第3場 雪原の夏

 指の先を擦り合わせる。

 腫れて鮮やかな赤に染まる指は、皮が膨れて分厚くなったみたいに感覚が鈍い。

 擦れば温まることなどなくただ痛みと痒さを訴える。

 カルは途方に暮れながらも、雪を吸い重くなった足をただ前へ動かしていた。

 どこまで行っても、古い街並みと、線路と、そして雪ばかりである。

 しかしそれは確かに、昔、自らが目にしたカンパネラ駅付近の街並みであるといえた。


 これはまるで。

 タイムスリップ、という言葉が頭の中を明滅した。

 時計店。パン屋。花屋。レストラン。

 すれ違う人々は完璧な冬支度。

 視界に入った自らの足に、カルは天を仰いだ。

 果てのない薄灰。ほろほろと崩れるように落ちてくる軽い雪。


 目の虚に焼きついた青が脳裏でチカチカと明滅する。

 煉瓦の駅舎から見上げた昼下がりの夏空は落ちてきそうな青だった。


(今って夏だったよなあ)


 ——いや、もしかして、おかしいのは自分の方では無いか?

 白しかない世界をずっと歩いているうちに、カルの頭にそんな考えが浮かんだ。

 だってそうだろう。

 周りも、突然夏から冬になったと騒いでいれば話は別だが、そんな素振りは全く無い。

 ならばおかしいのは自分の方だと考えたくもなる。


 陽気な笑い声が響き、カランコロンと鳴ったドアベルに、カルは現実に引き戻された。


「———」

(……考えても仕方がないか)


 はぁ、と口から白い息が漏れる。

 なんだかうんざりしてきた。もう白はたくさんだ。見たくもない。

 歩くにも疲れてしまった。

 ただでさえ強張った足は上がらず、数センチといえど積もる雪に沈む脚を進めるには体力が要る。

 何か理由があって歩いているのでも、行き先があって歩いているのでもない。

 何もないから、歩くしかなかっただけだ。


「……———」


 カルは立ち止まり、ぼんやりと周りを見回した。

 右手の酒屋から出てきたおじさんもコートにマフラー、手袋、耳当てと暖かそうだ。

 その先のカフェではこの寒い中オープンカフェとなっていて、呆れたことに客がいる。

 無謀な勇敢さとは裏腹な、見るからに柔和な紳士だ。

 新聞を片手に湯気の立つコーヒーをすすっている。


 また人とすれ違う。

 雪の中、奇異な格好をしたカルをちらりとみやる。


「あの」

「はい 」


 思い切って声をかければ、すれ違った若い男性はカルから一歩距離を置いて振り返った。


「すみませんが、カンパネラ駅、って……」

「カンパネラ駅? 」


「あっ……あの、いえ、改築するって、聞いたのですが……」

 どくどくと心臓が脈打つ。寒さに凍える指先とともに、自分の声と意気地も縮まっていった。


「悪いけど、知らないな」

「あ……」


 ありがとうございます、という言葉が、雪の吐息に溶けて消えた。

 別に、何が聞きたかったわけじゃない。

 そのことに声をかけてから気がつく。

 誰かと会話がしたかった——。


 と、側から男の声がした。


「悪く思わないほうがいい」


 しんとした白の中で、コーヒーの匂いが染みる。


「彼らは君に知っていることを教えないのではなく、知らないから知らないと言っただけのことなんだ。何故ならそれは彼らの『役』割では無いからね」


 件のオープンテラスに座っていた紳士だった。

 カルに話しかけながら新聞を畳む。

 薄色の髪に、毛先へ向かって段々と濃くなる橙色が印象的だ。


「まあ役者といっても、今回の彼らは人形劇の操り人形——もはや『小道具』に等しいのだけど」


 紳士が、にっこりと笑んだ。

 人形劇?

 小道具?

 なんのことだろう。

 カルが意味を計りかねていると、紳士は向かいの席を手で示した。


「どうした。座らないのかい。駅からあてもなく歩き続けて疲れているだろう。——マスター、彼にコーヒーを」


 紳士が店の奥へ声をかけた、左の瞬間。

 机には湯気をたてたコーヒーが鎮座していた。


「え、な、」


 ぽかんと開けたカルの口に雪が舞い込む。

 振り返った紳士の緑色の目がカルを映す。


「なに、これが『ここ』の当たり前さ」


 そう言って、紳士はカルにウインクした。


***


 コーヒーをすすると、味を識るよりもまず、舌が痺れた。

 持つことでさえ一苦労だ。指が曲がらない。

 四苦八苦するカルに、ジャックと名乗った紳士はカフェの中からストーブを持ってきてくれた。

 よくある家庭用の属性術展開装置だ。

 まだ火は点っていない。


「まず体を暖めるといい。そんな服でよく歩いたよ。まあ、外は夏なわけだから仕方ないけど」


 カルはハッと顔を上げた。

 夏。

 彼は今、夏と口にしたか。

 ジャックがストーブに掌をかざす。

 パチッと薪が身じろぎをすると、赤々とした火が宿った。


(属性術——)


