撤退1
目の前に立つ強敵を前に、大地は吼えた。
ビルの上で掴んだ少女の、サラの瞳からこれ以上涙を流させない為に。
「……それだけか?」
無表情になったレオンが、そう尋ねた。
「それだけだよ。悪いかクソ兄貴」
「情に満ちた台詞を並べてくれてそれは結構だが、それは妹に対して間違っているのかもしれないぞ?」
「間違っている……?」
レオンは目だけで周囲を見回した。
周囲の炎はさらに過激に燃え盛っていた。二人が立っているこの場も、炎熱が吹き荒れ、至るところで火のこが舞っている。
レオンは下らないと言わんばかりに、小さく鼻を鳴らした。
拳銃を向け、撃鉄を起こした。シリンダー内には残り一発、弾が残っている。
「貴様に話したところで無駄なことだ。さて、ここもそう長くは持たない。居場所を吐く気が無いなら、次で本当に殺――」
気配に気付く。
少年ではない別の視線を感じ、レオンは振り返った。
「……鼠がゾロゾロと」
予定外の敵を目にし、レオンは苛立ちの声を混じらせた。
大地はレオンの背後に見える二人の影を確認した。刀を構えた牡丹が厳しい目つきでレオンを睨みつけている。その隣に、現場にいる事が珍しい時雨の姿も。
「「大地!」」
二人が何か叫んでいるが、今の大地にその声は聞こえていない。
「お、遅いぞ……い、い加減……まち……くた、び……れ」
大地は糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。
瞬間。
ブレザー姿の二人の内、一人が姿を消した。
レオンはその一瞬を不覚にも見逃した。今見える視界の中に、刀を持った少女の姿がない。
だが静かな殺気は感じていた。死角から迫られているのだとすると、
「上か!」
上空から刀を縦に構えた牡丹が、狙いを定めて急降下してくる。その眼は酷く据わっていた。
放たれる殺気に呼応するように、鍔から切っ先までの刀身がギラリと光る。一つに束ねた後ろ髪が重力に逆らうように激しく揺れる。
燃え盛る炎を背に敵を討たんと飛び掛る少女。纏う空気に、その刀のように鋭い怒気を感じる。
「小癪な!」
レオンは避けることも反撃することもしない。間に合わないと判断したのか、持っていた拳銃で、振り下ろされる刀をかろうじて防いだ。
ギイン、と。金属同士がぶつかり劈くような衝撃が、両者の耳の奥にまで響いた。
「……あの時の小娘か!」
「そういう貴方は、グールを操ってサラの命を奪おうとした兄、ですね」
「勘違いするな。あれは不可抗力だ。それに、死んではいないのだろう?」
牡丹の両手に力が篭る。
牡丹とレオンの視線が交差する。少女の瞳がやけに小くみ見える。
「冷静さを欠くと碌な目に逢うというのを知らんのか。瞳孔が開いてるぞ。そんなにあの小僧を痛めつけた事に腹を立てたか?」
「ええ。今すぐにでも貴方を同じ目に遭わせてあげますよ」
「……身の程知らずが」
二人の力が拮抗する。
攻めと守りのこう着状態が飽和し、不意に双方が弾かれる。牡丹は大きく後方に飛び跳ね、レオンとの距離をとった。
「牡丹!」
その声に、牡丹はハッとする。
「っ、会長」
「もういい。そこまでだ」
この状況にそぐわない程、静かにその声は響く。
声に反応し、据わっていた眼がゆっくりと元に戻る。牡丹が振り返った先には、静かに怒りを滲み出している表情の、時雨の姿がそこにはあった。
「優先順位を間違えるな。長居は無用だ。さっさとここから脱出するぞ」
今の状況を冷静に判断し、時雨は会長として牡丹に指示する。言われた牡丹は「……分かりました」と小さく返事をすると、レオンに向かって睨みつけるように一瞥した。握っていた刀は、ぼんやりと光を放った後、もとの石の形に戻った。
「ほう、この場にまだ冷静な者がいるとは、なかなか利口な犬もいるようだな」
レオンは時雨に敬意を払ったつもりだが、時雨はそれを拒否するかのように、刺すような視線を向けた。
「貴様、勘違いするな。私も牡丹と気持ちは同じだ。これでも、貴様の喉を食いちぎってやりたいくらいの憤怒をどうにか抑えているのだ」
時雨の拳は硬く握られている。「そうしないのはただ、貴様如きよりも優先する事があるというだけだ」
酷く冷静に放たれる言葉からは、工場を包む炎のように、激しい怒りを感じた。
この状況下で怒らないほうがおかしい。仲間が酷く傷つけられて、まともでいられるような出来た人間は、空澄美高校生闘会の中には誰一人として存在しない。
時雨は倒れている大地の傍により、拳を解いた手で優しく頬に触れた。
「馬鹿者が……」
その言葉とは正反対な眼差しを大地に向ける。
外傷は酷く、意識も失っている。だが致命傷となるような怪我は見当たらない。幸い命に別状はなさそうだ。頼りない呼吸を、時雨の手が僅かに感じとれたことで、時雨は一先ず安心した表情を見せた。
身体を抱え、時雨は腕を回して大地の肩を持った。
「牡丹、反対側を持ってくれ」
「は、はい」
言われるまま牡丹は大地に駆け寄り、時雨と一緒に気を失った大地を担いだ。ここから脱出しようと二人は立ち上がる。
「待て貴様ら! 私がこのまま貴様らを帰すと思うか! 妹の居場所を言え! さもなくば、貴様らも、その小僧と同じようにしてやるぞ!」
「…………」
その言葉を無視し、二人は大地を抱えたまま工場の外へ向かって歩き出す。この場を離れる直前、レオンに背を向けた状態で、時雨が口を開いた。
「この男がこんな状態になっても、少しも口を割らなかったんだぞ? 私達が簡単に言うとでも思うのか?」
「そうか……では」
その銃口を時雨の背に向け、
「死ね」
引き金に指をかける。
その時、レオンの目の前を真っ赤な炎が走った。
地鳴りのような轟音を響かせながら、工場内にあった設備や鉄柱が、時雨に狙いを定めていた筈の銃口の先に激しく倒れこんだ。衝撃で、地面が激しく揺れる。
周囲は完全に火の海と化していた。ちぎれた電線は激しく火花を散らしながら暴れまわり、炎をまとった瓦礫や鉄クズは、場所を選ばずに散乱している。上を見ると、天井は炎の熱で焼け崩れ、雨雲が覗き込んでいた。
揺らめく炎の間から、工場を脱出する時雨たちの後ろ姿が目に入る。
「ッチ……」
レオンは舌打ちをして、構えていた拳銃をスーツの中にしまった。
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