月明

 日付が変わる少し前。

 サラは一人、二階にある部屋でその時を待った。

「……」

 サラは静かに襖を開け、部屋を出る。その格好は寝巻きではなく、牡丹に選んで貰ったブラウスとチェックのスカートを身につけていた。サラが一番気に入っている服だ。

 部屋を出ると真っ暗な視界が広がっていた。通路は何処に延びているか、階段は何処にあるかは、普段使っているのでなんとなくは分かる。けれど、決定的に違うところがあった。

「ここって、こんなに静かだったっけ……」

 この家に来てから、初めて抱いた印象だった。サラがこの家にやって来てまだ数日しか経っていないが、いつもやかましくて賑やかなイメージしかなかった。空気が研ぎ澄まされたように静まり返った今のこの家は、実は別の場所なのではないかと疑ってしまう程、そのギャップの違いに驚いた。

「そうだったんだ……」

 考えなくても分かってしまった。今のこの状態が、この家の本当の姿だということに。元々はこういう家だったのだ。

 うるさくて、やかましくて、賑やかにしていたのは、家ではなくて住む人。大地と、そして自分自身だったということ。

 隣の部屋の襖をゆっくりと開ける。

 大地が意識を失った状態で家に帰って来てから、サラは一度も大地の顔を見てはいない。

 もとを辿れば、原因は私。合わせる顔なんてある筈がない。

 理由はそれだけではない。

 あの冴えない顔を見ると、押さえ込んでいた想いが表に溢れてきそうだったから。


 そうやって、自分の気持ちに嘘をついて過ごした三日間だった。けれど、約束の時間がこうして迫ってくると、最後まで顔を合わせずに、というのはどうしても我慢できなかった。

 静かに、部屋に足を踏み入れる。

 その部屋は明かりもないのに、部屋の中がぼんやりと明るかった。

 カーテンの隙間から、外の様子が分かる。この三日間は少女の心情を現しているかのように分厚い雲に覆われていた。なのに今は皮肉にも、雲の間から遠慮がちに三日月が顔を出していた。

 その月明かりが、この部屋でぐっすりと眠っている少年をやさしく照らす。頬に痛々しくガーゼを貼った少年の顔が、サラの目に映った。

 サラは少年の傍に腰を落とした。月明かりに照らされたサラの瞳は、この世のものとは思えないほどの幻想的な輝きを見せた。宝石のように綺麗で暖かな眼差しは、目の前の少年を慈しむ。

 サラはそっと、大地の頬に優しく触れた。

 少年はとても暖かかった。触れた手は体温以上の温もりを感じた。自分の手が酷く冷たいわけでもない。少年が高熱を帯びているわけでもない。月島大地という少年そのものが、存在が、触れた手を通して伝わってきたからだ。

 だから、少女はやはり後悔してしまった。最後に少年に触れてしまったことを。

「なんで、最後にあんたの顔なんか見たんだろう……」

 そんな事は自分で分かっているのに、眠っている大地に問いかけた。返事は返ってこないが、それでも構わないと少女は続ける。

「考えたら、私はこの家にきて数日しか経ってないのに、どうしてこんなに未練が残っているのかしら……」

 フフッと、小さく笑みがこぼれた。

「これもきっと、あんたのせいよ。本当、余計なことしかしないんだから……」

 文句を言っているのに、少女の眼差しは慈愛に満ちていた。普段からこんな風に接してていればよかったかな、と少し反省する。

「結局、お箸の使い方、教われなかったわね。あんな素敵なプレゼントを貰ったっていうのに……。けど、もう必要なくなっちゃった……。元から必要なかったのよ、私には。……最初から、この家にいる資格なんてないから……」

 自分の手を、そっと大地の手に重ねた。

 ビルの上から必死に私を掴んでくれた、素敵な出会いのきっかけを作ってくれた、少年の無骨な手。

 まだところどころに、レオンから受けた痛々しい傷が見える。サラは優しく包み込んだ手をギュッと握り締めた。

 このぬくもりが、自分にとってどれほど大事なものだったかを、今になって知ってしまう。

 悔やんでも悔やみきれない。

 このぬくもりから離れるのが、怖かった。

「……私、人間じゃないんだ……」

 聞こえていないから、本当のことを話すことができる。

「義兄さんが言うには、私の中には通常の人間では到底考えられない、とてつもない力が眠っているらしいの。だからそれを覚醒させる為に、物心ついた時から、グールを殺すよう命令された。義兄さん以外の人と関わることも一切なく、来る日も来る日も、あの紅い眼の怪物を相手にしてた。気が狂いそうになったことは何度もあるわ……。その度に、私の中に増えていくのは、義兄さんに対する恨みばかり……。あの屋敷にいて、全く楽しいことなんてなかった。笑うことなんてなかった」

 そう。だからこそ――笑顔になるきっかけをくれた、この家を好きになった。この少年に心を許すことが出来た。

 少女の視界がゆっくりとぼやけていく。自分にはそんな資格はないと分かっているのに、身体がそれを認めない。

「だから、屋敷を抜け出して、こんな小さな島国で大地に出会えて、本当に良かったと思ってる。笑顔になれるきっかけをたくさんくれたのに、結局最後まで、大地の前では上手く笑えなかったけど……」

 必死に口角をあげようとしても、身体が言う事を聞かない。心の奥に押し込めようとしたはずの感情が、押さえ切れない。

 ぽつりと、

「いたいよ……ここに、まだこの家に、もっと――」

 か細い声は震える。

 言いたくても言えなかった、少女の望み。

 そんな簡単な願いすらも、叶える事ができない。

 悔しい。自分で何一つ抗えない事が、こんなにも悔しい。

 溢れた想いは、少女の小さな手に一粒、まだ一粒と零れた。その涙は重ねられた少年の手にも流れ伝う。

 どれくらいの間、声を押し殺しただろう。まだ、まだ離れたくないと思っているのに、時間は容赦なく進んでゆく。



 少女は乱暴に、ゴシゴシと涙を拭う。

「……そろそろ行かなくちゃ。本当はもっとこうしていたいけど……。これ以上、迷惑はかけられないもの」

 名残惜しくも、重ねた手を離す。最後にサラは、少年のおでこに顔を近づけ、

「大地が、私の本当の兄さんだったら……」

 まだ幼さの残るその小さな唇で。少年に優しく触れた。

 立ち上がり、少女は静かに部屋を出る。

 そして、少年の寝顔を最後まで見つめながら、

「バイバイ……」

 

 そっと、襖を閉じた――――。

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