変身じゃ無い。だが熊になりかけている状態だとはいえるかもな」

 ジャックは言った。

「そう、だからこそ現代に変身と言う概念は消えた——いや、

「どういう——意味ですか」

「解析ができないからさ。現代の我々は無意識すら解析する。ゆえに。だからこそ。我々は解析できないモノはそもそも、この目に見えなくなったのさ」

「……」

 この目に、見えなくなった?

 よくわからないから次の言葉を待っていた。

 が、なにやら話は終わってしまったらしく、当のジャックはのんびりと残りのクッキーをかじっている。

 自分のカップに目を落とせば、カモミールが有るか無しかの湯気を立てている。

「けれどジャックさん」

 しばらくしてカルは口を開いた。

「原型がないというのなら、ゼウスは白鳥から人間に戻れない可能性もあるのではないですか」

「それは人間の形を原型として、白鳥を仮の姿にした場合、ということだね? 」

 確かに、これは変身についての問いではなかった。

 カルは今、白鳥は仮の姿であることを無意識に前提としていた。

 ゼウスが白鳥となったその後、人間の姿にのではなく、のでは、と。

 明らかに白鳥に変身した、というのではなく、仮装した、という文脈だ。

 だが。

 もし、本当に変身という物がそういう物であるのなら。

「なら、ゼウスは変身した後、白鳥以外のカタチを取らなくなる可能性だって、あるということですか」

「そうだね」

 変身とは、カタチによって中身ごと変わってしまう物だというのなら。

 白鳥に変身したものは、人間の姿に変身しなくてはならない。

「さて、カル君」

 ジャックが手を組む。

「話を戻そうか。仮面は変身への道具だという話だ」

「もし、仮面が変身への道具だというのなら——」

 そこで、知らずごくりの喉の奥が上下した。

「その仮面を、外せなくなることも、あると? 」

「外せる、というのは仮装の範疇だ。仮面で変身した場合、自分の顔が仮面そのものなのだから、外せるわけがない」

「なら仮面が変身の道具だというのなら、そうだというのなら、その役から戻れなくなる、ということも、あるということですか」

 なんども仮装と変身について聞いておきながら、しかしてそう口にする。

 しかしジャックは、まあ、と肯定した。

「そういうことだね」

「………」

「仮装は」

 そしてジャックは囁いた。

「俺は言っただろう、これはとても根本的な話だ、人間の根本的な話だ」

 ぼんやりと、葉巻の煙を見ていた。

 同じ模様を描いて、螺旋のように昇っていく。

 仮面。

 役者。

 変身。

 ——ジャックは、この話のどこが、何に似てると言ったのだっけ。

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