月明2
大地はふと、目を覚ました。
外がぼんやりと明るい。月明かりだ。ということは今は夜か。不完全な闇の中で、周囲の景色がおぼろげながら映し出される。眼に映るのは、いつも見慣れた天井。
上半身を起こし、寝ぼけた頭をたたき起こす。
「あれ……俺は何をしてたんだっけ……?」
記憶が錯綜する。工場跡地で、あの金髪オールバックの野郎にコテンパンにやられたのは鮮明に記憶に残っていた。その後、時雨たちの姿を見たところまでは覚えていたが、それ以降の自分の行動が全く思い出せない。
月明かりの中、自分の姿を確認する。制服ではなく、部屋着を身につけている。レオンにやられた傷は手当てが施されており、どういうわけか自分の部屋で布団に入って眠っていたことを考えると、
「会長たちがやってくれたのか……」
という結論に至る。
まだ痛む身体に我慢しつつ、立ち上がり、自分の部屋を出た。
「会長たちは、まだこの家にいるのか?」
自分がこの家にいることを考えると、時雨や牡丹がこの家を訪れたということは分かるが、その後はどうしたのだろう。今の明確な時間すら把握していない大地は、もしかしたら、下にまだいるのかも知れないと思い、部屋を出て廊下を進もうとしたが、
ピタリとその足を止めた。
「…………」
微妙な違和感に気付いた大地は、その方向に視線を向ける。
その先にあるのは、先程まで眠っていた自室の、隣にある部屋の襖。
見た目は普段と何も変わらず締め切られているが、何かが違う。ここ数日間に感じていたものが、今は感じられない。
なんというか、そこに誰かがいるというなんとなくの気配だ。この時間、恐らく今は深夜だろうが、その襖の先に、少女が寝ているという気配が感じられなかった。
襖の前に立ち、部屋に向かって声をかける。
「おい、サラ……いるのか……?」
待ってみるが、返事はない。
冷静に考えれば、部屋にいない理由なんて、トイレに行っていたとか、のどが渇いたから台所に向かったとかいくらでもあるのだが、大地は無性に、少女の存在を確認したいという衝動に駆られた。
「寝ているのか?」
この声に対しても、何も反応は返ってこない。少女の声が聞こえないことに、大地は言い表せない淀んだ不安感を抱く。
いてもたってもいられず、襖に手を駆けた。
「開けるぞ」
襖を開ける。
その光景は、やけに大地の眼に鮮明に映った。
その部屋を見て、特に印象的なのが、夜なのに開けっ放しにされているカーテンと、その窓から覗く、やけに綺麗に見える三日月。
そして、誰も使っていない一式の布団。
「……サラ?」
この眼で部屋を確認したにも関わらず、無意識に名前を呼んでしまっていた。あまりにもいつもの光景で、あまりにもいつものように、そこに少女が眠っていると錯覚してしまっていた。
しかし、どんなに待っても大地の呼びかけに返ってくることはなく、月を取り巻く雲が静かに動いているだけ。
胸の中の不安が、じわりじわりと、身体全体に広がっていく。
大地は開けた襖をそのままに、焦りの表情を浮べたまま階段を駆け下りた。
逸る気持ちが修まらない。あれを確認する為に、居間へと急ぐ。
急激な動きに、怪我した箇所が悲鳴をあげる。だがそんなちんけな痛みなんてどうでも良かった。それよりも今は、サラの姿を確認できないことの方が、大地の中では遥かに大事なことだった。
階段を降りてそのまま真っ直ぐ居間へと向かう。着いたと同時に、隅にあるスイッチに手を伸ばし、居間の明かりを点ける。
大地に取り巻く得体の知れない不安は、そこで現実のものとなった。
「……ない……」
サラがこの家を訪れた日からそこにあったものが、今、見当たらない。
「どうしたんですかこんな時間に……って大地。もう起きても大丈夫なんですか?」
「おい牡丹! サラを見かけなかったか!?」
隣の部屋で眠っていた牡丹が、明かりと騒がしさに気付き目を覚ました。大地は剣幕な表情で牡丹に問い詰める。
「え? サラ、ですか……?」
いきなり何の質問だと少々牡丹はうろたえた。事情を知って焦る大地と、起きたばかりの牡丹ではかなりの温度差が出来ている。
