暗流 ⑤
婦人らとの談笑でこれといった情報を得られなかったダラスは、穏やかな微笑の中に激しい苛立ちを隠していた。
黒幕の察しは大体ついているが明確な証拠がない。
決定的なものが無ければ他の貴族たちに協力を頼むことも出来ず、むしろ、既に貴族たちも大公側に靡いている可能性の方が高い。
不用意に動けばそれだけ我が身を滅ぼすことになりかねないのだが、そんな時に件の大公から呼び出しを受けたダラスは、背筋に寒気が走った。
が、逃げ出すわけにもいかず、呼びにきた使用人に一言わかったと告げて、名残惜しむ婦人らを丁重に断って大公の執務室へ赴いた。
もしも事が知られていれば命は無いかもしれない。
なにせ、皇女を、実の姪すらも手にかけるような男だ。
たかが男爵一人を始末するくらい造作も無かろう。
目の前の扉を開けた瞬間、凶弾が飛んでくるかもしれない。
あるいは刺客の刃に斃れるかもしれない。
執務室の扉が地獄へ続く門のように思えてならなかったが、ダラスは居住まいを正し、軽くノックをした後に執務室の扉を押し開けた。
弾も飛んでこず、刺客の姿も無く、覚悟を決めて一歩踏み込んだだけにダラスは拍子抜けしつつも内心胸をなでおろした。
執務室には大公ジョルジュだけがいた。
秘書も使用人も侍らせておらず、ダラスの来訪を妙な笑顔で出迎えた。
「やあ、男爵。茶会の邪魔をしてしまったかな?」
「いえ。無作法ものゆえ、あのような華やかな場は中々慣れぬものでして。大公殿下におかれましてはご機嫌麗しゅう」
「いやいや、今は二人きりなので堅苦しい挨拶は無しだ。久方ぶりに言葉を交えたく思い立ったまでのこと。まあ、かけなさい。我らの祖先は共に国を興した同志。子孫たる我々もまた同じであろう?」
これが何の気兼ねもないやりとりであればどれほど良かったことか。
されど目の前にいる男は帝位を我が手でもぎ取ろうとしている。
ダラスは警戒心を解かぬまま椅子に腰掛け、ジョルジュと真っ向から対峙した。
「皇女殿下の件は、誠に遺憾の極みで御座いました。お悔やみ申し上げます」
「今となっては詮無きこと。せめて神の御下で安らかに国の行く末を見守っていてほしいものだ」
溜息を吐くジョルジュにダラスがさらに問う。
「ご葬儀の日取りはいつ頃をお考えで?」
「早急に執り行うつもりではあるが、今は片付けねばならぬ問題が山積みだ」
「やはり皇帝に即位されるおつもりか?」
「致し方ないこと。玉座の空白は他国に付け入る隙を与える」
「殿下は何者かに暗殺されたという噂を耳に致しましたが?」
核心に触れると大公の眉がぴくりと動いた。
「海賊の仕業とのことだ。確か仇討ちに赴いたのは君の娘だと聞いているが、結果は芳しくなかったようだな? それどころか、あらぬ風説を流していると聞くが」
ジョルジュは多少眉間に皺を寄せ、厳しい声色でダラスを威圧した。
「と、いいますと?」
とぼけてみせるダラスにジョルジュは席を立って迫る。
「知らぬと言うか? まさか。貴公が何の企みもなく毛嫌いする茶会に顔を出し、さらに娘が謹慎中にも関わらず軍内を動き回っていることが、全くの偶然だと? 本当に?」
ジョルジュは懐から黄金の装飾が施されたピストルを取り出した。
「貴公の娘は殿下暗殺犯たるヘンリー・レイディンの脱獄を手引した。これは明確なる国家反逆罪である。よって今しがた海軍大臣に彼女の権限を剥奪する旨を命じた。貴殿もつながっているとなれば、只で済むわけがあるまい?」
こめかみに銃を押し付けられたダラスはギロリとジョルジュを睨む。
「私を撃つと仰せか?」
「裏切り者は消さねばなるまい?」
「裏切り者? ははは! 何を莫迦な! 裏切ったのはあるいは大公、貴方ではないのか! 殿下に船旅を唆し、ヘンリー・レイディンに襲撃の依頼を持ちかけたのはあなたの差金ではないのか! 殿下が未だご存命であることも既にご存知のはずではないのか!」
