VOYAGE 9
群狼 ①
ニューウェスト港はただならぬ緊張感に包まれていた。
町は今まで各勢力が微妙な均衡を保っていたというのに、その中で最も力のあるロッシュ・ファミリーの下に帝国が目の敵にしている大物海賊が加わったとなれば、警戒心を高めぬほうがどうかしている。
これが名も無き一海賊であったならば気にもかけなかったことだろう。
ロッシュとてそうだ。
よそ者が大きな顔をしていれば、この町のルールを苦痛と恐怖を以って思い知らせるところだが、なにせ相手は帝国の皇女を手にかけた上に、監獄島をも破った猛者たちだ。
噂は尾ひれがついて次々に話が膨れ上がって町中に伝わり、ヘンリーたちが市場や繁華街を闊歩すると周囲にいたはずの人影は霞のように消え失せた。
マフィアと手を組んだ以上、いつ他の勢力から襲撃を受けるのか分からないので、ロッシュの縄張り内であっても常に三人以上で行動するように部下たちに言いつけたヘンリーは、縄張り内の店を自由に利用してもいいとロッシュから許可されたことをいいことに昼間から飲み歩いていた。
左手にラムの瓶を携え、右手でピストルを器用にくるくると回し、腰に差したサーベルとカットラスをカチャカチャと鳴らしながら町を練り歩く。
傍らを歩くルーネも呆れ返ってものも言えなかった。
が、場馴れしていない彼女でさえ肌にピリピリとした空気を感じるというのに、そんな緊張感などまるで毛ほどにも感じていないヘンリーは流石だと半面感心し、ただ黙ってついていく他に術がない。
そしてヘンリーの背後を守るべく付き従っていた黒豹も、相変わらず獣じみた雰囲気で周囲を威嚇しまくっている。
少しでも船長に近づこうものなら途端に飛びかかって喉を切り裂く勢いだ。
おかげでルーネも安心して町の中を歩けるわけであるが、如何せんこの二人の間に自身のような小娘がいるというのは妙な光景だろうと自嘲していた。
せめて後4、5年ほど育っていればヘンリーの傍らに立っていても映えただろうに。
と、いつの間にやら自嘲から歯軋りに変わっていたことに気づき、微かに顔を赤らめていると、不意にヘンリーが立ち止まった。
その視線の先には一件の酒場がひっそりと佇んでいた。
しかしそこいらにあるような派手な店ではなく、潮気が漂う船乗りたちの溜まり場のようで、扉に掛けられた舵輪のオブジェが中々良い趣味をしている。
「入るの?」
ふと気になったのルーネが尋ねると、ヘンリーはにやりと笑って彼女の頭を掴む。
「腕の良い連中はこういうところに集まるもんだ。黒豹、ちょいと募集でもかけるか」
「分かったよ。ウィンドラスがいてくれりゃ良かったんだけどねぇ」
「あいつはどちらかと言えば商人だとか牧師だからな。理屈をこねさせりゃ、口先では勝てる気がしねえよ。まあいざとなりゃ、こいつがモノを言う」
ヘンリーは懐から金貨を取り出して見せ、それを上着のポケットに入れつつ店の戸を押し開けた。瞬間、店内に立ち込めていた紫煙の香りが鼻につき、人相の悪い船乗りたちが来店者を奇異なものを見るような視線を向けてきた。どいつもこいつも荒くれ者といった風貌で、荒波に揉まれて生きてきた生粋の船乗りばかり。
ヘンリーはひとまず空いていたカウンター席に腰掛け、この手の店では珍しい老婆の女将に声をかけた。
「婆さん、この港の船乗りどもはどいつもこいつもシケた面をしてやがるなぁ。とても海の男とは思えんお砂糖みてぇな連中ばかりだ。特にここにいる奴らときたら、まるで海底の砂に隠れる貝みてぇじゃねえか。えぇ?」
いきなり何を言い出すのかと思えば、猫背の女将に向かって次から次へと船乗りたちの神経を逆撫でするような罵声を並べ立てた。当然彼らが黙っているはずもなく、喧嘩上等とばかりに腕を撫す荒くれ共が席を蹴り、あっという間に取り囲まれたルーネは足の震えをグッと堪えてヘンリーに目を向けると――。