隣の部屋で牡丹と共に寝ていた時雨も、騒ぎに気づいたのか、寝ぼけ眼のまま居間に集まってきた。時雨も牡丹も自宅から持ってきた寝巻きを身につけていた。
時雨が何事だと怪訝な表情を浮べている。
「騒がしいぞ。近所迷惑になる……」
「会長! サラがどっかに行っちまった!」
言われて、大地の尋常じゃない程の落ち着きのなさに時雨は気づいた様子を見せた。己の怪我も省みずに必死になっている表情を見て、逆に冷静になってしまっている。
「落ち着け。まだそうと決まった訳ではないだろう。丁度トイレにでも行っているのかも知れんだろう」
時雨の意見は最もだ。この家は無駄に広い。トイレではなくても、もしかしたらどこかの部屋にいるのかもしれない。
しかし、大地はすでに少女が家にいないという確信を持っていた。それを知っているからこそ、少年は焦っていたのだ。
「ここに掛かっていた、あいつのマントが無くなってるんだよ!」
大地が指を指した壁には、何も掛かっていない。
「サラがこの家に来てから、あのマントは一度も使わなかった! それが今になって無くなっているって、どう考えてもアイツに何かあったとしか……!」
「しかし、ここ数日のサラは、特に様子がおかしいところはなかった筈だぞ」
「いえ……」
時雨の言葉を牡丹が遮る。
確かに、家に戻って来てからの少女の態度は、特に変わった様子はなかった。だが……その前はどうであったか?
牡丹は雨の降りしきる中で、一人座り込む少女の姿を思い出した。雨だけでなく、泥を被ったような少女の姿。そして、不自然すぎるほど自然な、少女の笑った顔。
なんでもないと言って笑っていたあの顔。
「……やはりあの時、サラの身に何かあったのでは……」
「!」
少年に衝撃が走る。
「何かって……何があるんだよ……!」
「それは……」
大地に迫られ、牡丹は言いあぐねてしまう。
言いながらも分かっていた。けれど認めたくなかった。何処にも行く当てのない少女がこんな夜中に、誰にも何も言わずに出て行った理由なんて、この状況で分からない程、生闘会の面々は馬鹿ではない。
沈黙。
ここにいる三人が、全く同じことを想像していた。それは少女が消えた理由として一番納得のいくものであり、一番否定したい出来事だった。
サラは、あの雨の中で、レオンと遭遇していたのではないか。
義兄に会って何かを吹き込まれたから、この家を出て行ったのではないか。
もう、それしか考えられなかった。
時計の秒針の動く音が、やけにはっきりと聞こえる。
ゴンッ! と。
その沈黙を破ったのは、鈍い音。同時に、僅かに家が揺れる。
思わず、時雨と牡丹は眼を瞑り、視線を背けてしまっていた。
大地は無意識に、無言のまま拳を壁に殴りつけていた。その手が微かに震える。
赤く滲んだ壁を睨みつける。頭の中は、苛立たしさと腹立たしさと後悔で一杯になっていた。
――なんでアイツが苦しんでいる時に、呑気に眠っているんだよ俺は……!
「……クソッ……!」
「まて!」「大地!」
無意識に玄関まで走り出していた。時雨たちは咄嗟に追いかける。
「落ち着け! サラの居場所も分からないのに、貴様は何処に行こうというのだ!」
「会長の言う通りです! それに、あなたはあの男のせいで酷い目に逢ったのをもう忘れたのですか!?」
「うるせえ! んなもん関係ねぇ!」
二人の言葉を振り切る。
じっとしていられるわけがなかった。一体何の為に、自分はあの少女の面倒を引き受けたのだと。こんな中途半端な別れの為に、この家に招いたのではないと。
サラが一体どんな思いで、この家から姿を消したのかは知らないが、その顔に笑顔はなかったという事くらい、混乱した頭でも容易に分かる。
故に少年は走る。
廊下を曲がり、時雨と牡丹が玄関に向かった時は、既に大地の姿は消えていた。その代わりに開けっ放しにされた玄関の引き戸が、ガタガタと風で揺れていているだけ。
「会長……」
牡丹は時雨の顔を不安そうに見た。
時雨は乱暴に開けられた外の先をぼうっと眺めたまま、深くため息を吐いた。
「……全く、馬鹿者が……」
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