激昂したダラスがあらん限りの怒声を以って銃を向けられているという恐怖を打ち払い、次の答えによってどう動くか考えている内にジョルジュが引きつった笑みを浮かべてみせた。
「何を世迷い言を……ルーネフェルトは死んだ。帝国を継ぐべき皇女は既におらぬ! 仮に生きていたとしても、既に皇位継承権は議会によって吾輩に決したのだ! 何の力もないただの小娘に何が出来るものかよ」
「これは簒奪だ! 貴様は逆賊として永劫罵られることだろう!」
「たわけが。吾輩はブレトワルダ家の男。亡き皇帝の弟であるぞ。逆賊はダラス・ドゥムノニア……貴様だ。衛兵!」
大公の一声によって武器を携えた衛兵たちが部屋の中になだれ込んできた。
予め部屋の外に控えさせていたのだろう。正面に銃を携えたジョルジュ、背後には多数の兵士。八方塞がりの状況にあって、ダラスはあくまで毅然とした態度を崩さない。
「大公が男爵を殺めたなどと、まして皇女さえも……亡き陛下もさぞ嘆いていることだろう!」
「もはや語る舌を持たず!」
きらびやかな宮殿内に、一発の銃声が響き渡った……。
艦隊司令から逮捕令状を突きつけられたローズは暫し呆然となり、一方的に並べ立てられた宣告を理解するごとに、その白く美しい顔に怒りが込み上がった。
――先手を打たれた!
血が滲むほどに歯を食いしばり、そうこうしている間にも刺客が追いつき、父と同じくかつて味方であった者たちから銃や刃を向けられたローズは決断を迫られる。
否、悠長に考えるだけの余裕などありはしなかった。
ローズは脇目もふらずに船の舷に飛びつくと、そのまま頭から蒼く透き通った海中に身を沈めた。優雅に泳いでいた小魚たちが一斉に四散し、しなやかな体捌きで深く静かに潜っていく。
水上から撃ち込まれた弾丸が水泡の尾を引いて彼女の後を追うが、ゆらりと揺れる髪の間をすり抜けただけで事なきを得、彼女は停泊する軍艦の船底を伝いながら虎口を脱した。
時折船の陰に顔を出しては息を吸い込み、さらに潜ってなるべく兵たちが少ない岸壁を目指す。自身が逃げることにも必死だが、宮殿に探りを入れている父の安否が気になってならない。
軍港では無数の兵士たちが既に展開を始めており、下された命令は考えるまでもないが、ローズは岩陰に隠れつつ厳戒態勢が敷かれた港から離れた岩場に身を隠した。
できれば馬が一頭ほしいところだが、周囲を見渡してもそう都合よくあるものではない。
体もすっかり海水に濡れて重たく、走ろうにもブーツがぐしょぐしょで上手く歩くことすらままならない。もはや帝都に近づくことすら叶わなくなった彼女が絶望に暮れていると、不意に草原を駆ける馬蹄の音が聞こえた。
もう追手がきたのかとサーベルの柄に手をかけ、岩の陰から音のする方向を伺うと、ドゥムノニア家の私兵が単騎で辺りを駆けまわっていた。
「ローズ様! ローズお嬢様は何処に!」
よもや裏切って油断したところを捕らえるつもりではないかと疑ったが、他に為す術もなく、ただ神の助力を願って岩陰から身を出した。
「私はここだ」
「おお、そちらに居られたか! 兵士どもが騒いでおりましたのでお探ししておりました」
下馬した私兵が彼女の足元で跪く。
「ご苦労。父上は?」
「未だ何の報せもございませぬ。今は他の者が宮殿にて待機しておりますが……ここも危のうございます。一旦お屋敷にお戻りください」
「だが馬が無い」
「わが愛馬をお使い下さい。我らは旦那様と共に後ほど」
「私に父を置いていけと言うのか! 軍は既に敵の手中! ならば父上も!」
叫び、宮殿へ向かって進もうとするローズを、彼は断固たる思いで肩を掴み止める。
「無礼な! 手を離せ!」
