約束

「む~……」

「おい、今日はもう諦めたらどうだ。朝飯が冷えちまうぞ」

 朝食を食べ終わり、既にお茶で一息ついている大地の提案には一切耳を貸さず、サラはぷるぷると震える指先を、眉間に皺を寄せながら訝しげに睨んでいる。用意されたサラのご飯は、一向に減っていない。

 右手の一指し指と中指に全神経を集中させる。ゆっくり、そうゆっくりと自分に言い聞かせながら指を動かすが、

「あっ」

 ポロっと、手の中から箸が一本、テーブルの上に落下した。指と落下した箸を交互に見ながら、

「ああ~もうっ。なんで落ちるのよっ」

 フンっと鼻を鳴らし、プンスカ怒っている。

 大地はこの短い時間で、同じ光景を何度見たことか。

 

 ――それは些細な出来事だった。いつものように大地がご飯を食べていると、サラがスプーンを咥えたまま、大地の右手にじっと視線をむけていた。

「……私も箸で食べたい」

「ん?」

 薄々気付いてはいたが、食事をする時に、自分の為にスプーンとフォークが用意されていることを気にしていたらしい。大地はただ、箸よりこっちの方がいいだろうということで、あえて用意はしなかったのだが、あの眼をみると、サラはどうしても箸で食事がしたいらしい。

 別に気にするようなことではないだろうと思いつつ、サラに答える。

「食べたいってもお前、箸なんて使ったことないだろう」

「使ったことないけど、きっと大丈夫よ。ドンくさい大地が使ってるくらいだもん」

 朝っぱらから言ってくれる。大地もこれで反応したのがいけなかった。

「じゃあ使ってみろよ。どうせ無理だろうから」

 ケンカ越しに挑発してしまい、

「フン、片手で二本の棒を操るくらい、朝飯前よ」

 

 ――と、余裕綽々なサラに箸を渡したのだが、生憎大地の予想通り、何の罪もない箸を睨みつけている。サラの朝食はまだ終わりそうもない。

「ああっ」

 通算二十三回目の箸の落下を確認したところで、これ以上は待ってられんと大地はサラをなだめる。

「だーから言っただろうが。箸って意外と難しいんだぜ? もうスプーンを使って食っちまえよ。洗い物が終わらんだろ」

「ちょっとまってよ。見てなさいよ、今に華麗に箸を使いこなしてやるんだから」

「別に箸にこだわらなくても、飯は食えるじゃねーか。挑発に乗った俺も悪いと思ってるから。今日は学校だし、もう時間がないんだよ」

「い・や・よ」

「あぁ?」

 サラはまた一段と食い下がる。この頑なな態度に、大地も次第に頭に血が昇ってゆく。

 なんでこいつはこんなにも頑固なんだ。なんでいちいち人を怒らせるような態度をとるんだ。外国人だからって関係ない。年下だからって関係ない。ここは一発びしっと、誰かが言ってやらないと、こいつの為にならない。

「おい、いい加減に」

「ずっと箸が使えなかなったら、いつまでも私は、この家に来たお客さんみたいじゃない。そんなの絶対いやよ。私はこの家の人間なんだから」

「し……ろ……」

「? なによ」

 先程までの怒りは、気付いたらどこかに飛んでいってしまった。何のことはない、少女にはこだわらないといけない理由があったのだ。こんなことを言われて、いい加減にしろと怒れるわけがない。

 サラは未だ箸と格闘している。

 少女は少女で、この家に住むことに対して、何かしらのことを自分なりに思っていた。ただの傍若無人なワガママ娘ではなかった。

 それがわかって、大地は思わず微笑する。

「……分かったから、とりあえず今はスプーンで食え」

「いやだって言ってるでしょ、私は箸で」

「今日帰ってきたら、ちゃんと使い方を教えてやるから、それでいいだろ」

「え?」

 キョトンとした顔を見せる。通算二十五回目の箸の落下を確認したが、これはノーカウントと判断していいだろう。

 サラの顔が不意にほころんだ。だがすぐに、顔を横に振って表情を元に戻し、

「や、約束よっ。破ったらサンドバッグの刑だからね」

 そう言って、サラは大地に十五分程遅れて、少し冷めた朝食をスプーンで食べ始める。

「……絶対にやぶれないな」

 サンドバックになった自分がサラに殴られる様子を想像しようとしたが、あまりにも酷すぎてモザイクが掛かる為、これ以上は想像するのをやめた。

 

「じゃあ、俺はもう学校に行くけど、昼飯は冷蔵庫に準備してあるから、チンして食べろ。電子レンジの使い方はわかるよな?」

 サラが急いで食べてくれたおかげで、学校に行く前に洗い物を済ませることが出来た大地は、玄関で靴を履きながらサラに留守番を頼んだ。

 サラはコクリと頷くと、

「大地は何時ぐらいに帰ってくるの?」

 少し不安げな表情で尋ねる。

「そうだな……学校が終わった後、夕飯の買い物して帰るから、十八時には……ってどうした? もしかして、寂しいとか言うんじゃねーだろうな?」

 大地はからかうように聞くと、サラは取り乱したように顔を赤く染めた。

「ば、ばか言ってんじゃないわよ! はははやく約束を守ってもも、もらいたいだけよ! べ、別に寂しくなんかないもん!」

「言われなくてもちゃんと教えるよ。サンドバックになるのは嫌だからな」

 玄関の戸を開けて外へと向かう。

「大地」

 不意に呼び止められる。大地はまだなんか言いたいことがあんのか? と振り返った。

「い……いってらっしゃい、大地」

 手を後ろに回し、頬を染めたまま、もじもじと恥ずかしそうに言われた。

 言われて少し、戸惑ったが、

「おう、行ってきます」

 戸を閉めて、大地は家の門をくぐる。

 歩きながら、そういえば、あんな言葉を言われたのは久しぶりだということに気付いた。幼いころに両親を亡くし、姉と二人でどうにか生きていたが、姉が家を空けてから、全て一人で生活の雑務をこなしてきた。

「行ってらっしゃい」この言葉を聞いたのは何年振りだろう。長い間一人暮らしに慣れていたが、やはり、家に誰かがいるのは悪くないなと、改めて思う。

「……家にある箸は、あいつの手には少し大きかったよな……」

 そんなことを思い出しながら、大地は学校へと足を運んだ。

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