VOYAGE 7

寄港 ①

 収監されたその日のうちに監獄島アビスを脱走したレイディン海賊団を乗せたグレイウルフ号は、進路を北西に向けていた。皇女直属の私掠船となり、彼女を帝都へ連れ帰ると契約した今となっては、ひとまず帝国を目指さねばならない。


 だがグレイウルフ号は傷つき、水夫も食料も不足している状態ではとてもではないが都にたどり着く前に軍艦に補足されるか、あるいは力尽きて幽霊船が一隻出来上がるとウィンドラスが分析した結果、ヘンリーは行き先を帝国の西方へ定めた。


 波間を進む灰色狼の船内、ドクター・ジブの治療を受けた騎士ローズは未だ意識を取り戻さぬまま、ルーネと同じく水先案内人用のベッドに横たわっていた。


 ヘンリーが放った弾丸は内蔵を逸れて貫通しており、なんとか一命は取り留めた。


 看病のために今もなお付き添うルーネは彼女の銀色の髪を優しく撫で、早く目を覚ますように祈りつつ、額に載せていた濡れタオルを取り替える。


 多くの水夫たちは何故船長がローズを助けたのか解せなかった。

 しきりに部屋を覗き見ては黒豹やルーネにどやされ、かといって直接ヘンリーに理由を尋ねる度胸もない。ウィンドラスに聞いてみても、うまい具合にはぐらかされてしまう。


 というのもウィンドラス自身、彼の意図するところが見極められずにいた。


 今まで幾度となく神の教えに背き、不要な殺生を繰り返してきた彼が、あろうことか敵である帝国の軍人を助けた。あるいはルーネの懇願があったのかもしれないが、果たして彼が他人の意見を聞き入れるような人物だっただろうか。もしも一連の事件で彼に何らかの変化があるのなら、あるいはもう少しマトモな人間になるかもしれない。


 という、淡い期待を抱いたウィンドラスは海図室にて航海計画を纏めた。


 件のヘンリーは風通しがよくなった船長室にて紫煙をくゆらせていた。

 今回の航海は自分たちにとっても、またルーネにとっても危険極まりない旅路になるだろう。


 帝都へ続く湾口の噂は聞き及んでいる。

 複雑な潮流、無数の砲台、湾内にも軍艦が控えているはず。マトモに乗り込めばあっという間に海の藻屑だ。

 同時に彼女の暗殺を仕組んだ首謀者も突き止めねばならない。

 たかが一船乗りにはあまりにも重すぎる仕事だった。


 我ながら厄介な誓を立ててしまったと自嘲し、考えるのに疲れた彼は包帯で巻かれた肩の傷を気にしつつ甲板へ出た。部屋の中に閉じこもっていては気分も滅入る。出港の時に比べて見知った顔はずいぶんと減ってしまった。


 幸いにも頼れる幹部が欠落しなかっただけでも良しとすることとし、彼の体を案じる黒豹たちからかけられる声を適当に聞きながら、彼は指揮所に立って望遠鏡を覗きこむ。時折商船の姿も見えたが、今は襲撃している余裕はない。


 少し前ならば非武装の商船もいたろうが、今となっては少なからず武装している。


 無駄なリスクを避け、まっすぐに目的地を目指した。


 時刻が正午に近づくとハリヤードが食事の支度を始め、ローズの看病をタックに任せたルーネが厨房を訪れた。


「ルーネちゃんも存外に、頑固なんだねぇ」


 にこりと笑ったルーネは残り少ない干し肉を切り分けていく。

 リンジー島で積み込んだ水も僅かで、スープなどの類はなし。


「お水が無くなったときはどうすればいいの?」


「水は腐るけど酒は腐らない。大半の船乗りが酔っ払っている理由はそれさ」


「ああ……そういうこと」


「ところで、あの子の様子はどうだい? まだ目を覚まさないようだが」


「……プライドが高い人だから、起きたときのほうが不安よ。舌を噛んだりしなければいいけど」


 ルーネから看病を引き継いだタックはローズに不快感を覚えていた。

 なにせ一度は自分たちを牢屋に押しこめ、船長を縛り首にしようとした敵だ。

 彼女は軍人だ。軍人は賊を討伐するのが職務。しかし彼は簡単に割り切れるほど大人ではない。ルーネが助けて欲しいと言わなければ、船長が手を出すなと命じなければ、眠っているローズの細首をナイフで掻き切っていたかもしれない。タックだけではなく、この船に乗る水夫たちが黙っているはずがないのだ。


「チェッ、なんだってこんなやつ」


 額に乗せた濡れタオルを換えようと手を伸ばしたとき、不意にローズの手がタックの腕を掴んだ。


「うわっ!」


 突然のことで驚いたタックが身を引こうとしたが、強い力で引きずり込まれ、腕の関節を締めあげられた。


「いたた! な、何するんだよぉ! 離せよ!」


「子供か。波の音がする……船の中……レイディンの船か?」


「ああ、そうだよ! ルーネと船長があんたを助けたんだい!」


「くっ! このような屈辱……うぐっ!」


 ベッドから起き上がろうとしたローズは傷口の激痛によって伏した。


「無理するなよぉ。その怪我じゃまだ動けないって」


 苦しみ、うめき声をあげる彼女の顔を覗き見ると、ローズは枕を涙で濡らしていた。


「なぜ……なぜ一思いに死なせてくれなかった……私は、殿下が何をお考えなのかわからない」


 むせび泣く女の扱いなど知る由もないタックは伝声管でヘンリーにローズが目覚めたことを伝え、さらにルーネにも同じ旨を告げた。


 ちょうど昼食を作り終えていたルーネはハリヤードの無言の促しもあってすぐに部屋に向かい、途中の通路でヘンリーと鉢合わせた。


「あっ、船長。今タックが――」


「わかっている。お前はちょいと遠慮してくれ。まず俺が話す」


「でも、船長だとまた喧嘩になるんじゃ……」


 不安がる彼女の眉間にヘンリーの指が突き立つ。


「あのな、俺は別に争いが好きなわけじゃねえ。傷ついた女を撃つ趣味もない。一つはっきりさせておくが、陸ではいざしらず、この船の上では俺が船長でお前さんは見習いだ。オーケー?」