「いいえ、離しませぬ。我らの使命はお二人を守護すること。既にお嬢様は軍に追われ、都の至る場所に兵たちがひしめいております! そのような場所に、そのような格好で乗り込めばどうなるか……お分かりのはず」
「……くそっ!」
携えていたサーベルを地に叩きつけ、彼女は己の無力さを嘆き、糸が切れた人形のように崩れ落ちていく。それを優しく抱きとめた兵士は馬に彼女を乗せた。本来の覇気など見る影もない彼女は手綱を握るだけで精一杯の様子で、賢き愛馬が真っ直ぐに屋敷へ戻ることを願って尻に鞭を入れた。大きく嘶いた駿馬が野を駆ける。
何故こんなことになってしまったのか……もしも父の身に何かあれば、ドゥムノニア家はどうなるのか、母は、使用人たちは、領民は、そして自分自身は……。
気づけば涙があふれていた。止めどもなく、拭う気力もなく、さながら夜空を滑る流星のように煌めきながら散っていた。
星空に不吉な赤い月が浮かび上がった夜半、屋敷にローズが馬とともに転がり込んだ。
執事も使用人も突然の帰還に慌てふためき、冷えきった体を震わせるローズの意識は絶え絶えで執事の呼びかけにも反応出来ず、すぐに湯浴みの用意を整えて冷えた体を温めた。
徐々に朦朧とした意識がハッキリとするに連れて思考も冷静さを取り戻し、充分にとはいえないが体力が回復した彼女はすぐに帝都の様子を探らせるためにさらに私兵を送り込もうとしたとき、ダラスの護衛についていた兵が都から戻ってきた。
身体は血に
跨っていた馬も無数の銃弾を撃ち込まれており、屋敷に至ったと同時に息絶えた。
「どうした! 何があったのだ!」
「……旦那様……は、ご無念……っ」
虫の息でダラスの最期を告げた兵士は、震える手で一枚の布切れを取り出す。
「これを……お嬢様に――」
「おい! おい!」
幾度呼びかけても忠義を果たした兵は土へ還り、彼が命をかけて届けた羊皮紙を私室にて開いた彼女は、今は亡き父ダラスに心から感謝し、そして不孝を詫びた。
父に付き従い、宮殿の衛兵たちの手によって斃れた勇者たちを讃えた。
どす黒く、酸化した血が染み込んだ布切れに、父が愛用していた上着の切れ端に書かれた血の一文。
大公ジョルジュ、帝位簒奪。
一体如何にして父がこの真実に至ったのか、ローズには知る由も無かったが、これで倒すべき敵の姿をハッキリと捉えた。
父の形見を握りしめ、揺れる蝋燭の炎を見つめていた彼女のもとに、母が訪れた。
「ローズ……何かあったのですね?」
「私は、母に顔向けが出来ませんっ」
部屋の影に立つローズは母に背を向けていたが、そんな娘の背を母は優しく抱きしめた。
「いいのです。あなたの所為ではないのですから。父上も、きっとあなたをお許しになるはず」
「母上……」
「行きなさい。あなたはあなたの使命を果たしなさい。それが、父上に対する唯一の恩返しなのですから。まもなく追手がここへ来るでしょう」
「しかし、母上は?」
咄嗟に振り向いたローズの頬に、母の唇が触れた。
「わたくしは大丈夫。これでもドゥムノニア家の妻です。あなたが帰る場所は、わたくしが守ります。後顧の憂いなく、駆け抜けなさい。今までのように、ただ真っ直ぐに。それがあなたの生き方なのでしょう?」
「母上!」
強く抱擁する可憐なる母娘。扉に隠れて様子を伺う執事は滲んだ涙をハンカチで受け、すぐにローズに必要な物品や金を使用人たちにかき集めさせた。
眠りについていた町の店という店を叩き起こし、馬屋から駿馬を拝借し、鍛冶屋の家宝であった業物を徴用し、されど領民たちは颯爽と白馬に跨る麗しき騎士の姿を前に不平不満を口にするものはいなかった。
門が開け放たれ、篝火に照らされた愛する者達の顔に見送られた彼女は海を目指す。
波濤の彼方、最果ての港で
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