第6場 薄氷、隠れ家と暖炉

 窓が、とんと優しく叩かれた気がして目が覚めた。

「夢———……」

 何か、夢を見た気がする。

(雪景色、だったような)

 覚えている。

 そのはずなのに、追いかけて手を伸ばすとぼんやりと薄れてしまう。

 真っ白な銀世界。

 そこで俺は、何をしていたんだっけ。

 カルはベッドから身体を起こした。

 ベッドがつけられた壁の窓からは冷たい白が降りている。

 擦りガラスのような曇った窓が、朝露のような結露に洗われている。

 寝巻きの袖で窓を拭けば、つるりと外の景色が映された。

 延々と続く白。

 雪原を撫で、六花をまとい軽やかに滑り駆けて来た柔い風が、トン、と窓に優しく手を触れる。

 ——誰かが来た気がしたのだ。

 目覚めた時から、否、もしかするとその前から。

 領域に入ってしばらくしてからだろうか。

 なんだか妙に落ち着かない。

 何かを忘れているような、残してきたような、求めているような、それでいて待ち詫びているような……。

「なんてね」

 そりゃ、俺が待ちわびてるのはフラウトの領域対策部の方々だ。

 カルは伸びをした。


 ジャックの作った観劇用のキャンプ地。

 カルそこに招かれ、一夜を明かした。

「おはようございます」

 陶器の触れる音、火に弾ける薪の音、息遣いの音がする。

 居間の扉を開けると、ジャックが居た。

 暖かい空気がカルを顔面から襲いかかってくる。

 焼きたての小麦の香ばしい匂いと、ベーコンの熱される音。

 壁に備え付けた簡易キッチンに、背の高い紳士が鼻歌交じりに卵を溶く。

「おはようカル君。今日の朝食はブリトーだ」

 ジャックの声の落ち着いた暖かさ。

 カルの頭の隅々までがはっきりと覚醒した。

「ジャックさん。ありがとうございます」

「もうすぐ出来るから座ってて」

「すみません、何もお手伝いせず」

 ジャックがにやっと笑った。

「フラウトが助けに来るまで何日かかるかもわからないんだ、そんなにかしこまってちゃ身がもたないよ。こんな時くらい、先輩に甘えなさい」

 ポンと肩を叩かれる。

「セドの手前もあるしね! 」

 つられて笑う。

 ありがとうございます、とカルは再び言った。


 ——何か自分にもできることがあればいいのに。

(逆に足手まといになる気しかしないんだよなぁ)

 カルは洗い物の籠からコップを出して机に並べた。

 昨日、夕飯をご馳走になったから、ほとんどの生活用品の場所はわかっている。

 机と言っても、そこにあるのは岩を変形させて荒くも平らにした代物。

 キッチンといっても、レンガを組み立て火を起こし竃とした代物だ。

 ジャック曰く、「俺はグルメなんだ」。

 この隠れ家は、土属性術師でもある彼の本領発揮と言わんばかりの立派な『基地』だった。

 さすがは土属性。

 構築、製造、生成のプロだ。

(影灼領域のことも、きっとよく知ってるんだろうな)

 ジャックによれば、影灼領域とはいわば、結界の中に街や人を生成するようなもの——なのだという。

 まるで土属性術師の得意分野だ、とカルは思った。

 だからこそ、ジャックは影灼領域の観劇が趣味なのかもしれない。

 いや、きっとそうなのだろう。


 熱いコーヒーが机の上で湯気を立てる。

 朝食を並べ、ジャックも自らの席に着いた。

「どうだい我が家の寝心地は。よく眠れたかい? 」

「はい、おかげさまで」

「それはよかった。慣れない環境の上に、外は大雪だ。体力はつけておかないとね」

 ブリトーを齧る。

 もっちりした小麦生地の下から、じゅわりと塩気のあるベーコンの脂が舌を濡らす。ふんわりしたスクランブルエッグと、ほくほくのじゃが芋、飴色の玉ねぎ。

 ブリトーというか、ブリトーっぽい別料理。

 けれど、美味しい。


「ところでカル君、何か夢を見なかったかい」

「夢ですか」

 おかしなことを聞く。

 顔をあげると、ジャックの好奇心に満ち満ちた瞳とぶつかった。

「領域のの予告編みたいなものさ」

 ジャックが砂糖入れを寄せて、山盛りを三杯入れる。

「影灼領域は元となった記憶の再生をするものだ」

「記憶の再現、ってことですよね」

「そうだね」

 今はその準備段階だ、とジャックは言った。

「そしてね、影灼領域っていうのは、常に記憶の再生をいる。そういう強い指向性を持ったモノで構築された空間なんだ。中にいる俺らに少しも影響がないわけがない。だろう? 」

