序2 回想・炎

 まぶたの裏が赤い。

 爛れて溶けて蒸発して、真っ黒な目の前は、閃光を満たして呑ませたように赫かった。


 ああ、里が燃えている。

 と、思った。

 斜めに見える里の景色が、山の闇と真っ赤な炎で陣取り合戦をしている。


 黄昏の空が地に落ちたようであった。

 灼熱の炎の塊が一日空を渡り、死ぬ間際の一瞬に、最後の力で赫と睨む、死すがことを当然と見上げ気にすら留めぬ地上を呪い、恨む、その執着で、自らの色にて世界を満たし、髄の奥まで染まらせ窒息させる、その夕焼けが。


 頬をつけた土がじっとりと張り付いてくる。乾いた塵が水を求めて口や鼻に入り込んでくる。

 しばらくして、耳障りな風の音が、自分の呼吸だとわかるようになった。地上を揺らす、何か大きな鬼の足音が、自分の心臓の打つ鼓動なのだとわかるようになった。

 コン、と咳き込むと、張り付く喉が爪を立てて搔きむしる。

 弾んだ腹が骨を噛み砕き、丸めた背中は肌を食い破り大きな棘を突き立てる。つぅと、冷たい液が、背筋を愛おしそうに撫でていく。

 体の内、背中から、太い円錐状のを生やした姿を想像してみた。

 私は、恐竜にでもなってしまったのかもしれない。


 腕を伸ばし起き上がろうと力を入れる。しかし体がビクともしない。鼻を啜ろうとするが、感覚がない。骨が折れたのかもしれない。

 木の匂いがしなくとも、周りの状況で、建物の柱が自分の上にのさばっていることがわかった。

 そのくせ背中に固いものの感覚はないので、背中の神経が仕事をしていないのかもしれない。

 這い出ようにも、左腕が奥の柱に挟まれて、引き止めようとしてくるので、ぱき、と左肩の関節を外した。外に出ている右腕で地を手繰り寄せれば、案外すんなりと柱の下から這い出ることができた。


 背後で支えを失った山が土砂りと崩れた。ぱたた、と頬を暖かな雨が地から降る。

 指で拭うと、拭いきれずに、とろりと指に黒い雫を垂らす。

「——」

 私が這い出て、今、崩れた、私の上にあった瓦礫たち。

 その足元に見えるこれは、何か。


 手だ。

 手のひらの胼胝は、畑仕事で鍬を持ってできたものだと、知っている。

 その皺と、しみと、ほくろを、私はよく見て知っている。

 死んだ掌の皮膚に暖かな感触が波のように蘇った。

 触るとどうにも薄い皮膚で、その下にある骨と、しっかりした筋が盛り上がっている。手を繋ぐと少しひんやりしている。彼の腕をよくある年配の腕と見て、なぜこういう腕になるのかと偶に考えた。


 そんな日々を脳裏にまざまざと引き起こす日焼けした腕が、表面の皮膚に、何本もの黒い川を流している。

 ごめんなさい、と、口は呟いた。耳には、白々しく聴こえた。

 数えることもできない木の柱と、コンクリートと、ぬらりと赤を受けて光る銀。

 それらが何か芸術的な、編まれた彫刻作品のようにそびえていた。


 歩き出した。

 あたりはすべて赤かった。

 燃えているのは建物で、それもとうに崩れて瓦礫かごみの山だ。

 砂糖菓子のようにほろほろと崩れていく。

 それでも右にあるのは食糧の蔵で、左の建物は家である。

 目の前の地獄は、どこに何があるか、空で書き出せる、生まれ故郷だった。


 足の下が滑った。ぐずりと摩っしたものは肉である。誰の肉であろうか。里の者、それぞれの顔が脳にとめどなく浮かんだ。


 ——そっか。


 ぼんやりと火の海を進む。

 どこまでも同じ景色だ。

 炎の走馬灯にぐるぐると同じ物を見せつけられている気分だ。

 目が、腹の底から掻き混ぜ廻される。


 炎に呑まれた地なんて初めて見た。

 けれどそれは、どう足掻いても見慣れた故郷だった。

 炎がぬるりと赤い舌を出して、柱を舐めた。大きく生を謳歌して波打ち、畑をうまそうに食べて腹いっぱいに食っていく。

 火の粉と灼熱が幽体の腕を伸ばして、私の体の隅々までをじっとりと撫でていく。


 ———敗けたんだ。


 頭領の屋敷を前にして、そんなことを思った。

 阿呆みたいに純真な漆喰の壁と、赤を照り返し染まることのない黒の瓦の下。

 頭領が濡縁の柱に背を預けて座っていた。


 俯いた頭領の隣で、夢みたいに毒々しい紅のマントがなびく。

 見慣れぬ礼装。

 白い仮面と、古典物の凝ったオペラの舞台衣装みたいな物を着たヒト。

 ああ。

 ひそやかに息をする間に納得した。


 ——私たちは、こいつらに敗けたのだ。


 隠れていた私に気づいていたのか、そうでないかはわからない。

 暫くして、私たちの里を壊した奴は姿を消した。


 跡には荒涼とした忍の里が残った。

 焼けた建築材を超えて頭領の前に立つ。

 ドサ、と、若衆が川の防波堤にする土袋を道に落としたような音を立てて、頭領が濡縁の上に倒れた。

 真っ赤な血の吹き出す体と、そこに穿たれた懐刀。

 頭領の命を奪った刃物は、なんの因果か、この里で私ともう一人のみがよく見知ったものだった。

 自害ではない。

 刀の持ち主が頭領を殺したは明白。

 その事実を受け入れる前に、何かを、諦めた。


 こうして。

 闇の防人の弔いは、あまりにも明るく照らされ幕を引いた。



 地は墜落の陽に燃えていた。

 里の呼吸は灰に満ちていた。

 鼓動は熱に炙られていた。



 ——だから私は、復讐することにした。

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