深淵

 それはまるで、全身が沼の中に沈められたような感覚。

 両手両足が鉛のように重く感じる。見えない泥が締め付けているようだ。

 目に見えている世界は全て闇に覆われていた。自分が今、どこにいるのかすらも分からない。そもそも自分は立っているのか、横になっているのか、上下左右の感覚すらどこかへ置き忘れていた。

 音も何も聞こえない。自分が発する声すらも、この耳は拾わない。

 意識は、ある。だが頭の中の深くまで、身体の奥にまで、この闇が入り込んでくる。

 じわじわと、確実に。一点の黒いシミがゆっくりと広がっていくように、身体がそれに蝕まれていく。

 本能が告げる。ここは危険だ。自身の存在を脅かすこの世界から少しでも早く、抜け出すべきだと。

 重い身体で必死に抗う。必死に水を掻くように足掻く。身体の自由が奪われているせいで、思うように四肢を動かせない。

 必死に、決死にもがいた。この世界から逃げるように、光を求めるように。

 それでも、事態が好転する気配はなかった。そもそも、この真っ暗な世界の何処に行けば助かるというのだ。この底の見えない暗闇の中のどこを目指せば、こんな世界から抜け出せるのだろうか。

 その間にも、身体の中の闇が大きくなっていく。

 闇はこの思考をも蝕んでゆく。なぜここから抜け出さないといけないのか。なぜ危険だと感じるのか。何の為に必死になっているのか。

 ――あれ、なんでだっけ……?

 感じていた筈の危機感すらも、次第に不要ではないかと思い込んでしまう。

 この世界が。この真っ暗な世界がそうさせるのか。

 何も考えなければ楽になるのではないか。この闇を受け入れれば、全ては終わるのではないか。

 ……もう、いいかな――。

 そう、思ってしまった途端、自然と身体が軽くなったような気がした。

 同時に、視界は暗闇に覆われている筈なのに、薄っすらと霞みがかってゆく。眠りに入る直前のまどろみのように、意識が溶かされてゆく。

 不意に。

 この世界の何処か一点。

 小さな、ほんの小さな光が、視界の端に映る。それは徐々に徐々にこちらへ近づいてくる。

 まだ、意識は完全に途切れていない。無意識に、反射的に、その光へ手を伸ばす。

 光の方から、誰かが何かを言っている声が聞こえてくる。先程まで何も聞こえなかった世界の中で、その声はしっかりと、はっきりと。こちらに向けられている。

 ――月島大地。お前は何者だ。何の為に、お前はここにいる――?

 気付く。その声は、今まで散々聞いてきた声。聞き慣れた声だ。

 懐かしく感じる。

 乱暴な言い方なのに、暖かく感じる。

 この声を、俺は知っている。

 そうだ――。

 目を見開く。闇を受け入れようとしていた身体に必死に鞭を打つ。全力で抗い、その手を光の方へ必死に伸ばす。

 こんなところに留まってはいけない。自分にはやるべき事がある。

 この世界に身を置こうした自分自身をぶん殴りたい。まだ、出来る事はいくらでもある筈だ。

「わかってるよ。言われなくても」

 鉛のようだった腕に感覚が戻ってくる。身体や意識を蝕んでいた闇は、徐々に小さくなってゆく。

「この野郎が。まだテメェの餌なんかになってたまっか!」

 更に手を伸ばす。この世界の暗い部分は、いつの間にか消えている。

 視界は、真っ白に輝く光に覆われた。

 ――この程度の黒じゃ俺は食えねぇって事を、テメェにも、あの馬鹿兄貴にも教えてやる――!

 月島大地は自らの意思で。少女と交わした約束を果たすために、本来の世界へと再び舞い戻る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る