第八話「人間と家畜②」

咀嚼音と共に口からあふれ出る液体は、涎だけではなかった。一噛みするごとに、残り少ない理性が蒸発していく。口の中一杯に広がる鉄臭い味が、こうも愛おしく思えるなんて。最初はほんの好奇心だった。禁秘を破る背徳感と未知へ挑戦する冒険心。なるほど、協定で禁じられるはずだ。この世界の知的生命体である自分が、簡単に一匹の獣へと成り下がる。面白い、いや、美味しい。知ってしまったからには、もう、我慢する必要も無い。近いうちに自分は殺されるだろう。無慈悲に、むごたらしく、惨めに害獣として駆除される。でも、後悔は無い。今は自分の本能に従おう。ほら、いい匂いがあそこから漂っている。最高の楽園か、終わりの場所か。


虚ろな目をした妖人が、手に持っていた「何か」の足を投げ捨て、誰かに誘われるようにここからそう遠くない場所へと向かった。



アルパードが目の前の畜人を見ても、幾分か冷静でいられたのは彼の良心や人間性によるものではなかった。


「ここでは、こういう畜人も育てていたのか」


ただ単に知識と経験が不足しているだけであった。もし、ほんの少しでも畜人の研究を実践していたのなら、人間のように感情豊かに話しかけてくる畜人の存在がどれほどおかしいものか理解できたのかもしれない。


「金持ちの愛玩用か?」


だが、アルパードは目の前の畜人を、知性があるように振舞っているだけだとしか思わなかった。


「この世界ってどういう場所なの?」


自分を見上げる畜人の質問内容が、その思い込みにより一層拍車をかけた。あまりにも初歩的で抽象的な質問。確かに暇つぶしには丁度いいし、需要もあるかもしれない。要するに子供がやるようなお人形遊びをもっと高度にしたものだろうか。なら、研究の一環としてどれほどのものか試してみるか。


「ここは人間と妖人が共存する世界だよ」


アルパードは、童話の内容を話すように畜人に語りかけた。


「妖人?」


「そう、僕達人間と同じ知性を持つ生物さ」


訝しげに見つめてくる畜人を、アルパードは生暖かい目で見つめた。知識レベルは幼児あたりと検討をつけて、慎重に言葉を選びながら会話を続けた。


「過去に僕達と大きな喧嘩をしてね。今ではお互い会う事はないんだけど、年に数回は話し合いのために集まるんだ。でも普段は勝手に相手のところに行ったら駄目だし向こうもそれは同じだよ」


アルパードは、農村部の子供でも知っている世界協定会議を出来るだけわかりやすく説明したつもりだったが、畜人の顔はどうも合点がいっていないようだった。やはりあらかじめ決められた反応しか出来ないのだろうか。確かに表情の作り方は上手いし、発音や言葉遣いも人間に近い。それにこの目だが、どういうわけだかこの放牧場にいる畜人とは何かが違う。


「ごはん、たべたいです」


背後から聞こえた声にアルパードは振り返り、頷いた。そこにいたのは、朝方から度々餌を求めてくる畜人だったが、今のアルパードは妙に安心した。ぼんやりとした瞳に、知性を感じさせない表情。やはり畜人はこういう生き物だろう。何かの勘違いだろうと気を取り直し、アルパードは先程会話らしきものをした畜人へと振り返った。


「楓……」


アルパードは自身の正気を疑いそうになった。自分の目の前にいるのは畜人のはずだ。


「楓……カエデ、カエデ!!お姉ちゃんだよ!!」


なのに、目に涙を浮かべて必死に畜人の品種名を叫ぶ目の前のそれが、人間にしか見えない。肌の色が自分と同じ白だから余計にそう見えるのか。いや、だが。ここにきてようやくアルパードは目の前にいる畜人の異常性に気がつき始めた。そして、そのせいで自身にゆっくりと近づいてくるもう一つの異常なものに、反応が遅れてしまった。




「全員寝ていた、だと?」


畜人が部屋からいなくなっていたのに、施設内にいるだれもが気がつかないなんてことがあるか?事態の異常さに気がついたパイルは、真っ先に疑いの目をサーバスに向けた。


「はい……信じられない事にこの部屋にいる私達以外全員が、その、眠りこけていました」


同じような目線をサーバスに送りながら、マギアは答えた。


「しかも……施設内の警報設備や魔力反応抽出炉もです」


カテロナに至っては、全身から疑惑の感情を隠そうともしなかった。


「一体、誰の仕業でしょうか」


全裸で街中を歩いている事に気がついていないような態度で、サーバスは腕を組んだ。


「……ともかく今は事態の収拾に努めよう。もし脱走したとしてもまだ遠くにはいっていないはずだ」


サーバスを含む全員が神妙に頷いた。


「最悪の場合はその場で殺処分も辞さないつもりでいけ」


サーバスを除く全員が、畜人とハゲオヤジの姿を思い浮かべた。


研究者としては存分にあの畜人を調べたいし、運営者としてもかけてきた予算は惜しい。信仰心については微塵の罪悪感も感じはしない。


「あの生臭神官どもさえいなければ」


パイルは歯軋りをした。この人間が住む大陸を蝕むあの泡神とかいう輩を、今すぐにでも殴り殺してやりたい。もしかしてこの事態も泡神の野郎が引き起こしやがったのか?


「パイル所長……」


性犯罪者が大量殺人犯を見るような目つきで、サーバスが不安げに訪ねた。


「ああ、大丈夫だ。下手に周囲に勘繰られたくない。私達だけで行くぞ」


パイルは自身の胸ポケットに入れてあるものの重量を確かめた。




「あれ?」


椿の視力が一つの物体を捕えた。それは真っ直ぐにこちらへ向かってくる。自分の傍にいる男と楓は、気づいていないようだった。それは突如走り出した。近づくにつれ、その姿がはっきりと見えてきた。


形は人間に似ている。特徴的なのは肌の色だった。青、というより紫色に近い。髪は黒いが長年手入れを怠ったかのように乱雑に伸びている。そして、元は白かったであろう服には、まるで行儀が悪い子供の涎掛けのように所々に染みがついていた。


顔についている鱗が見えるまで近づいてきたそれは、こちらをじっと見つめていた。


「ねえ、もしかしてこれが妖人?」


椿は横にいる男に尋ねた。どういうわけか、顔が引きつっている。


「ねえ、どうし……」


言い終わる前に、柔らかいものを千切る音がした。直後に頭上へ生暖かいものが降りかかってくる。あれ、これって見たことがある。ねえ、楓。何だったっけ?どうして無視するの?


さっきまで楓と呼んでいたものの頭部が、地面に転がっていた。椿はそれを自然現象かなにかを眺めるように見ていた。

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