 火属性の術式だ。

 けれど、一般人が使える『共鳴』の術ではない。

 彼は火の属性に適正のある属性術師なのだろう。


「その制服、あんた五星院の学生だろう。あそこは属性術の専門学校だよね、座学系が主体だって聞いてる。あんたの属性は? 」


 ジャックはカルに、自分の適合属性は何か、と訊いているのだ。

 この世に生を受けた者は皆、自分の体内に巡る属性力がどの属性を帯びているか、少なくとも初等教育に上がる際に検査を受けて知っている。


「……俺も、火です」


 カルがそう言えば、


「そうか。俺は単一適合者じゃなく複合適正者だから、土属性も持っているんだけどね」


 奇遇だね、とジャックが笑んだ。

 カルは彼の口から出た言葉にドキリとした。


「ジャックさんは複合適正者なんですか」

「うん」


 適合を示す属性は、大多数の人間が一種類だ。

 だが、二種類、三種類の属性に適合を示す者もいる。

 そういう者を複数適正者と呼ぶ。

 三種以上の保有となると数は少ないが、ジャックのような二種適合はそう珍しくもないと聞く。


 しんしんと雪が降る隣で、ストーブにあたりながらコーヒーを飲んでいる。

 熱に解れる舌とともに、焼けるほどの流れが喉を通って胃に落ちる。


「あの」

「ん? 」

「今、夏……ですよね」


 カップ越しにおずおずと聞けば、ジャックは眉を上げた。


「ああ。外は夏だろう」

「外——? 」

「もしかしてあんた、今、自分がどこにいるか知らないのかい」


 力強く頷いた。

 ふーむとジャックが腕を組む。


「そうか。五星院の学生だから、自分から飛び込んできたのかと思ってたんだけど……。じゃあ、あんたは吸い込まれたんだね」

「吸い込まれる? 」


 カルは中々明らかにならないこの場の正体にやきもきした。


「俺、カンパネラ駅にいたはずなんです。なのに、気がついたらここにいて、しかも周りは冬になってるし、それに……駅も……」

「どうして『カンパネラ駅が旧駅舎の姿をしているか』——だろう? 」


 ジャックの言葉に、カルは頷いた。


「はい。まるでタイムスリップでもしたみたいな」

「タイムスリップか」


 ジャックは低い声で笑った。


「いや、あながち間違ってもないさ。——単純にいうとね、ここは誰かの記憶の中だ」

「記憶の、中」

「そう。誰かの記憶を再生するもの。誰が作ったわけでもなく、記憶の欠片を種として、落ちた場所で運が良ければ発芽して、蕾が開くように自らの持つ物語を花咲かせる。実態を持った記憶。自然の生んだ劇場——自然ということは、つまりはこの世の理——『五属性』の眷属だ」


 ジャックが、店の軒先から垂れてくる雪解け水を手のひらで受け止めた。

 ぴちゃん、と跳ねたのち、しゅう、と音を立てて、雫は粒子に分解されて風と消える。


「言うなれば此処は、属性術の贅の限りを尽くした人形劇場だ。と言っても、術師が寄り集まってもここまでの装置を用意するには至らない」


 カルは瞼を伏せた。

 痛いほど訴えるカルの属性知覚は、飽和し、麻痺し、すでに「どの属性が、どのように使われているか」など——感知できない。

 だとしたら、この『劇場』は属性術師にとって、五属性への畏怖を与えられるものでしかない。


「なら、ここは……」

「ある冬の日、まだカンパネラ駅が旧駅舎だった頃の北八三区の一幕ってことさ」


 そんな、なんの変哲も無い日常。


「記憶の内容なんてそんなものだ。ドラマも無い、サスペンスも無い、娯楽としては最低だ。けれどこの記憶の持ち主の『誰か』にとっては——大切なものだった」


 思いの重さが、実態を持たない記憶なんてものをこの世に残して、こごりとなって、こんな場所を作り上げる。

 簡単に言えば、この場所はそういうものだよ、とジャックが言った。


「と言っても、俺みたいに、これを観るのを趣味としてる奴もいるんだけどね」


 柔らかく笑うジャックの声が、遠い。

 カルの心臓が早鐘を打っている。

 記憶。

 五属性。

 隔離された世界。

 自然の作り上げた、この劇場の名は。

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