「おうおう、お砂糖どもが一端に腹を立てるとはお笑いだ。手前らは大方商船乗りってところか? それとも客船か? まったくお笑いだ。一匹の男が主人に鞭打たれる荷馬に成り下がってやがる。いいか、手前ら、その耳かっぽじって聞きやがれ!」
ヘンリーの一喝によって、腕を振り上げかけていた男たちの手がぴたりと止まった。
「手前らは何のために生まれた! 何の為に海に生きている? 荷馬として奴隷のように働く為か? 海のことなぞ何も知らん商人の顎で使われる為か? それとも小うるさい客どものご機嫌取りの為か? そんな生き方を選ぶくらいなら、今すぐ船を降りて陸でちまちまと生きるがいい! 無意味な一生をかけて端金を握り、土や泥にまみれて墓場に埋まるがいい!」
有無をいわさぬ物言いに彼らの怒りが吹き飛ばされていく。
ヘンリーは喉を鳴らしてラムを飲み下し、さらに言葉を力強く紡ぐ。
「だが俺はそんな一生など真平御免こうむる! ただ喰われるだけの人生など、ただ無意味に長くダラダラと生きる人生など、そんなものは今すぐに捨てちまえ! 国の法も、神の教えも、海の掟の前では全て糞以下だ。弱肉強食こそが海の掟。荷馬は肉となり、狼こそが腹を満たす。見ろ、この黄金の輝きを」
ポケットから取り出した金貨の魔力に、男たちはすっかり魅入られた。
もはやヘンリーの言葉を拒否する者などいない。
むしろ、次に彼が何を言うのか、ルーネも含めた全員が耳を傾けていた。
「黄金だけではないぞ。食い物も、酒も、女も、俺についてくるならば望むものは全て手に入れさせてやろう。力こそが海の正義。世間では賊と忌み嫌われようとも、結局は力のあるものこそが生き残る。この俺の船に乗れば力を与えてやる。富と快楽を与えてやる! 陸で働く何百倍もの黄金を、商船や客船よりも遥かに心地よい愉悦を! この俺に、ヘンリー・レイディンの船に乗るならばな!」
足を組み、カウンターに肘を載せて真っ向から海の男達の燻った心を震わせたヘンリーの饒舌ぶりに、ルーネも彼らと同じように武者震いを覚えた。あるいはヘンリー・レイディンという男の真髄は、腕っ節の強さでも、吹き荒ぶ嵐を乗り越える航海術でもなく、人間の欲望を巧みに掴む人心掌握術にこそあるのではなかろうか。人種も身分も一切関係なく、ただ一人の人間の心を掴んで離さない、魔性のような何かが彼には確かにあった。
兎も角も酒場にいた船乗りたちはすっかりヘンリーの言葉に呑み込まれてしまい、今までの辛く安く将来に希望の見いだせない船に別れを告げ、海の狼の一員となることを誓った。
ヘンリーは老婆に金貨を手渡し、店にあるだけの食べ物と飲み物を皆に振る舞うように注文し、陰気な酒場は一転して飲めや歌えやの大騒ぎとなった。
すると普段は静かなはずの店が繁盛していると聞きつけた他の船乗りや地元の不良たちも集まり、かの悪名高き海賊船長がいると聞くと、誰もが一目見てやろうと彼の周囲を取り囲み、さらに彼の武勇伝を聞こうと耳を立て、先ほどと同じような演説が皆の心を海へ駆り立てる。
船乗りは元より、町の不良たちまでもが仲間に加わりたいと申し出た。
その中にはロッシュ・ファミリーと敵対する組織の下っ端まで含まれており、やはり彼らも悪に憧れてマフィアの道に入ったものの、出世する希望もなく、ただただこき使われるだけの日々に嫌気がさしていたようだ。
組織の頭も雲の上のようなもので直接話すことも許されず、逆に誰とでも酒を酌み交わすヘンリーの気さくさに魅了されたらしい。
海に出た経験はあるかと問われた彼らは、未だ無いが自分たちは若いのですぐに仕事も覚えてみせると詰め寄り、そんな彼らの意気込みを気に入ったヘンリーは例の誓約書にサインさせた。
かくして一度に30人以上の新入りが加わったレイディン海賊団の影響力は益々ロッシュを含めたマフィアたちに存在感を示し、すっかり財布を空にしたヘンリーは酔いつぶれた黒豹を肩に担ぎ、呆然とするルーネの手を引いてグレイウルフ号へ戻るのであった。
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