「は、はあ……」

 差し出されて、カルも匙を取る。

 記憶の再生を待ちわびる、強い指向性。中にいる俺たちへの影響。

 つまりなんだろう。

 カルはジャックの話を懸命にまとめた。

 確か彼はカルに、夢を見たかと聞いたはず。

「ええと……記憶の内容を、俺たちの夢に見せることがある、ってことですか? 」

 にっこりとジャックが笑んだ。当たったようだ。

「そう。夢だけじゃないさ。あくまで影灼領域の構成要素が持つのは『何かを見せる』という指向性だ」

「何かを見せる……」

「見れるモノなら何でもいい。時には映写機、時には鏡、窓や水晶——」

「何かを映すもの、ということですか」

 カルは一つ一つわからない単語をすっ飛ばしながら、どうにか勘で噛み砕いていく。

「必要条件は物質に限らない。あらゆる『モノを見せる』という概念が付与された物体は、その概念ゆえに、構成要素に唆されやすいんだ」

「はあ……」

 カルは曖昧に頷いた。

 カルだって、座学とはいえ属性術の徒の端くれだ。

 ゆえにジャックの話に出てくる単語そのものには馴染み深い。

 でも、彼の口から出る呪文はどうにも肌にしっくりこない。

 要するに、難しくてよくわからない。

「ジャックさんと話していると、やっぱり俺は『解析』専門だなあって思います。きっと現場に弱いんです」

 自分は属性術師ではない。

 属性術師がスポーツ選手なら、カルはマネージャーだ。

 カルの弱気な発言に、ジャックが肩をすくめた。

「現場どうこうじゃない。分野が違うだけだ。俺だって、君らのやるような、なんだっけ、祝詞解明? 古書解明? なんかそんなんの説明をされたことあるけど、よくわからなかったな」

「あー、あれは結構特殊ですから」

 カルはコーヒーをすすって昨夜の夢に思いを馳せた。

 ほのかな甘さが、重い目蓋と脳に溶け込んでいくのが心地よい。

(夢かあ)

 見ていないわけではないのだけれど。

(記憶に関係するような夢かといわれると……)

