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ハスミ リューセン

1 浪漫手記

0. RED, THE PHANTOM OF THE RED

序1 回想・東部地方、春

柔らかな陽射しが若葉の隙間からこぼれている。

地面から匂いたつ土と、漂う花の香り。

胃の腑が座りわるく浮き足立つ匂い。

春の匂いだ。

暖かな風に乗って辺りを満たしている。


あれは、七つのことだったと思う。

幼子とは言えずとも子供の手は小さく、二十と幾らかを重ねた手のひらにすっぽり覆われていた。

胃の腑の浮くような春風が頬を撫でて、春の坂道を歩いていた

帰り道だったか、それとも行きの道だったのか。


「昨日行ったところは表が寺で、梅が綺麗なんだ。一月になったら見に行って、挨拶に行くのがいいだろう。あそこの当主はね、代々、梅の名を貰うんだ」

「うちと同じですね」

「そうだね。だから仲良くしておくといい」


蝶を目で追う隣で、いろいろな話を聞いた。

夏は降り注ぐ熾烈な陽の照明と蝉の雨の中を。

秋は錦の編み目と虫の声を。

冬は真っ白の、音のない、どこまでも続く白い雪原を。真っ白な世界に二人、ただ一つの鼓動と足跡を連ねて行った。


——雪の夜は気が狂いそうになる。

と、いつだったか、口の端から溢れたとでもいうように言っていたことがあった。

そこに音は無く、世界の全ては死に絶えて、自分の体の中にぎゅうぎゅう詰めにされた生き物がごぽりごぽりと蠢いている。

——白というものはそういうものだ。

と、そんなことを言う。


ならば春はどうなのか。

若葉の鮮やかな緑が、柔らかな日差しが、生に満ち溢れている、この春は。


「死んでいたものが春になると蘇る。堰を切ったように生きているものが噴き出すけれど、生しかないということは死がないということだ。死がないところに生は無く、生のないところに死はない」


それが春だ。

と言われた。


見上げれば、大人の影と、その向こうの鮮やかな若葉。その隙間に覗くのは薄氷に透かせたような、柔らかな空色だった。


「わかるような、わからないような、そんな感じがします」

難しくて言葉を理解することができないのだが、なんとうなくわかる気がした。

「それでいいんだよ。今話しておけば、聞いておけば、きっと覚えているだろうから」

「そういうものなのですか」

「そういうものさ。いつか、必要な時に思い出すものなんだよ」


山は春で、桜の花びらが忘れ雪のようにそこかしこを舞っていた。

一寸先も輪郭を朧む、暖かな軟い吹雪と、目の前を霞むひとひら。

そういうものさ、という言の葉が、もう一度、薄桃の花弁とともにはらりと降ってきた。


「覚えていてくれるから、安心なんだ。いつ側に居無くなっても大丈夫だろう」

側に居なくなっても?

「置いて行かないでください」


びっくりして、そんなことを言った。

そうしたら、春の影は微笑んだ。


「置いてはいかないよ。だって、君は僕で、僕は君。君は僕の生き写しだから、そして僕は君の生き写しでもあるから、僕は君で君は僕というわけだ」

「どういう意味ですか」

「そういう意味さ」


桜の風で出来た、煙に巻かれたようだった。


「もういいです、置いてかれたら、追いかけます」


なんだかよくわからなかったから、そう言い切った。

一番確実だ。そうしたら何が起こっても大丈夫。

ずっと側に居られる。


「それは困った。二人とも里から離れてしまったら、みんなを守る人がいなくなるじゃないか。心配で夜も眠れない」

「なら、困ってください。そしたらずっとお待ちします」


だから、もし万が一側を離れるようなことがあるなら。


「春までにはきっと帰って来てくださいね」


そう約束した。



そして、人生で一度だけ訊いたのだ。


「私とあなたが互いの代わりだというのなら、私はあなたと同じ名前がよかったのに」

「同じ? 」

「そうです。なぜ同じ名をくださらなかったのですか」


名付け親にそう聞いた。

春の陽射し、桜の忘れ雪、花の香りと鳥の声。


「どうして、と聞かれれば——」


呼ばれた名は、暖かかった。

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