監獄 ⑤
ようやく報告書を纏めあげたローズは鳴り響く警鐘で椅子から飛び上がり、ただごとではないと剣を携えて所長室に踏み込んだ。
伝声管から次から次へもたらされる報告に怒り心頭になった彼の顔はトマトのように赤く染まり、また部下に下す指示も要領を得ないものばかり。
やれ逃すなだ、やれ現場でどうにかしろだ、とにかくお粗末極まりない命令の数々にローズも頭痛を覚えた。
当然現場で必死に鎮圧しようとしている兵士も右往左往する命令に慌てふためき、対して初動の混乱によって幾人かの兵士を始末し、武器を奪った手練の海賊たちに押されつつあった。
数の上で圧倒的に優位であっても、その数を活かしきれるほど施設内は広くない。
むしろ船という狭い空間で戦い慣れた海賊たちの勢いにタジタジだった。
ローズは喚き散らす所長の手から伝声管の受話器を引ったくり、現場の責任者に尋ねた。
「脱獄した敵は何人か?」
「20人ほどであります! 現在、正面ゲートにて交戦中! 敵は我が隊の武器を奪い、抵抗を続けつつあり!」
「それほど多くはない! 落ち着いて包囲し、各個撃破に努めよ。敵の詳細は分かるか?」
「て、敵は……敵は、レイディンの一味です!」
レイディンと聞いた彼女は受話器を取り返そうとする所長を蹴飛ばしてさらに問う。
「特別房のレイディンはどうした! 逃げ出したのは一味だけか!」
「そちらの方は不明です! こちらは足止めで手一杯で――」
受話器の彼方から銃声が聞こえ、今の今まで話していた者の声が途絶えた。
「おい! 応答しろ! くそっ!」
悪態をつきながら受話器を壁に叩きつけたローズは苦悶の顔を浮かべる所長を無視して廊下に飛び出し、マントを翻しながら特別房へ向けて駆けた。
ここの連中は練度もなっていなければ士気も低い。
こうなれば我が手で直接処刑してくれると息巻く彼女が階段を一息に飛び降り、さらに下の階層へ移ろうとしたとき、視界の端に別の通路を走る男女の姿が映り込んだ。
反射的にそちらへ向くと、皇女を伴ったヘンリーが何処かを目指していた。すぐに後を追うローズは頭の中に描いた見取り図から導き出した行き先は……。
一方、特別房から脱したヘンリーはルーネの導きに従って無人の通路を駆け抜ける。
武器は彼女が託した銃とサーベルのみ。
目指す先は兵士たちが使う非常用の脱出口。
本来は火災などによって緊急避難用に設けられたものだが、石造りの建物が早々出火騒ぎになることもなく、長らく放置されていることを女看守から聞かされていた。
本人は防火意識の高さを自慢したのであろうが、こうして脱獄に使われるとは思いもよらなかったことだろう。時折見かけた兵士たちもヘンリーの拳によってノックアウトの憂き目を受けていた。他の仲間たちを案じる彼女に、ヘンリーはニヤリと笑いかける。
「警報が鳴り止まないってことは連中も逃げ出したってことよ。そうそうくたばるような奴らじゃねえって。次はどっちに曲がるんだ?」
「ええと、右を真っ直ぐ! それから待機室を抜けて非常階段を下りていった先!」
「あいよ。とっととおさらばするとしますかね」
と、無人になっただだっ広い待機所を抜けようとした二人の間に弾丸が飛来し、壁に穴を開けた。
「そこまでだ。罪人」
硝煙を立ち昇らせるフリントロックピストルを構えたローズが、ヘンリーとルーネを睨む。
「殿下……何を下らぬお戯れをなさっているのですか? ご自身が何をしているのか、理解されているのか!」
「勿論よ、ローズ! 私は黙って連中の思惑通りに殺されたりなんてしない! それに彼は罪人ではないわ! 先ほど、彼に騎士爵を叙しました。次期女帝、帝国皇女の名のもとに、暗殺グループから救って頂いた功績により、彼を帝室直属の私掠船に任じました!」
「なっ……!」
ローズは耳を疑った。
目の前にいる海賊が、あろうことか自身と同じ士爵に叙されたなど認められようか? 薄汚い海賊が皇女の寵愛を受けるなど許されようか?