 カルが夢に見たのは、一面の雪景色だった。

 全く関係ないとはいえない。

 でも、それが領域に魅せられた夢だとどうして言えよう。

 単に昼間見た風景が夢に出てきただけではないか。

 大体、夢なんて事細かに覚えていない。

 覗いていた橙色の正体は、果たしてなんだったか。

「さーて今日の新聞は、っと」

 コーヒーを口にしながら、ジャックが新聞を広げる。

「それは? 」

 まさか、現実の新聞ではあるまい。

こっち領域のカンパネラ駅で買ってきたやつだよ」

『セントラル・タイムズ』。

 背面の広告に、家庭用の属性術展開装置——『家装』のカタログが乗っている。踊る文字は『年末大セール』。

 ということは、この雪景色は十二月の出来事なのか。


 新聞に目を通しながらジャックが呟いた。

「うーん、ちょっとは進んだかなあ」

「何がですか」

「影灼領域の進捗。昨日の新聞にはまだ写真が無かったんだよ。印刷された字数も増えてる」

 これ自体は昨日買ってきた物なんだ、と手元の新聞を示す。

「時が経てば経つほど、舞台も小道具も緻密に作られていくのさ」

 作られ方は属性術の生成物と同じなんだけどね、とジャックは言った。

 属性術における一つの技術、『生成術』。

 自然界にある属性要素を練り上げることで、物質を生成する技術だ。

 その術で出来たものを、専門用語では生成物と呼称する。

「特に新聞のような文字のあるものは、記憶の内容を知る一端にもなる。だからよく確認する必要があるのさ」

「そうなんですか? 」

うん、とジャックは頷いた。


「例えば、記憶の持ち主が何に興味を持っていたのかがわかる」

「興味……。記憶の持ち主が読んだ新聞の記事だけが再現される、ということですか」

「簡単に言うと、そうだね。——領域の核である記憶の持ち主は人間だ。すべてを隅々まで覚えているわけじゃない」

 例えばどのような建物がどこにあったのか。屋根の色、壁の模様の一片、道は何で舗装されていたのか。

 それを全て覚えている人間はいないだろう。

 その代わりに、興味があるものは覚えている。

 よく行く店はどこに在るか、好みの建物の外装はどのようなものであったのか。

 記憶にはどうしても、本人の興味の傾向が反映される。


「確かに。見た物全てを隅々まで覚えていられる人間は、稀有だと思います。でも」

 カルは窓の外に視線をやった。

「でも、この影灼領域は本物そっくりですよ」

 記憶していないものは再現できないというのなら、ここまで大規模で精巧な街のことをどう説明するのだ。


「そこはそこ。影灼領域というのはね、ある程度人の記憶を補完する性質を持っているのさ」

「補完ですか」

「さもないと成り立たないだろう、こんな大層な劇場はさ」

 属性術の眷属というだけあるだろう、とジャックがウインクする。


「ホントに好きなんですね、影灼領域というか、記憶というか……」

 まあね、と笑うジャックがあまりにも無邪気なものだから、カルはしばし逡巡してから口を開くことにした。

「——その、夢は、観たんですけど」

「え、そうなの? どんなものだった? 」

 思いのほか食いついてきた。

「えっと、その」

 困る。

 そこまで目を輝かされると非常に困る。

「その、今まで言わなかったのにも理由があって。——雪原だった、っていう記憶しかなくて」

「……。なるほど。やっぱりそのくらい曖昧なものだったか」

 ジャックは椅子に居直った。

 納得のような落胆のような声。

「で、でも、俺が見た夢が領域の記憶の一端だー、なんて保証はないですし」

 まあねとジャックが上の空で相槌を打つ。

「うーん、この調子だと記憶の再生まではまだ時間がかかりそうだ」

ジャックは別の新聞紙に手を伸ばした。


「なに、針探しの一手になればと思ったんだけど」

「針……? って、なんです? 」

 訊けば、ジャックは「言ってなかったか」とこちらを顧みた。

「針ってのは、影灼領域の核、『刻憶針きおくはり』のことさ。そこに記憶が宿っている」

 それを守るんだ、とジャックは言った。


「昨日言ったように、俺の目的は記憶の再生を観届けることなんだ。でもそれを妨害する奴らは結構な数いる」

「妨害って、どうやって」

「『刻憶針』を核として影灼領域は構成されている。逆をいえば、刻憶針さえ壊してしまえば、領域ごと解体されるって寸法さ」

 その刻憶針を探し出すことが、領域の保護に繋がるのか。


「では、その刻憶針はどこに? 」

 ジャックはコーヒーをすすりながら新聞に目を落としている。

「カル君、記憶っていうのは、どう保管されていると思う? 」

 どうやって?

「どんなで、ってことですか」

 カルは机の上に投げ出された『セントラル・タイムズ』から顔を上げた。

「そう。俺らはずっと生きている。途切ることなくね。一度も心臓を止めたことはないし、夜がきて寝床についても、朝起きた時、寝る前の人生と別物の人生を歩むわけじゃない。人生が記憶の蓄積だというのなら、俺の記憶もカル君の記憶も、記憶は連綿と続いている」

 ならば、とジャックは続けた。

「影灼領域が再生する記憶は、どうして連綿と続くものじゃないのか。どうして『その記憶シーンだけ』、一片の記憶のみだけが、領域の種となるべく抜け落ちたのか? 」


 ジャックの指がセントラル・タイムズの一面を撫でる。

 記事はカンパネラ駅の改築案に関する政治のゴタゴタだ。

 カルは目を瞠った。

 カンパネラ駅の改築は、この時まだ準備段階だったのだ。

 ということは、この領域の記憶は、今から少なくとも三年以上は前のものなんだ。


「影灼領域のメカニズムは大して解明されてない。それでもわかっていることはある。領域の素、刻憶針になるような記憶はね、持ち主の思い入れが強いモノってケースが多いんだ」


 カルは新聞を読み流しながらぼんやりと口を開いた。

「例えば俺たちの記憶が本だとするなら——領域の核となった記憶は、本から一枚、何かの拍子に抜け落ちた、って感じでしょうか」

「なるほど、そうだね。記憶が本で記録されているとするなら」

 ジャックは言った。

「領域の核となった記憶ページは、自らの重さに耐えられなくなって、そして本から抜け落ちるんだ」

 思いの重さだけ、重くなる、とジャックが言った。

 領域の核となる記憶は、記憶の持ち主にとって思い入れ深いモノが成るのだから。


「さて話を戻すと、『刻憶針』は領域における『核』だ。だから、記憶の中でもっとも重要で、根本的な、核心的なところにある可能性が高い」

 例えば恋人と交わした約束の記憶であるなら、交わした地や誓いの品に。

 事故の記憶であるなら、事故の場所や原因の品に。

「だからもし——大事なものが無くなったら、それはその品にまつわる記憶と共に属性精霊に攫われて、どこかで影灼領域の核とになっているかもしれない……——なんてね」

 と言ってジャックは瞳を細めた。


「だから記憶の内容を知れば核の場所はわかる。手がかりとなるのが、夢なんかの『予告』さ。そしてこういう」

 ポンと机に積まれた新聞を叩く。

「新聞の類ってわけ」

 積み重ねられた新聞に踊る文字は、アクサンやウムラウト、キリル文字、漢字など。

 様々な地方言語が今日のニュースを伝えている。


 カルはひとつ、新聞を手に取った。

 地方新聞ではないから、言語が違うだけで大体の内容は同じだ。

 東部地方の新聞だった。

 ぼうぼうと燃える山の写真が写っている。

 死者三人。

 カルは目を細めた。文字が掠れてよく見えない。

「えーっと……山が……? 」

「どうした? 」

「文字が掠れてるから、火事ってことくらいしかわかんないなあーって」

 と、ジャックが目を見開いた。

「君は地方言語が読めるのかい?」

「読めるってほどじゃ……でも、少しは分かります」

 古文献学の必須科目は、あらゆる言語をかじること。

「なるほど。ならちょうどいい」

一転、ジャックは笑顔になった。

「俺は今日、また街に出て情報を集めて来ようと思ってるんだ。どうだいカル君。ついてきてくれないかい? 君の言語能力は大いに役立つ。俺はね、地方言語だけはからきしなんだ」

 確かに、共用語とジェスチャー、そしてその心意気と笑顔で、全てをコミュニケーションしそうではある。

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