「は、はい……」


 気圧されたルーネが引き下がり、ヘンリーがドアをノックして入室すると同時にタックが慌てて部屋から出てきた。二人してドアに耳をつけて中の様子を伺うと、ヘンリーは椅子をベッドの前に置き、どかりと座って枕に顔を伏せる彼女にあくまで穏やかな声をかけた。


「枕にキスをする趣味でもあるのか?」


「……貴様に、情けない顔を見られたくないだけだ。なぜ殺さなかった? 殿下の御命令か?」


 ローズの問を彼は一笑に付す。


「俺が誰かの命令に従うと思うか? 自慢じゃねぇが、俺は物事の損得ってやつは心得ているつもりだ。損になるやつは殺すし、得になるやつは生かす。たとえ男だろうが女だろうが、だ」


「私を利用する気か? そんな手に乗るとでも?」


「乗るさ。なにせ、大切な皇女様の命が、帝国の将来がかかっているんだからな。あんたは乗らざるを得ないだろうよ。その見上げた忠誠心を考えりゃ。だからこうして客人として迎えている。普通なら船倉の牢にぶち込んでやるところだぜ」


「客? 客だと? ふははは、まさか海賊に客として扱われる日がくるとは思わなかった。こんな辱めは生まれて初めてだ!」


 枕に埋めていた顔を上げた彼女の目の周りは涙で真っ赤に染まり、自虐的な笑みがなんとも痛々しかった。なまじ顔立ちが端正なだけに見るものによってはそそるものがあるだろうが、ヘンリーは嗤うことも呆れることもなく、真っ直ぐに彼女の紅い瞳を見据えていた。


 そして何を思ったのか、彼は居住まいを正し、両手を両膝の上に載せて頭を垂れた。


「これ一回きりだ。頼む、あんたの力を貸して欲しい。俺のためではなく、あの嬢さんのためだ。敵が帝国中枢にいるとなっちゃ俺の力だけではとても手が届かん。だがあんたなら手が届くはずだ。次の港であんたを解放する。頼む。敵を探ってきて欲しい」


 ローズの頭は混乱の極みに達した。あの海賊が、血も涙もないと言われたヘンリー・レイディンが、敵であるはずの己に真摯に願い出ている。しかも自分のためではなく、皇女のために恥を忍んで頭を下げるなど、彼女の理解の範疇を超えていた。


「私を解放すれば、またお前を討伐するかもしれないぞ? 今度は艦隊を率いてくるかもしれない。なぜ私をそこまで信用する? なぜ貴様が皇女のためにそこまでする?」


「さあ、俺にもよくわからん。分からんが、あいつはあれほど欲しがっていた自由を諦めてでも国へ戻ろうと決めた。そして最後まで俺を頼りにしてくれるとあっちゃぁ、応えんわけにもいかんだろうが。第一、俺に残された道もこれしかねえんだ。楽しく図太く短く生きるのがモットーだが、このまま海を彷徨った末に死ぬのは実を言うと御免だ。部下たちもいつまでついてきてくれるか分からん。ならばあの嬢さんを玉座に座らせ、再び私掠免状を勝ち取るしか俺達が生き残る道なんぞない。あんただって同じはずだ。このままじゃぁ、お前さんも海賊に敗れた負け犬ってことになる。だがあいつが女帝になりゃ、お前さんは英雄だ。俺に、あいつに、力を貸してやってくれ」


 切羽詰まった彼の声色にローズの昂ぶりも徐々に冷め、目の前にいる男が、あるいは同じ海軍であったならば、どれほど良かったことだろうと素直に思った。もっと別の形で出会えていれば、ただの船乗り仲間として出会えていれば、どれほど良かったことか。


「そうやって、多くの船乗りたちを言いくるめてきたのか? 狡い人だ。これで断ったら、私は暗殺グループに手を貸すことになってしまうじゃないか。本当に狡いよ、あなたは」


「今すぐに返事をしろとは言わん。港まであと少しかかる。ゆっくり考えてくれ」

「どこの港だ? 他国か?」


「帝国の西側さ。キングポートに匹敵、いやそれ以上に面白い港かもな。話は終わりだ」


 席を立った彼をローズが呼び止める。


「レイディン……なぜ賊になどなった? 軍に入っていれば、輝かしい道を開けただろうに」


「ハハッ、そいつは無理な相談だ。まあ養生してくれ。何かありゃ、さっきのキャビンボーイを使ってくれ。じゃあな」


 ドアを開けると密着していたルーネとタックが廊下に転がった。

 呆れた顔をする船長に笑って誤魔化す二人の額にデコピンが炸裂し、ルーネに入室を促したが、彼女は首を横に振る。


「言いたいこと、全部船長が言ってくれたもの」


「お前も段々悪党になってきたじゃねえか」


「えへへ、誰の見習いをやっていると思ってるの?」


「そりゃそうだ。そら、二人共仕事に戻れ。手が足りんからどんどん動いて貰うぞ」


 背をポンと叩いたヘンリーは再び甲板に上がり、部下たちを労いながら海図を睨む。


 悪党たちがひしめき合う最果ての港を……。


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