ローズの胸に燻っていた憤怒が一挙に解き放たれた。
やはりこの男は危険すぎる。決して生かしてはおけない、と。
「成る程……それが殿下の意地ならば、私は私の意地を通させて頂きます! ヘンリー・レイディン! 騎士として、貴様に決闘を申し込む! 生きるか死ぬか、恨みっこなしだ」
ルーネがヘンリーの顔を見上げると、彼は狩りのときと同じような、獣じみた顔を浮かべていた。
「恨みっこなしの決闘ねぇ。面白い。女だからといって容赦はしないぜ? 俺は男女平等主義なんだ。で、得物は何だ? チャカか? それとも人斬り包丁か?」
「ふふ、騎士らしく、己の刃に命を託そうじゃないか」
サーベルを抜いて騎士の礼を取る彼女に、ヘンリーもまた獲物を抜き払う。
「サーベルよかカットラスのほうが得意なんだがな。まあいいか。では皇女殿下、ちぃと離れていてくれるか? こっから先は犬と狼の大げんかだ!」
言うやいなやヘンリーは待機室のテーブルをローズに向かって蹴り飛ばし、咄嗟に避けた彼女の頭上に刃が振り下ろされた。甲高い金属音が鳴り響き、二人の刃が火花を散らす。
「卑怯者め!」
「俺を誰だと思ってやがる」
眼前にまで迫る刃を押しとどめる彼女は身軽に体を捻ってヘンリーの脇腹に蹴りをめり込ませ、反撃に転じる。片手で軽々と繰り出される鋭い突き。殺傷力は低いが、確実に相手を追い詰めていく戦法だ。が、格式高い剣術など齧ったこともないヘンリーの戦法は至極単純。
相手の喉を喰いちぎる一点に特化した、相手の死角に回りこんで必殺の一撃を叩き込む。
使えるものは何でも使う。机、椅子、それこそ花瓶に至るまで。
ローズが勝つための戦いならば、ヘンリーのそれは生き残るための戦いだった。
「猪口才な!」
徐々に剣戟で押されつつあるローズが八重歯をむき出しにした。
「どうした、どうした、番犬! 牙を突き立てろ、爪で引き裂け、でないと食い殺されちまうぜ?
余裕の笑みをニタニタと浮かべるヘンリーの挑発に彼女は初めて騎士であることを捨て、彼の言うところの獣となった。ローズは懐に隠し持っていたフリントロックピストルを抜き、ヘンリーの眉間めがけてトリガーを引く。
爆炎と共に放たれた弾丸は微かに首を傾けた彼の頬を掠め、部屋を照らしていたランプを粉々に砕き、流れだしたオイルに引火して詰め所が炎に包まれていく。炎は木製の家具やソファを飲み込み、連鎖するように他のランプがはじけ飛んだ。
「ヘンリー!」
叫ぶルーネにヘンリーは一言だけ答えた。
「行け」
その短い言葉に、ルーネは気づいた時には非常階段に続く扉を開いていた。
煉獄のような紅蓮の世界で銃口を向け合う二頭の獣。
真紅のコートが揺れ、黒い外套が翻る。
弾は互いに一発ずつ。
生きるか死ぬか、引き金に指をかける理由はたったそれだけのこと。
「……殺す前に、一つだけ聞いておく。貴様は殿下を……愛しているか?」
「ハッ、何を聞くのかと思えば。愛するとかそういうのじゃねぇんだよ。一度でも俺の船に乗り組んだ奴は……俺の家族さ」
鳴り響く銃声にルーネが振り返ったとき、炎の中からローズを肩に抱えたヘンリーが姿を見せた。が、肩口から赤黒い血が彼のシャツを染めている。
「……ローズは?」
「気絶しただけだ。腹に鉛球を撃ちこんでやったが急所は外してある。さっさとずらかろうぜ」
夜の闇を要塞の灯りが照らし、まるで島全体が燃えているように、至る所で篝火が焚かれていた。先に脱獄していたウィンドラス以下の海賊たちはグレイウルフ号まで目前に迫っており、城壁から放たれるマスケット銃も地面を抉るだけで一向に当たる気配がない。
彼らの腕が悪いわけではない。視界が効かない夜間、しかも相手は機敏に動きまわるとなればどだい無理な話。牽制のために弾幕を張るだけに留まり、海賊を足止めして包囲すれば良いと判断した現場の指揮官は中々のものといえた。しかし現場が賢くとも上が無能では如何ともし難いもので、所長はあくまで生け捕りに拘った。
兵士も上官の命令には従わざるをえない。
グレイウルフ号を確保した海賊たちは城壁などからしきりに射撃している兵に向かって砲を撃ちまくり、少ないながらも帆を展開しつつあった。係留索を斧で切ろうとしたタックがルーネとヘンリーの姿を確認し、皆に大声で報せる。
「ルーネだ! ルーネが船長を連れてきたよ!」
すぐにタラップが岸に渡されてルーネとヘンリーが船に駆け込み、係留索も解かれたグレイウルフ号が水門に向かってゆっくりと進む。
「ウィンドラス! 危うく置いて行かれるところだったぜ!」
「船長なら来ると信じていましたから。お怪我は?」
「かすり傷だ。それより、こいつを早くジブに診せてやってくれ。ルーネも手伝え」
「はい!」
気絶したローズをジブの部屋へ運ばせたヘンリーは、目の前に立ちふさがる水門に唸る。
「で、ウィンドラス君。どうするよ? あれ」
「問題ありません。兵士に化けたキールが騒ぎに紛れて入り込みましたので」
「ああ、また腰を悪くするぜ? あの爺さん。あとでボーナスを支払わんとな」
兵士の服を着たままだったキールは水門の傍らに設けられた操作室に入り込み、金槌で当番を殴り倒し、開門のレバーを引いた。歯車と水圧式のポンプによって徐々に水門が開き始め、グレイウルフ号が通過する際にカギ付きロープをマストに引っ掛けてキールが甲板へ転がり込む。
「あいたた……バカタレどもが。年寄りに無理をさせおってからに」
腰を叩くキールの背後、監獄島の一部から巨大な火柱が上がった。
待機室の炎が武器庫や弾薬庫にまで引火したらしい。
派手な花火に水夫たちは歓声を上げ、灰色狼は脱獄不可能と称された檻から海原の彼方へ消え去るのであった。
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